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東京の街を水害から守ってきた岩淵水門と荒川放水路

生まれ育った故郷東京が大好きで、50歳になったのを機に観光ガイドのボランティア団体に所属しました。
そんな観光ガイドとしての私が、自分目線ではあるけれど東京の魅力を発信し、地方の方だけでなく、東京に住んでいる方々にも知っていただきたい内容をご紹介していこうと思います。

さて今回は・・・
今年10月、荒川放水路の通水100周年となるため、今回は「荒川」について、その歴史も交えご紹介いたします。

皆さまのご存知の「荒川」は、奥秩父連山の主峰、甲武信ヶ岳を源流とした全長173㎞の一級河川で、東京都へは23区北部・板橋区から始まり、区部の東側をぐるっと回り東京湾にそそきます。
そしてその23区北部の北区・岩淵地点から東京湾までの約22㎞が「荒川放水路」と呼ばれる人工河川です。

Google mapから加筆

【荒川放水路】

荒ぶる川から「荒川」と呼ばれ、幾度となく洪水を発生させ、江戸やその後の東京の街を浸水させてきました。明治40年(1907)、43年(1910)の大洪水により、明治政府は、抜本的な治水対策として、「放水路」の建設に着手します。北区岩淵から東京中心部を避けるようにぐるっと迂回し、東京湾に注ぐよう新たに川を掘削しました。それが「荒川放水路」です。
掘削で発生した土砂の量は、東京ドーム18杯分にもなり、堤防などに利用されています。また用地買収のため移転を余儀なくされたのは1300戸に及びます。立ち退きを強いられても洪水を防ごうとした人々の理解があっての一大事業。完成までには、関東大震災の発生などもあり、17年の長い年月がかかりました。

【隅田川】

「荒川放水路」を語るうえで重要なのが「隅田川」です。
皆さまご存知の現在の「隅田川」は、東京都北区岩淵にある水門から始まります。
正式に「隅田川」と定められたのは昭和40年。
それまでは「荒川」と呼ばれており、江戸時代には「浅草川」、「隅田川」、「宮戸川」などと呼ばれていました。要は元々の荒川の流れは現在の隅田川だったということです。


【旧岩淵水門(赤水門)】

100年前に造られた重要文化財「旧岩淵水門」

荒川放水路建設のための重要な要は「旧岩淵水門」です。
大雨などで洪水発生危険がある場合に、上流からの流れを隅田川ではなく荒川に流すように水門を閉じ、東京の街を洪水から守る役割を果たします。
荒川放水路建設開始より三年後に水門建設が始まり、いまから丁度100年前の1924年10月に完成しました。

9メートル幅のゲート5門で構成され、その色から通称「赤水門」と呼ばれ親しまれていましたが、地盤沈下などの問題に悩まされ、現在の岩淵水門の完成と共にその役目を終えています。しかし地元住民の強い要望もあり保存され、今年(2024年)8月、国の重要文化財に指定されています。

年季の入ったコンクリート こんなところに魅力を感じます

水門の近くまで行くことができます。
コンクリートも当時のものなので、年季の入った歴史を感じます。
画面の先に見えるのは、かつては土手だった場所。
いまは島のようになっていて、散歩に訪れている方がたくさんいました。

水門の裏手、こんなに間近まで行くことができます。

【岩淵水門(青水門)】

現在使用されている新水門は1982年竣工。青い外観から青水門と呼ばれています。

この水門が現在使用されている通称「青水門」の岩淵水門です。
この水門も間近まで行くことができます。
水門の扉の裏には、閉鎖した時に積もった土や雑草などが付着していて、本当に開閉しているんだと感動します。

この土はいつからココにあるんだろうか?素朴な疑問!


荒川放水路が通水してから今年で100年、その間一度も決壊することなく、現在に至っています。 (台風による高潮の水害はこの数に含まれません)
記憶に新しい2019年10月の台風19号では、各地で河川の氾濫を起し東京近郊では多摩川が氾濫し近隣の武蔵小杉などが甚大の被害を受けましたが、この時の岩淵水門地点の水位は最大17.7mまで達し、氾濫の危険水位を遥かに超えていました。歴代の最高水位が記録されている水位標柱には、その時の水位も記録されています。12年ぶりに水門を閉鎖し、隅田川への流入を阻止したおかげで、東京の街は氾濫を免れました。

記憶に新しい2019年の台風19号は歴代5位の水位


出典:国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所HP(https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00569.html)
出典:国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所HP(https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00569.html)
岩淵水門にある案内板より

岩淵水門にある案内板には、上記の写真が掲載されています。
台風で河川敷まで溢れた濁流は、水門を閉じることで隅田川には流れないようになっています。
川幅の狭い隅田川に流れて決壊すれば、都心は壊滅状態になるでしょう。
荒川に流すことで、首都東京を守っている様子が、この写真から良くわかります。

【青山士(あおやまあきら)】

最後に「荒川放水路」「旧岩淵水門」の建設の責任者として指揮した青山士をご紹介します。
青山はパナマ運河建設に従事した唯一の日本人です。東大工学部を卒業し、単身渡米。1904年よりパナマ運河工事に従事したのち1912年に帰国し、その後内務省(現在の国土交通省)に技師として入省し、19年にわたり荒川放水路の建設工事に携わります。

旧岩淵水門を設計することとなった青山氏は、その建設地が軟弱地盤であることから、パナマ運河で得た知見を生かし、当時日本ではあまり例のない工法だった鉄筋コンクリート工法を採用します。鉄筋コンクリートの枠を川底よりさらに20メートルの深さに埋める構造は内務省に反対されましたが、基礎のみ妥協案を取り入れたものの、それ以外は自らの意見を曲げず建設を進めました。

その後発生する関東大震災では、なんと工事中だった岩淵水門はビクともしませんでした。関東大震災により、鉄筋コンクリート工法は優れていると評価されるようになりました。以後、東京には鉄筋コンクリートでつくられた街並みが広がったことを考えると、岩淵水門は日本の建築史を変えたひとつのきっかけだったかもしれません。
明治の人々の努力と、その後の度重なる土木工事のお陰で、東京の街は水害から守られていることを、忘れてはならないと思います。

荒川知水資料館 AMOA

荒川放水路通水100周年アニバーサリーフェス

荒川放水路が通水してちょうど100年を記念して、10月12日(土)には記念イベントが開催されます。
この機会に、岩淵水門の歴史はもちろん、本物の水門を間近に見学してみてはいかがでしょうか?
遠くから水門が見えた時、私はなぜかとても興奮しましたよ!

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