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カッコいいで生きていく人

人間誰しも目指す姿というのがあって、それに向けて何かしら演出をしていると思います。演出というとちょっと言い方が悪いですが、行動や言動などを通して周囲に自分をこう見せたい、という気持ちは誰しもあると思っています。かわいい人を目指した演出とか、面白い人を目指した演出とか様々ある中で、「かっこいい人」を目指す演出というのが群を抜いて難しいと思っています。わたしは「カッコいい」で生きていくことはできないと思うし、生きていきたくもないな、と思っています。

カッコいいで生きていく人というのは、瞬間的なかっこよさではなくて、恒常的にずっと「カッコいい」であり続ける人を指しています。瞬間的なかっこよさは、普段がカッコよくない人であってもギャップでどうにかなる面があります。例えるなら野原ひろしが映画ではかっこいいみたいな感じです。そのため、「カッコいいで生きていく」には当たらないものとここでは定義しておきます。

何をもって人をカッコいいと思うかは受け手によっても違うので、定義を付けるのは難しいですが、恒常的なカッコよさに必要なのは「完璧さ」「隙のなさ」ではないかと思っています。

カッコいいで売っている人は「カッコ悪い」と思われたらおしまいである印象があります。そのため失敗が許されにくい傾向にあると思います。例えば、バスケのフリースロー対決などで負けたり、豆を箸で掴むチャレンジに失敗したりということだけでも「カッコ悪いなあ」と思われてしまいます。もちろん、チャレンジに失敗しても、その失敗した姿勢がカッコよければカッコいいが存続できる可能性もあります。しかし、重要なのは「カッコ悪い」と思われてしまったらそこでおしまい、ということです。それも受取手の尺度で、です。そのためにはあらゆる方向で隙を見せてはいけないし、そのための努力を惜しんではいけないということになります。このように、「カッコいい」というのはそういう絶妙な綱渡りの上でかろうじて成立している希少な概念であるとわたしは思うのです。

別の概念として「かわいい」で売っている人もいます。かわいいはかわいいで同様の難しさはあると思いますが、多少の失敗が許され、しかもそれがかわいさのスパイスにもなるので、カッコいいよりも成立しやすさがあるように思います。(これは特に男性の場合です、女性の「かわいい」はもっとシビアだと思っていますがここでは言及しません)

具体例として適切かはわかりませんが、キムタクですとか、福山雅治とか、GACKTなんかは、このカッコいいで売り切っている人だと思います。このあたりの方々は、「ワルさ」で売ってないところもすごいと思います。ワルくてカッコいいラッパーみたいな文化圏とはまったく別の世界で、暴力や異性に頼らない研ぎ澄まされたカッコよさを目指すのは非常に難しいことだと思います。

これを体現できるのは本当に一握りしかいないのですが、目指している人はそれなりにたくさんいます。わたしは、これを目指そうとはあまり思えません。キャパシティの問題もそうなのですが、それ以上に「プライド」というものの存在があります。

カッコいい人は、「プライド」をもっています。自信とも違う、「わたしが評価されるのは当然、なぜなら努力しているから」というものです。一般市民がプライドを持とうとすると、後半の努力パートを抜きにして、「評価されて当然」の方だけを抽出する傾向にある気がします。これがわたしにとって本当に見苦しく見えてしまい、「自分はこうなりたくない、だからプライドなんてもたないぞ」と思ってしまいます。もちろん、退路を断つことで成果を実現するのは成功率を高めることにもつながると思います。ですが、そんなことをしなくても成功する人はすると思うので、なんか無駄な気がします。リスクを取る代わりにカッコよさのステータスを2上げる、そんなカッコよさの演出のためだけのもののような気がします。プライドが高すぎる人は、自分の非を認めないし、他人の手柄を横取りするしで、まったくカッコよくありません。そういう意味で、一般人は彼らのかっこよさを真似ようとしない方がいいのではないか?と思ってしまいます。

わたしの場合はそもそも人からどう見られるかを気にしなさすぎていて、「かっこいい」の土台にも立っていない気がしています。そういう意味で、これは単なる“酸っぱいブドウ”なのかもしれません……。まあでも、「身の程をわきまえている」ということでもあると思うので、そうダメすぎる話でもないと思っています。

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