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現代新聞表記で「芸術論覚え書」を読む<10>芸術に指導原理などというものはない! 


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【前回より続く】

現代新聞表記で
第22、23段落を読みましょう。

なぜ、わが国の現在は芸術が発展しないか。
なぜ、わが国に批評精神は発達しないか。

この二つの問いを立て
答える形の段落が続きます。

改行を入れて読むと
分かりやすくなります。

まず、第22段落。

一、なぜ、わが国の現在は芸術が発展しないか。

――何事も最初にプランがあって次にその実施がある。プランは精神的作業で、実施は肉体的作業である。このことは時代としてみても、(比較的の話だが)プランの時代と実施の時代がある。今はいずれかといえば、実施の時代である。実施の時代には、低級な事が跋扈しやすい。

つまり、名辞以前の世界が見過ごされがちである。こんな時には、芸術的素質のある者は必要以上に辛いのである。そんな時には芸術が発展しにくい。

――今やようやく実施ははばを利かしてきつつある。すなわち前の時代のプランはようやく陳腐なものに感じられつつある。そんな時、人はいわゆる指導原理を欲するようになる。しかし、芸術に指導原理などというものはない! 

それどころか、芸術は指導原理を気にしないでいられる域に住んでいれば住んでいるほど始められる生命能力である。指導原理だとか何だとかと声を涸らしていることが、みんな空言であったと分かる日がいずれ来るのである。

だが振り返って考えてみれば、そういうことが流行している今でも、そういうことを口にしている人は、現実感をもって言っているはずはない。もともと木に竹をつなげるとでも思っていられるほどの馬鹿でなければ、芸術に指導原理だなんてことを言えるものではない。

しかも彼らを黙らせるには、たぶん良い作品の誕生が盛んになってくること以外に方法はない。面白いものが現前しはじめれば、ようやく実感は立ち返ってくるものだ。それから彼らだって、まったくの空言は吐かないようなものだ。

ものごとは、プランがあって、次に実施される。
プラン&ドゥ、plan and doである。

プランは精神的作業、実施は肉体的作業。
今は、実施の時代で、低級なことが花盛りである。

名辞以前がないがしろにされるからである。
こんな時代には、芸術的素質のある者はつらい。
芸術は発展しにくい。

今、実施が盛んで、前時代のプランは陳腐に感じられる。
こういう時には、指導原理が欲しがられるが
芸術に指導原理なんて要らないし、ないのだ!

指導原理を気にしないでいられればいられるほど
芸術は始められる生命能力なのである。

声を枯らして指導原理が喧伝されることが
空言であったと顧みられる日が必ずやって来る。

――など。

第23段落。
以下、改行を入れた現代新聞表記にしました。

一、なぜ、わが国に批評精神は発達しないか。――名辞以後の世界が、名辞以前の世界よりもはなはだしく多いからである。

万葉以後、わが国は平面的である。

名辞以後、名辞と名辞の交渉の範囲にだけ大部分の生活があり、名辞の内包、すなわちやがて新しい名辞となるものが著しく貧弱である。したがって実質よりも名義がいつものさばる。

その上、批評精神というものは名義についてではなく、実質について活動するものだから、批評精神というものが発達しようがない。(たまたま批評が盛んなようでも、言ってみればそれは評定根性である)。

 つまり、物質的傾向のあるところには批評精神はない。

東洋が神秘的だなどというのはあまりに無邪気な言い分に過ぎない。

「物質的」に「精神的」は抑えられているので、精神は隙間からちょっぴり呟くから神秘的に見えたりするけれど、もともと東洋で精神は未だ優遇されたことはない。

名辞以後、名辞と名辞の交渉の範囲にだけ大部分の生活があり、名辞の内包、すなわちやがて新しい名辞となるものが著しく貧弱である。したがって実質よりも名義がいつものさばる。

この部分が、やや難解です。

名辞の内包。
名辞の内実とか、実体とかが近いでしょうか。
やがて新しい名辞となるもの。
名辞以前とほぼ同じこと。

これが貧弱な
名辞以後ばかりの世界。

名辞と名辞の交渉の範囲にだけ大部分の生活がある世界。
だから、実質よりも名義がのさばっている世界。



ほかは補足しないでも通じますか。

途中ですが、今回はここまで。

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