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中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その31/蛙声(郊外では)


いちじくの葉の向こうにも青空がある

「蛙声(郊外では)」は
カワズゴエか
カエルゴエか
アセイか
読み方についての詩人本人の指示はなく
どう読んでいいのか確定できません。

「井の蛙、大海を知らず。されど天の青さを知る」
――ということわざがあり、
狭い場所にいては広い世界を見られないが、
大空の青さを知ることを意味します。
中原中也が天の青さを知る蛙の意味を
蛙声に込めたのかという問いには
ここで断言するのをやめますが
「在りし日の歌」発表の最終形に至るまでに
ことわざの後半部の意味を知らないではいなかったと
考えるのが自然です。

この井の中の蛙を井蛙(セイア)といい、
「蛙」は音読みで「ア」ですから、
蛙声は「アセイ」と読めますが、
中原中也がそう読ませたかったのかも不明です。

「在りし日の歌」の最終詩篇に
同名タイトル「蛙声」で
「天は地を蓋い、そして、地には偶々池がある。」と
はじまる有名な作品があり
「その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いているのであらう?」と
蛙が登場することも広く知られています。
(「四季」昭和12年7月号初出)

「桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロ鳴いていた」と
3回のルフランで歌われる
「桑名の駅」の蛙も心に残ります。
(「文学界」昭和12年12月号発表、昭和12年8月12日制作)

蛙が現れる詩は
ほかにもあるかもしれませんが
「ノート翻訳詩」中にも
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴こうと)
「Qu’est-ce que c’est?」
――の3篇があり
この「蛙声(郊外では)」に続きますが
これら4篇すべてが
昭和8年(1933年)5~8月の制作(推定)という点には
事件の匂いを感じないわけにいきません。

蛙 声

郊外では、
夜は沼のように見える野原の中に、
蛙が鳴く。

それは残酷な、
消極も積極もない夏の夜の宿命のように、
毎年のことだ。

郊外では、
毎年のことだ今時分になると沼のような野原の中に、
蛙が鳴く。

月のある晩もない晩も、
いちように厳かな儀式のように義務のように、
地平の果にまで、

月の中にまで、
しみこめとばかりに廃墟礼讃(はいきょらいさん)の唱歌(しょうか)のように、
蛙が鳴く。

蛙の鳴く声が
特別に詩想を掻き立てる理由があったのでしょうか。
詩人は
蛙をモチーフにした詩を
集中して4篇も歌ったのです。
その1番手が
この「蛙声(郊外に)」ですが
先頭の作品ですから

夜の沼のような野原で
蛙が鳴くのを
毎年の
残酷な
夏の宿命のような
月のある晩もない晩も
儀式のように
義務のように
地の果てにまで
月の中にまでしみこめとばかり
廃墟礼賛の合唱のように
蛙は鳴く
――と遠景で蛙をとらえ
外側から蛙にアプローチしていきます。

この詩には
「在りし日の歌」の最終詩篇である
「蛙声」の沈鬱さはありませんが
やがてはそこに通じていく
序奏のような響きが流れています。


最後まで読んでくれてありがとう!

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