世界を何で分類するのか。 富の優劣か、 人の幸福度か、
物心が付いた頃、横浜には米軍が駐留していた。伊勢崎町周辺にはか蒲鉾兵舎が並び、港は米国兵により閉鎖されていた。少し時が経ち街にはどデカいアメ車が走り、米国は羨望の的となった。その後アメリカ映画で更に強烈な輝きを見せ付けられた。
やがて、日本も高度経済成長を遂げたと云われ始めた頃、少し自尊心が生まれて来た記憶がある。それまで、上から目線で見ていた外国人も、一目置く態度に変わって来たのを感じた事があった。富の優劣が人や国の評価を変える一面があるのは否定できない。
比較的最近の出来事で、北欧の社会福祉についてのテレビレポートがあった。高齢者ケアを通して、明らかに豊な社会が見られた。被対象者のゆとりある生活があるだけでなく、ケア従事者もゆとりを持って活躍する社会が見られ、まさに社会の豊かさを感じた。
国富が国民の幸福度と直結しないところが、日本社会の現実にある。肌で感じる「働けど我が暮らし楽にならず」と云ったところだ。楽になっている一握りの塊はあるようだが。
新幹線が出来て国内が近くなり、航空機で世界が狭くなり、電子機器でコミニケーションは容易になった。人の活用できる時間は、以前の何倍にもなっている。高効率の社会に変化しても、何故、労働時間は短縮されないのか。貧富の格差は拡大していくのか。技術や経済の成果が人の幸福に還元されていない。世界の紛争もこんなことが遠因ではないか。
産業の発展の過程において、資本の役割が特段に大きい資本主義であるが、運用次第で成果が国の繁栄となるか、資本家が太るに終わるかで「資本」の意義が違ってくる。
時節柄、思い起こせば、渋沢栄吉先生の功績は偉大なもだったと感じる。「資本」が何かをわきまえていた。私にも先生のお写真を少し廻していただけませんか。(カラフルなホログラム付きの軽い紙ですよ。)
日本の労働生産性が低いから、豊かになれないとする声が聞こえるが、生産の果実が資本に吸い上げられ、資本が資本を太らせるだけに留まっている。経世済民を視点に日本を再点検しなければ、世界から埋没の危険を感じる。
日本の富が、他国へと流出している現状と、グローバル資本からの搾取で日本経済がにっちもさっちも行かないような状況に陥らないことをのぞむ。
さて、失敗傾向の資本主義であるが、そこに台頭するのが社会主義で、富の分配の平準化が出来る国力は備わっている今、なんらかの形で新社会へ移行する事を考えて欲しい。「民の竈に煙が立っているか」とした仁徳天皇の治世のエピソードに習い、社会体制の呼び方を社会主義や共産主義に抵抗があれば「竈門の煙主義」で良いのではないか。馬鹿な考え休み似たりと思ってはいるが、学者先生方なんとかしてくださいよ。(政治家には無理かな)