意味のない少子化対策
今、世界的規模で異常気象に見舞われている。
来季の夏はどうなる?
いや、今年の冬は暖冬か?大雪か?
この数十年の経験則では皆目見通せない。専門家も確かな予測は出せていないようだ。いやいや、数年経ってから色々講釈はしてくれるだろうが。
少子化対策も大きな課題として残されているようだ。
経済的支援では児童手当とか出産費用補助とか子育てサービス、共働き支援、その他の支援策などが考えられているようだが、お役人的発想の域を出ない感が強い。
昭和の時代ではそのような対策がなくとも自然増が見られた。
たれかが号令したと言う話は聞いたことがない。
自然界でもカラスや鹿の異常発生などがみられ、総じて生物の増減は食物供給の過多で決まるようだ。
人間では加えて住環境の有無が加味されるのだろう。昔から衣食住が足りてな無ければ繁栄は望めないのだ。逆説的にいえば、今の社会が一見裕福に見えるのが幻想かもしれないと気がつくべき事なのではないか。
人間の繁殖には更に加えて、社会への信頼感が求められる。
現今の、富めるものだけが更に太っていく状況は、大衆層が社会のギャップに圧迫感を感じ、当然であれば社会の核としての己の存在を否定されてしいまう。
今をただ生きていることのみの社会に信頼感を得ることができないのだろう。信頼感が乏しい社会から信頼できるパートナーを探すことに疑念を感じているのだろう。
それでも少なからずパートナーを得て子供ももうけて生活を始められる方はいるだろうが。昭和の時代はその先に明るさを感じていた。当たり前のように。
生きていくに信頼のある社会とは、互いに「人」として認め合える社会であろう。多少の貧富の差や、学歴、出自は関係ない。あまりにも「人」が軽視される社会にNOと言おう。最たるものは戦争行為である。今ある戦争行為にNOの声を上げよう。そのような平和を希求する集団には信頼できるパートナーがいるはずである。