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石丸さんへの批判や反感の正体

はじめまして。ごはんつぶ(トウタンマン)と申します。ごはんつぶ名義で脳科学を活用したライフハックをYouTubeで発信しており、トウタンマン名義で社会のテーマや人間の普遍的な悩みについての私見をお話ししています。

僕は今東京で主に癌の研究を行っています。春から東京に越してきましたので、残念ながら東京都知事選への選挙権はありませんでした。今回都知事選を機会に、たくさんの人たちの考え方をYouTubeで拝見しまして、そこで僕が感じたのは、自分の主張を言葉で紡いで伝える能力が、いかに人間にとって重要な能力であるかということです。およそ「人間の能力」というものはここにほぼ集約されるのではないかな、とさえ感じました。そこで、僕自身の伝える力を鍛えるために、今回は石丸さんをテーマに僕が考えていることを言葉にしてみようと思います。

タイトルは「石丸さんへの批判や反感の正体」です。僕自身は、以前からYouTubeで石丸さんの動画を拝見しておりまして、今も支持をしています。一方で、僕の友人の中には石丸さんに反感を持っている人たちもいます。また、昨今のテレビ番組やXにおいては、石丸さんへの批判の声が大きくなっているようにも思います。さらには、選挙後の石丸さんの言動をみて、支持をやめてしまったという方もいらっしゃいますよね。何故このようなことが起こるのか、僕の考えを話します。

この批判や反感は、石丸さんとアンチの方の間に生じた、2つのズレが原因だと思います。

ひとつめは、「答えを欲しがるな」ということです。

石丸さんの歯切れのいい答弁、言い切る姿勢を見たことがある方の中には、この人なら今の日本が抱える問題もスパッと解決してくれるかも!と期待した方も多かったことでしょう。少子化や東京一極集中、経済格差、といった問題をたちどころに解決する、素晴らしい答えを持っているはずだ!と感じたのではないでしょうか。僕もその一人でした。誰かに引っ張ってほしい、何も考えずにそれについていきたい、という思いは誰にでもあります。それが楽ですから、当然ですよね。一方、石丸さんが主張しているのは「国民が危機感を持ち、自分で考え動くようになること」です。ここにズレがありますよね。そもそも今例に挙げた少子化や東京一極集中といった課題は、これまでもずっと指摘されていて、その上で未解決な訳です。そんな課題について、石丸さんひとりで具体的な答えを持っていないといけない、というのは落ち着いて考えるとおかしな話ですよね。楽に答えだけ知りたい人たちと、答えをみんなが考える社会を作りたい、そういう社会に光明を見出している石丸さん、ここにギャップがあると考えました。

ふたつめは、「個人に全能性を求めるな」ということです。

自分が支持する政治家は、自らの代弁者となる人ですから、その人が否定されると自分も否定された気持ちになってしまいますよね。だから、自分が支持する政治家にはあんまり無闇に敵を作らないでほしい、と思ってしまいます。自分が支持する人、すなわち自分の分身は、みんなに受け入れられるように上手く付き合ってほしい、と思う訳です。石丸さんに関連する事象で具体的に言えば、テレビメディアに上手に対応してほしい、清濁併せ呑んで大人な対応をしてほしい、という意見がありましたよね。僕のいる科学の世界では、すべての組織に適応できる細胞を「全能性がある」などと言いますが、この全能性を石丸さんに求めてしまう人が一定数います。一方、当の石丸さんは自分自身すらに全能性を求めていない。自分の役割と限界、手の届く範囲をはっきり認識している、類まれな人だと思います。おそらくですが、メディアや国民の意識に変革を促すこと、議論を呼ぶこと、そんなアジテーターとしての役割を担おうとされていますよね。その目的のためならば、自分自身の支持者が離れる、嫌われる、というコストは払えるという考え方なのでしょう。ここにもギャップがありますよね。僕自身、石丸さんに全能性を求めてしまっていたので、選挙後のテレビメディアに対する態度には、正直違和感を覚えました。しかしその後、「メディアを上手く使うのは他の方に任せます。あらゆるものに最適化しようとする政治家が多いので、そうじゃない人がいてもいいと思います。」という石丸さんの発言を聞いて、僕はとても腑に落ちたんです。

このような、ある意味コペルニクス的な思考が可能な人物、そしてその思考を先導・拡散するアジテーターとして、私は石丸さんを捉えました。つまり、もうしばらくすると、石丸さんのように自らを真に社会の一部として捉えられるような、俯瞰的なものの見方が我々のスタンダードになるかもしれない、と思っています。

最後に、議論や批判することの意義についてお話します。僕は研究者です。研究においては「批判的な目線」を常に持つように、と教わってきました。世の定説とされているものに、批判的な目線を向けることが科学が前進する第一歩となります。真理を求めるという意味では科学も、政治哲学も同じではないでしょうか。つまり真理、答えはどこかにある訳です。そこに辿り着くためには、議論や批判が必要です。お互いに批判しあいながら、全体としては答えに近づいている訳です。ここに幸せややりがいを感じることもできますよね。

僕らひとりひとりは完全でなくとも、万人に受け入れなくてもいいんです。互いに積極的に批判や議論をすることで、全員で答えに近づいていけばいいんです。このような考えが一般的になれば、自分の考えを批判された時に、自分の存在そのものが否定されたと感じることがなくなり、より生産的な集団になれると思いました。

この社会の一因子として石丸さんを批評していること、この行いが、この社会にどのような些細な変化を起こすのか、楽しみにみてみたいと思います。

そして、出来るだけ多くの人が石丸さんが起こしたパラダイムシフトに一度は身を浸し、自分が出来ること、考えてみるべきだと思います。迎合と無関心から、一歩踏み出してみませんか?

さて、我々日本人は本当の意味で、「言葉を使いこなす生物」として、どこまで進化できるでしょうか。学生時代に、日本は色んな知識体系を母国語で学ぶことが出来る恵まれた国なんだよ、ということを聞いたことがあります。このような政治的な議論も、専門的な知識も、日本語を使って共有出来る、そんな国に生まれた僕らが、この日本語を通してどれだけ生産的な議論を交わす、「集合体」となっていけるか、楽しみじゃないですか?

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