(連載24)診療台の上で蘇った高校時代に夢中だったバンドの思い出:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:1992年
前回は、ロサンゼルスの歴史に残る出来事、「1992年のロス暴動」について書きました。
今回はその続きなんですけど、(だいたい同じ時期なんで)
しかしながら、歴史にはまったく残らない出来事についてお話します。
その始まりは。
よーつー!!腰痛!!!!
(ってか、まあ、普通の、、、、アレですよ。別段、変わった事ではないけど、本人には、めっちゃツライという。。。)
こんなフツーなサブジェクトなのに、すみません、今回も、ものすごい長さになってしまいました。。。。。。
友達がレストランをオープンして、「ウエイトレスが見つからないので、手伝ってくれない?」と言われ、やった事なかったけど、「いいよ。」と安請け合いした。。。。。と、ここから、始まります。
初日は無事終えた。
ところが。。。。。
次の日の朝。
ものすごい、イナズマのような激痛が走り、動けなくなった。
ぎっくり腰みたいにヒネッた覚えもなく、ずっと立ちっぱなしだったわけでもなかったし、友達のお店なので、ストレスもなく、しかも1日だけ。。。原因は今でもわかりません。
ともかく、動けないだけでなく、どんな姿勢をしても、痛い。。。。。
経験のある方はわかっていただけると思いますが、立ってても、痛いし、座っててもいたい、寝てもいたいし、うつ伏せになっても、横になっても痛い。涙が出るほど痛い。
痛くないポーズが、ただひとつ。逆立ちみたいに足を壁の上の方に上げて、逆さまになり、頭を全身の一番下にしとけば、なんとか。。。つまり三点倒立ですけども、、、、。そんなん長くは、できんし。。。
ま、そんなイテテて。。。状態。
で、日本人のカイロの先生というのを紹介してもらって、傘をですね。。。(ロサンゼルスでは、ほとんど誰も持ってない傘というもの!)
老婆のように、杖のようについて、よちよち歩きで、こんなかんじ。
(車の運転は、痛いのを我慢して、なんとかできた)その先生のところに、やっとで、たどり着いたんです。
そして、待合室に座って、傘に手をおいて、ボーーーっとしていたら、病室の中から、人の声が聞こえてきたんですよ。
それが英語じゃなくて、日本語だったので、すぐ耳にはいってきました。
「センセーっ!コレ、イイっすね〜!スッゴイっすわ〜」とかなんとか。
男性の声でした。何かを褒めてるような。
私は、「ここは日本の患者さんもみてるんだな〜。」って思ったくらいで。
ともかく痛かったので、それどころじゃなくて、ふ〜〜〜とため息ばかり。どんよりと、ソファに痛みをこらえて、杖を(傘)をついて、痛みを我慢して座っていました。
そしたら、その直後に、ドアがバーンと開き、
その人が病室から出てきたのです。
その人は。な、なんとっ!!
!! E YAZAWA !!
プラス その後ろに後光!!!(上の背後に足してください)
ピカ〜〜〜っ!
私は一瞬、体がかたまった、、、
、、、っていうか、もともと、痛くて固まってたんだけども。
もし、腰がいたくなかったら、おそらく飛び上がってたでしょう!
エーちゃんは、、、、昔、キャロルというバンドをやっていて。
私は北九州市の門司港というところの出身ですが、高校3年の時、
高校生のブンザイで!
そのキャロルのファンクラブの
北九州の支部長だったのですよ!!!!
〜まあ、支部長といってもですね。チケットを友達に売りつけるとか、そんなくらいで、大した事はしてないです。
エーちゃんご本人と一回だけ話した事はありましたが、5分?くらいで、ファンとして、、、ってかんじですね。
その後、福岡の興行主が、お金持ってトンズラして、そのファンクラブは自然消滅しました。「ゆるい」というか、いい加減な時代でしたね。苦笑
まあ、しかしその2年間は、ともかく寝ても覚めても、キャロル。。。。。
その頃は、まだ「ヤンキー」とか「つっぱり」とかいうコンセプトは、ありませんでした。あったのかもしれませんが、私が住んでた門司港にはまだ、伝わってなかったです。苦笑
また、「暴走族」も存在してたのかもしれませんが、実際にバイクを連ねて走っている若者なんか、見た事もなかったです。というのも、北九州市というところは、すでに、反社の方が多くいらっしゃって、そんな事ができなかったのかもしれないですけども。。。苦笑
ま、どちらにしても、そういうカルチャーがピークになるのは、後になってからだと思います。
その頃の音楽のシーンというと、1970年代前半ですが、新しい事をやろうとしてる人は、なんかヒッピーっぽくて、みんな、スタイルはジーンズに長髪だったんですよ。
それがいきなり、リーゼントに黒の革ジャンというスタイル(まだそんなもの、洋服屋に売ってなかった頃ですよ。少なくとも門司港では。苦笑)
キャロルの出現は唐突でいきなりでした。
そういうビジュアルの効果も大きかったと思いますが、音楽も、それまでは、ロックの人たちは、洋楽をまんまコピーしてて、歌詞も英語でよくわかんないし。。。
もしくは日本語のフォークだと、4畳半で貧乏くさいか、ベタベタなロマンティック。
でも、キャロルは英語と日本語のまぜまぜだったので、いっしょに歌えたし、勢いがあった。そして体で感じられるノリがいいリズムがありました。
私は、キャロルに夢中になりました。レコードもテープもすり減るぐらい聞いた。
また、ちょっとませたクラスメイトから、
「キャロルはただ、ビートルズのコピーしとるだけやん」と言われて、
悔しくて悔して、「そんな事ない!!!」って泣きながら、喧嘩した。
今から、思えば全く、その通りだったのですがー。苦笑
ハンブルグ時代のビートルズのまんま。と(あのスタイルも音楽も)
でもビートルズは日本語で歌ってないし!!!。苦笑
そんな経緯があったので、あの、E YAZAWA が目の前に。。。
まさかロサンゼルスで!
まさかの腰痛カイロで!!
まさか私の腰激痛状態で!!!
まさかの、もちろんノーメイクで!!!!!
そして、、、、、
この後、ものすごいスローモーションで、この E YAZAWA は私の前を通り過ぎた。
もちろん、私には目もくれず、さっさと。。。出て行きましたけども。笑
その間実質2秒。でも私には2年間の記憶がスライド写真のように脳裏を走った。でも、それが早すぎて見えないのでした。
体は、激痛!
自分の脳みそと身体がつりあってなくて、ちゃんと機能していなくて、現実と過去が複雑にもつれてしまって、ほどけない。
そんな時に、「バーマン・アツコさ〜〜ん!」と、私の本名ですけども。
中から看護婦さんのような女性の声がした。
それで、私は、先ほど、後光のさしていたドアを開けて、中に入って行きました。
そしたら、そこにカイロの先生が白衣を着て、準備していらっしゃった。
その先生は、日本人。 でも、ロサンゼルスに長く住んでいらっしゃる男性でした。
「どうしました?大丈夫ですか?」
そして、横になって、まあ、お決まりの問答があり、その経緯を説明したりして、こうして、こうして、、、、そして、ポキポキっと。
そしたら、急に
「あなたは、矢沢えいキチって、ご存知ですか?」って。
いきなり。。。。
とっさの質問に、私は、、、、、、全身に緊張が走った。
別に、緊張せんでもええだろうに、なぜか、ビビった。
この自分の対応に自分で驚いたのだが。
なんて言ったらいいのか、
わからなくて、
「し、しりません。」って。!!!
爆笑
「さっき、ここに来てたんだけど、なんか日本では、かなり有名な人らしいんですよね。」と、先生は、おっしゃった。
私は、「知らない」っていった以上、なんていっていいか、言葉につまって、
「そ、そうですか・・・私は、あまり音楽って、詳しくないので、ぜんぜんわかりません。」
最後の方は、声が小さく、、、、。
でも、横になってるこのベッド、エーちゃんもここに横になっていたのかと思うと、なんだか、急にベッドにゴリゴリと自分の体を押し付けている自分がいた。。。。
くく〜〜!!
しかし、
優しくは受け止めてくれなかった。
ベッドじゃないですからね〜。苦笑 あくまで診療台ですから。安っぽいビニールの。
もう、ずーーーーーっと忘れてた自分の過去が、このアメリカで、
このカイロのこの診療台の上にハラハラと落ちてきた。
そして思った。
キャロルが載ってる雑誌は全部2冊ずつ買って、一つは保存用。もう一部は、切り取って、コラージュを作った。使ってるノートはもとより、学校のロッカーとか部室、学校の机の先生に見えないところとか、いたるところに写真をはりつけ、大きめの写真やポスターは母の友人の美術の先生にたのんで、立派なパネルばりにしてもらった。
革ジャンは売ってなかったので、払い下げの作業服を買って、背中に自分で、
「FANKY MONKY ATSUKO」
と、フェルトで縫い付けた。
この頃からリメイク。苦笑
そして、高校の卒業アルバムの寄せ書き。みんなアルバムには、「今まで、ありがとう」とか「友情」とか「希望」そんな普通の事を書くのですが、
私はキャロルのロゴをまんま印刷したように黒いペンで、細かく描いた。
ロゴは、コレですよ。
これ、そのまま描くのって、すごい大変で、この立体的になってるCとかA とかの中にパチンコのような球がぎっしりつまってるんですよ。それを全部手書き!!!もう、時間がかかりすぎて、この寄せ書きは、ひとりずつ書いて、次の人に回すという共同作業だったので、クライスメイトから「お前、いい加減にしとけよー」と、苦情が殺到した。。。。。
その後、高校を卒業して、私は東京へ。
それと同じ頃、キャロルも解散する事になり。。。。。
あの、伝説の渋谷の野外音楽堂の解散コンサートに私も行きました。
ものすごい人!!「さすが東京やねー」と思ったのを覚えています。
徹夜で並んでる人もいて、椅子はもとより、テーブルを持ってきてて、麻雀してる人もいた〜。笑
でもその人たちをみて、驚いたのは、北九州にいた頃はキャロルのファンは不良っぽい人(ヤンキーという言葉は、なかったですから、こう呼んでいた)とか、ヤクザっぽい人しかいなかったのですが、私は不良でもなかったし、(プチ不良な格好はしてたかもしれませんが、タバコを吸ったり、シンナーをやったりなどは、まったく興味がなかったです。)
北九州だと、キャロルのコンサートに行っても、ちゃんと音楽を聞きにくるというよりも、喧嘩するためにくるような人も多く、私としては、「なぜ、ちゃんと聞かないんだろう?」って、そういう人たちに関して、非常に苛立っていました。(その辺は、学級委員体質!笑)
それに比較すると東京のキャロルのファンは、キャロルというバンドのスタイルだけでなく、ちゃんと音楽そのものを評価している人もいるんだ!と、肌で感じて、私は「東京に引っ越して本当によかった〜〜」と心から思いました。
私が野音に行ったのは、8時間も前でしたが、それでも、座席は真ん中から後ろでした。
そして、コンサートの最後に、今ではもう、レジェンドになっている火事を見て、(ロゴが焼けた)
これを見ながら。。。。
自分もいっしょに燃え尽きたような予感がしました。
その私の直感は、外れてなくて、エーちゃんは、直後にソロ・アルバムを出しましたが、なんだか、ピンと来なくて、ガックリ失望。。。
ミュージックビデオのような歌ってる映像も、ヤッピーなヨット・ハーバーみたいなとこで。。。。
ルーツは横浜だろ?広島だろ??ゲットーだろ?って思ったのを覚えています。
自分はエーちゃんを追ってたというよりも、
バンドとしてのキャロルが好きだったのだ。
とわかって、なんだか、あの解散コンサートの時の「燃え尽きた感じ」の理由が自分に、説明できました。
その後、エーちゃんはヤンキーのアイドルとなり、ツッパリの象徴になってゆきました。。。。
私は東京で、オサレな彼氏を見つけて、ユーミンや、はっぴいえんどや、シュガーベイブ(山下達郎)に見に行くようになった。。。。笑
、、、、、「はい。では、また来週、来てください。」
という先生の言葉で、ふっと我にもどって、起き上がった。
そしたら、痛みが半分になってた。
先生のポキポキ作業のおかげか、エーちゃんのおかげか?
杖の代わりにしていた持って行ったあの傘が、帰りには、もう、いらなくなってた。
スクっと一人で立って、歩けた。
そして、診療台で降ってきた、私の燃え尽きてた記憶のかけらも、
ロサンゼルスの乾燥した空気で、カラカラに干からびて、
どこかに飛んで消えていった。。。。。。
L*