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親愛なるカルボナーラに捧ぐ

以前から好きな食べ物は何かと聞かれたら、迷うことなく「カルボナーラ」と即答している。数ある食べ物の中でも、あの濃厚でクリーミーな味わいに出会った瞬間から、カルボナーラは私にとって最上位の存在である。

初めてカルボナーラを食べたのは、いつだっただろうか。おそらく親に連れられて行った洋食屋で、メニューの写真に心を奪われたのがきっかけだ。輝くような卵の黄色と、とろりとしたソースの艶やかさが、子供心にたまらなく魅力的だった。そして、実際に口に運んだその一口目。濃厚なクリームと卵が絡み合い程よい塩味も混ざったその一口に、私は完全にノックアウトされた。それは、舌だけでなく心にも深く刻み込まれる衝撃的な体験だった。

それ以来、カルボナーラは私の中で特別なごちそうとして君臨し続けた。「何か食べたいのある?」と聞かれた時には、必ずと言っていいほどカルボナーラを挙げ続けた。一人暮らしを始めた時にも高級チーズとベーコン(イタリアではグアンチャーレを使うらしいが)を買ってきて、カルボナーラを自分で作ってみたりした。しかし、クックパッド通りに作ったどころか食材のレベルをレシピよりも上げたはずなのに、かつて食べた味には程遠かったことを覚えている。

ただ、カルボナーラがメニューにリストインされていたら必ず注文するカルボナーラ愛に満ちた私も、最近ふとした瞬間に違和感を覚えるようになった。どこか惰性のようなものを感じる瞬間が増えたのだ。以前ほど「美味しい!」と感じる感覚が薄れてきたように思う。最初はそれが気のせいだと思い込もうとしたが、どうもそうではないらしい。

原因を考えてみたとき、子供の頃と今の「味覚」の違いなのではないかと思い当たった。成長期にある子供の頃の舌は、脂質・糖質が豊富なエネルギー密度の高い食品を好む傾向があるらしい。それを「美味しい」と感じるようにプログラムされているのだろう。しかし、大人になるにつれて味覚の受容体は変化し、濃厚でクリーミーな味が「くどい」と感じるようになってしまうのではないだろうか(私はくどいと感じない側の人間ではあるだろうが)。

確かに思い当たる節はある。元々私は炭酸が苦手だった。というか、今でもアルコール以外で炭酸飲料を飲まない。シュワシュワと舌を刺激するあの感覚がどうも苦手だったのだ。またビールを最初に飲んだ時もあの苦味をどうしても好きになることはできなかった。しかし、どうだろう。今や必ず1杯目には必ずビールをオーダーするし、だいやめのソーダ割を主力に飲み会の打順を組む。明らかに幼少期の私と今の私の舌で美味しいと感じる要素は変わってきている。私が今のカルボナーラに感じている物足りなさは、味覚の変化がもたらしたものなのかもしれない。

さらによく考えてみると、昔食べた「あのカルボナーラ」を超える味に出会った記憶がほとんどないことに気づく。もちろん、美味しいカルボナーラに出会った経験は何度もある。でも、それはいつも「あの頃の味」を追いかける行為の延長に過ぎなかったのではないか。あのカルボナーラの衝撃を探し求めているのは、ある種、未だに初恋の甘酸っぱさを追い続けている行為に近いのかもしれない。

つまり、私はカルボナーラそのものが好きなのではなく、かつて大好きだった「あのカルボナーラ」を超えてくるような味に出会いたいだけなのではないだろうか。その執着が、カルボナーラを惰性で食べ続けさせている原因ではないかと思う。

それでも、私はこれからもカルボナーラを食べると思う。あの頃の記憶を思い出しながら、そして新しい「美味しい」を探す最中を楽しみながら。そしていつか、あの時に食べたカルボナーラを超える味に出会えることを祈って。

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