中原中也の評論「宮沢賢治の世界」を現代新聞表記で読む<その1>
中原中也には
「宮沢賢治の世界」のタイトルの評論があります。
「芸術論覚え書」と同じく
中原中也の死後に
弟の中原呉郎によって発表されました。
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「芸術論覚え書」を読んだように
現代新聞表記でこの「宮沢賢治の世界」を
まず読んでみましょう。
原作にはない
読点や改行・行空きを加えて
やや強めの現代表記を行っています。
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宮沢賢治の世界
人性の中には、かの概念が、ほとんど全く容喙出来ない世界があって、宮沢賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であったと言うことが出来る。
その世界というのは、誰しもが多かれ少なかれ有しているものではあるが、未だなお、十分に認識対象とされたことはないのであった。
私は今、その世界をいささかなりとも解明したいのであるが、とうてい手に負えそうもないことであるから、仮に、そういう世界に恋着した宮沢賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあろうところの事を、かにかくにノート風に、左に書き付けてみたいと思う。
一、「これは手だ」と、「手」という名辞を口にする前に感じている手、その手が感じていられればよい。
一、名辞が早く脳裡に浮ぶということは、少なくも芸術家にとっては不幸だ。
名辞が早く浮かぶということは、「かせがねばならぬ」という、二次的意識に属する。
一、そんなわけから、努力が直接詩人を豊富にするとは言えない。
一、面白いから笑うので、笑うので面白いのではない。
面白い限りでは、人はむしろニガムシつぶした顔をする。
やがてニッコリするのだが、ニガムシつぶしたところが芸術で、ニッコリするところは既に生活であるというようなことが言える。
一、人がもし無限に面白かったら笑う暇はない。
面白さが、ひとまず限界に達するから人は笑うのだ。
面白さが、その限界に達すること遅ければ遅いだけ、芸術家は豊富である。
一、芸術を衰退させるものは、固定観念である。
誰もが芸術家にならなかったというわけは、言ってみれば誰もが固定観念を余りに抱いたということである。
誰しも全然、固定観念を抱かないわけには行かぬ。
芸術家にあっては、固定観念がいわば条件反射的に抱かれているのに反して、芸術家以外では無条件反射的に抱かれているということが出来る。
芸術家にとって世界は、即ち彼の世界意識は、善いものでも悪いものでも、其の他いかなるモディフィケーションを冠せられるべきものでもない。
彼にとって「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、即ち名辞するとしてA=Aであるだけの世界の内部に、彼の想像力は活動しているのである。従って彼にあっては、「面白いから面白い」ことだけが、その仕事のモチーフとなる。
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一読して分かるように
書き出しの3段落を除き
「芸術論覚え書」の冒頭部が
ほぼそのまま記述されています。
微妙なこの変化があるのを
どう読んだらよいでしょうか。
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今回はここまでにしておきます。