中原中也の評論「宮沢賢治の世界」を現代新聞表記で読む<その2>
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【前回より続く】
人性の中には、かの概念が、ほとんど全く容喙出来ない世界があって、宮沢賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であったと言うことが出来る。
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この1行で、中也は宮沢賢治に関して積み重ねてきた思索を簡潔に表明します。
書き始めの、やや硬い物言いを、
後半、思い切る口調で吐露してのち、
距離を置いて、
姿勢を正した感じ。
かの概念とは
世間で言われている、あの概念という概念ではなく
概念そのものを、かの(あの)と呼んで
概念が容喙出来ない世界があることの了解を
まずは読者に求めたうえで、
宮沢賢治の一生が
その世界、概念が容喙出来ない世界への
間断ない恋慕だったと断言したのでしょう。
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その世界というのは、誰しもが多かれ少なかれ有しているものではあるが、未だなお、十分に認識対象とされたことはないのであった。
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その世界は、誰しもが多少持っているものだが
これまで、十分には認識の対象とした者はなかった。
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私は今、その世界をいささかなりとも解明したいのであるが、とうてい手に負えそうもないことであるから、
仮に、そういう世界に恋着した宮沢賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあろう事を、
かにかくにノート風に、左に書き付けてみたいと思う。
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私=中原中也は、その世界を少しでも解明したく思っているが、
とうてい手に負えそうもないことであるから
仮に、私が思うように、そういう世界に恋着した宮沢賢治であるならば、
もし芸術論を書いたとしたら
述べたに違いないであろうことを
あれやこれやとノート風に書きつけてみたくなった。
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一、「これは手だ」と、「手」という名辞を口にする前に感じている手、その手が感じていられればよい。
一、名辞が早く脳裡に浮ぶということは、少なくも芸術家にとっては不幸だ。
名辞が早く浮かぶということは、「かせがねばならぬ」という、二次的意識に属する。
一、そんなわけから、努力が直接詩人を豊富にするとは言えない。
一、面白いから笑うので、笑うので面白いのではない。
面白い限りでは、人はむしろニガムシつぶした顔をする。
やがてニッコリするのだが、ニガムシつぶしたところが芸術で、ニッコリするところは既に生活であるというようなことが言える。
一、人がもし無限に面白かったら笑う暇はない。
面白さが、ひとまず限界に達するから人は笑うのだ。
面白さが、その限界に達すること遅ければ遅いだけ、芸術家は豊富である。
一、芸術を衰退させるものは、固定観念である。
誰もが芸術家にならなかったというわけは、言ってみれば誰もが固定観念を余りに抱いたということである。
誰しも全然、固定観念を抱かないわけには行かぬ。
芸術家にあっては、固定観念がいわば条件反射的に抱かれているのに反して、芸術家以外では無条件反射的に抱かれているということが出来る。
芸術家にとって世界は、即ち彼の世界意識は、善いものでも悪いものでも、其の他いかなるモディフィケーションを冠せられるべきものでもない。
彼にとって「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、即ち名辞するとしてAーAであるだけの世界の内部に、彼の想像力は活動しているのである。従って彼にあっては、「面白いから面白い」ことだけが、その仕事のモチーフとなる。
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今回はここまでです。