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たくましさ×やさしさ×聡明さ

 ある一時期、武道家の動画をYouTubeでたくさん見ていた。彼らはたくましく、やさしく、聡明でかっこいいなーと片っ端から武道家の動画を見漁った。

  同じ頃、2人の若い女性から相談に乗ってほしいと連絡が来た。ぼくは2人の話を聞くことにした。

 1人目の彼女は「副業始めるか、思い切って会社をやめて独立しようかなと迷っているのですが、どう思いますか?」

  副業を始めて5年が経つぼくに、彼女はどう思うかと聞いてくれた。腕を組んで「うーん」とうなったあと

「うーん。どうも思わないかな」

  彼女は面食らっていた。あーやってしまった。とコーヒーをすすった。

 翌週、もう1人の女性と話した。彼女は昔からやりたかった夢をぼくに語ってくれた。昔は出来なかったけど、あんなことがしたいこんなことがしたい。だが、どうやってやればよいのかという相談だった。

  ぼくは知ってる限りの彼女の役に立ちそうな手段や情報を伝えた。

 行動の方法はお伝えできる。でも、相手がどうしたいかどうかは、神様じゃないのでわからない。

  2人目の女性と話した帰り道、ぼくも過去2人の女性と同じような悩みを抱えていたなーと電車の中で少し振り返った。2人とも行動することは決まっている。でも決断と1歩目を踏み出すきっかけと自分の気持ちがわからなくて困っていた。

 ぼくも同じだ。怖くて決断できないし、決断できなくて怖かった。しかし、ある時から周りを見渡すと「笑顔の武人」のような方々がいることに気がつく。その人たちはやさしく、たくましく、聡明な方々だ。ぼくはその方々に憧れ、かっこいいと感じている。

 今ぼくがハマっている武道家の方々も総じてやさしく、たくましく、聡明だ。その方々と話していると必ず出るのは「本人がやるかやらないかだよ」という言葉。

 なぜ、かっこいい人はやるかやらないかを大切にするのか。

 結論から言えば”それしかない”からだとぼくは思っている。

 彼らは失敗を受け入れている。恐れないこととも諦めているのとも少し違う。恐れも悔しさも悲しさもすべて含めて受け入れて鍛錬と歩を進めることを繰り返している。できないから鍛錬する。辿り着きたいから歩き続ける。

 一番しっくり来るのは関西弁の「しゃあないやん」だと思う。

 じゃあ「しゃあない」ときに役立つものは?と考えると経験でも強い心でも努力でもなく、好奇心だと思う。失敗することはわかっていてもそれを上回る好奇心があればそれは推進力になる。その時、恐れはすっと影を潜める。失敗はずっと怖い。ただ失敗を失敗にしない好奇心があるとき、失敗を恐れながらも好奇心に突き動かされて前に進もうとする姿勢を「勇気」と呼ぶのではないだろうか。武道家の鍛錬は身体の鍛錬だけではなく、心を鍛えると聞くが、それは失敗を「しゃあない」ことだと知り、勇気に変えるための訓練なのかもと思った。

  そしてその勇気を持った人は、その先でやさしさも手に入れる。

 出来ないこと、無知を恥ず気持ち、失敗を恐れる気持ちを知り、それを乗り越える好奇心を推進力にして、勇気とやさしさを持つ。そのやさしさを相手に届けるための言葉や伝え方を知り、聡明さを手に入れる。

 するとそこにいるのは1人の『感じのいい人』だ。しなやかで、たおやかなで、風になびく柳のような穏やかな感じのよさ。

 感じがいいってステキだ。いい感じじゃなく、感じがいい。

 恐れていい。努力なんかしなくていい。ただ必要なのは1回やってみること。やらないと変わらない。何度もいうが、それは辛くて少し冷たく感じるがどこまで行っても事実だ。
 そんなことを考えていたら最寄りの駅についた。12月の19:00。帰宅する人の様子は様々。横断歩道に並び「いつから息が白くなったんだっけか」と考えながらコートのポケットに手を突っ込む。この家までの数分の寒さがこたえる。

 過去の自分も同じようなことで悩み、相談を受けるようになった今でも変わらず、はじめてのことは怖い。

ただ、周りの人から恐れに好奇心を足して勇気に変える。
勇気に行動をかけ算して進む。進んだ先で、やさしさを知る。
新たに人に出会い聡明さを知ることを教わった。

 そんなことを繰り返してぼくがあこがれる『感じのいい人』になりたい。この道をどう進むか。その道のりはみんな違う。今僕が歩いているのは僕の家に帰る道。あの人が帰る道は別の道であるのと同じようにその人なりの「感じのいい人」

 まずやる。最初で最後のはじめの一歩を踏み出す『感じのいい人』。

 そんなややこしいことを考えていたら家についていた。さて、さっさと風呂に入ろう。

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