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大問6を白紙で出す人生

中学生くらいまで算数と数学が苦手でした。高校生のある日に突然覚醒して数学が嫌いじゃなくなったのですが、数学がダメだった時の感覚というのは今でもはっきりと覚えています。

数学というか算数のテストは、大問1と2が計算問題のような小さい問題の集合で、大問3と4が教科書に載っているのと同じような問題で、大問5と6が応用問題……というのがよくある構成でした。数学が苦手な人間にとっては、大問1と2でいかに点を稼ぎ、大問3と4にいかに喰らいつくか、そしていかに赤点を回避するか、ということだけが関心事で、大問5と6はもはや問題文すら読まなかった、という記憶が蘇ります。ただのあきらめとも違う、「大問6は自分用ではない」という思い込みがあったような気がするのです。神の領域に勝手に人間が踏み込んではいけない、という畏怖の感情と言ってもいいかもしれません。とにかく、大問5と6に関しては白紙で出して、部分点の可能性すら全くない状態にしていました。

実際わたしは計算の精度がめちゃめちゃに低いので、大問1〜4でも平然とポロポロと落とし、ひどい点を取り続けていました。

わたしがこの状態から抜け出したのは、いい師匠に出会ったからだろうと思います。「とにかく白紙で出すのが一番ダメ、食らいついて部分点を狙っていけ」「計算が下手なやつほど計算をサボる工夫をしろ」「ひらめきがなくても気合いで解ける問題はいっぱいある、気合いで進めるうちにひらめきを得ることもある」……などなど、たくさんの教えを授かりました。高校のT先生には感謝してやみません。

その教えを得てからは、「とにかく白紙で出すことはしない」と誓い、時間の許す限りどんな問題も数分間は考えてみることにしました。場合の数の問題だったらとりあえず書き出してみたり、図形の問題だったらとりあえず図形を書き写して線を一本引いたり、そういう小さな抵抗から始めてみました。たくさんの大問6のような問題に食らい付いていくうちに成功体験を得て、やがてそういう問題に挑戦することが楽しくなってきました。結局計算の精度は上がらず、大問1〜4でポロポロと点を落とす状態は変わらなかったのですが、大問5と6の部分点のぶんで成績は良くなりました。その辺りの経験を経て、数学が苦手教科ではなくなりました。得意と言えるほどは出来ないのですが、少なくとも好きにはなれたな、と思います。

翻って、数学以外でも、こういう「これは自分のための問題ではない」として勝手に線を引いてしまっているものはたくさんあります。研究者が話す専門的な話だったり、政治の話だったり、あるいはファッションの話だったり……人生の時間は有限で、それら全てに向き合うには時間が足りないことが多いので、これが合理的な判断であることは多いのだと思います。その一方で、それによって損をしていることもたくさんあるのでしょう。「わからないこと」と、「わかることをあきらめていること」があり、後者が増えれば増えるほど人生が消極的になってしまうのだろうと思います。それによる損失はなかなか気がつくことができないのが厄介です。知らないうちに勝手に人生が貧しくなってしまうのは寂しいことです。したがって、いかにいろいろなことに「前のめり」になれるか、それによって人生の豊かさが変わってくるような気がします。

前のめりになって食らいつくことができるかどうかは、誰でもできるようになることではなさそうです。わたしの数学の場合は運がよかっただけとも言えます。そうは言っても結局は自分の行動次第なので、ある程度コントロールできるものではないかなとも思います。うまくいかないとしんどいですが、とにかく前のめりになることできっと得られるものがあるのではないかな、と明日からも信じていきたいものです。

というわけで、この一連の文章は、「今から大学時代に理解を諦めていた、統計学の数学にちゃんと向き合うぞ!」ということの決意表明のために書いています。がんばるぞ!

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