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プチ朝三暮四体験

先日都内某所を散歩しているときに、片側三車線の広い道路を渡る場面がありました。見渡すと横断歩道がなく、代わりに歩道橋と地下道の二つがありました。わたしは無意識下で、何の考えもなく、地下道の方が楽だから、地下道で行こう、と地下道の階段に足を一歩踏み入れました。そこでわたしはハッとしました。「なぜ、わたしは地下道の方が楽だと思ったのだ?」

判断を下した時点で、歩道橋と地下道はほぼ同じ距離にありました。そのため、地下道と歩道橋でかかる移動距離は同じで、地下道の方が近いから楽、という判断を下したわけではありません。また、歩道橋の高さと地下道の深さを天秤にかけることもしませんでした。本当に直観でわたしは地下道を選びました。二つの行為の差は、先に階段を上がるか、後に階段を上がるかしかないのです。わたしは無意識のうちに、先に階段を上がる方を選択肢から排除し、どのみち階段を上がることと下がることが必要になる、という事実に気づかなかったのです。

無意識下で、朝三暮四をやってしまった。そう思いました。

朝三暮四とは、中国の故事です。猿にエサとして木の実をあげる人が貧乏になってしまいました。そこで猿たちに、「残念だがエサを減らさないといけなくなった。朝に3つ、暮れに4つでどうか」と聞くと猿はカンカンに怒り出しました。そこで、「じゃあ朝に4つ、暮れに3つでどうか」と聞くと、猿は大喜びしました。全体でもらえる量は変わらないのに、目先のものにとらわれて一喜一憂するなんて、愚かなものですね。ああ、かわいそうかわいそう……という話です。わたしは最初にこの話を聞いたとき、まあそういう人もいるよね、と思いつつ、自分とはあまり関係がないことだと思いました。自分はどちらかというと苦しみを先に持っていくタイプです。読書感想文とか自由研究とか面倒なものは早めに片付けようとするし、食卓でもおいしいものは最後に取っておこうとします。これはあくまで人間のタイプの話であって、すべての人間の本質とは限らない、と思っていたのです。

そんな自分が、無意識のうちに目先のことにとらわれていたと気づいたのは大きな衝撃でした。もちろん、上記の判断は単にわたしの頭が悪いだけです。しかし、これを読んで「それはお前の頭が悪いだけだろう」と思ったそこの読者の方も、猿の故事を読んだわたしと同じなのだと思います。誰しもきっと、わたしとは違うタイミングで、思いもしない形で無意識のうちに朝三暮四をやらかしていると思うのです。人間はおそらく確実に、目の前に与えられた情報から、目先のことを優先して判断する生き物なのです。

経済学には「割引現在価値」という考え方があります。これは人間は将来の快楽を現在時点では小さめに評価するだろう、という仮定のことです。数学的な事情で設定された仮定だとは思う(将来にわたって無限に足したときに発散しないようにする)のですが、やはりこれは一定の真理を得ていると思います。たとえば先程のサルにしても、朝に4つの木の実を食べた後で昼に天変地異で死ぬ可能性があります。そうなると、生涯で得られる木の実は朝に3つであった時より、朝に4つもらえた方が多いわけです。地下道の例でも、もしかしたら地下道から上に登るのがエスカレーターやエレベーターになっている可能性だってあります。このように、不確実性を念頭に入れて吟味した場合、目先のことだけを考えて判断するというのは、必ずしも間違っているわけではなく、むしろ合理的な判断の結果であると言えるのです!

ちなみに、わたしが渡った地下道ですが、結局中が迷路のように入り組んでいて、歩道橋を渡った方がはるかに短い移動距離で済む……という非常に残念な結果で終わりました。目先のことに囚われるのはどんなにその時点で合理的であっても、得をするとは限らないところが、厄介な話ですね。

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