鹿殿
小ぶりの山が連なる山すそに大きな館がある。
この辺りを治めている豪族の館で主は弱冠18歳。
下の名を安清(やすきよ)という。
一昨年父を流行り病で亡くし、百人近い侍たちのトップだ。
安清には母と姉がいる。
母は昼寝と俳句で忙しく、姉はすでに隣国の豪族に嫁入りしている。
安清を実務で支えているのが、生まれて以来の守役である道安(どうあん)だ。
家老も家宰もいない当家では守役の道安が実質上のナンバー2だ。
若い安清と六十を越えた道安のコンビで一家を経営している。
世は戦さの時代だが、ここだけはエアポケットのように静かな平和が続いている。
安清にはさぼり癖があり、今日も家来を連れて桜の下で花見をしている。
道安は「お館様は今日は花見か、昨日は川釣りだったのう」と安清のさぼりを嘆きながらも平和を楽しんでいる。
「さあ飲もうぞ」
安清は草の上に敷いた茣蓙に座って供の者たちに言った。
ちらちらと桜の花びらが酒の席で舞っている。
「近隣の様子も騒がしくなってはおるようですが」
と白髪頭の家来が遠慮がちに言うと安清は
「ここは京より遠いし、隣は姉の嫁ぎ先じゃし、しばらくは大丈夫であろう」と返した。
「左様ですな」と白髪頭は答えながら空を見上げた。
安清は話を変えた。
「おお、鹿がこっちを見ておる」
数頭の鹿が安清たちを見ている。
鹿は安清を知っているのか、ぞろぞろと近づいてきた。
白髪頭は鹿を見ながら小さな小さなため息をついた。
安清の異常なまでの鹿好きにうんざりしているのだ。
安清は鹿を異常なくらい大事にしている。
「鹿に危害を与える者は罰に処す」という立札を領内に何本も立てているくらいだ。
もっとも罰の中身は書かれていないので安清の気分次第らしい。
こんなもの家臣も領民も面白くはない。
安清の「鹿様お大事」には理由がある。
幼少のころ父母や家臣とともに花見に行った際、鹿を追って森に入り、ひと晩行方不明になったことがある。
守役の道安や安清を見失った家来も切腹か、とまで思い込んだ大騒動だった。
安清が迷い込んだ森は落ち葉の時期で日差しも弱く、彷徨っているうちに一気に日暮れになった。
月明かりを頼りに必死で歩いていると野原に出た。
夜空に浮かぶ山や木は、その影が妖怪か怪異のように見える。
怖さに加え、腹も減り喉も乾き、辺りには松明の灯り一つさえ見えない。
とそのときだ、月の明かりに幾つもの影が浮かんだ。
ざわざわと動いている。
とつぜん、影はピ~ッと甲高い音で啼いた。
他の影も一斉にpi~pi~、pi~pi~と派手に啼き始めた。
「鹿か」と安清は気づいた。
「人間がいる、気をつけろ」という鹿同士の合図の啼き声だ。
鹿の鳴き声は笛のように鋭く、音の無い山の中では遠くまで届く。
泣きそうになる安清の横で鹿が啼きまくる。
安清はたまらなくなって思わず大声を上げた「黙れ!」
ところが、その鹿たちの啼き声を安清の捜索に加わっていた猟師が聞いた。
「鹿があちらの方角で啼き続けております。何かがいる証であり、ひょっとしたら安清様やもしれません」
猟師を先頭に十数人が松明をかかげながら続いた。
獣道であり並みの人間には歩けないが、猟師は鹿の鳴き声がしたほうに真っすぐに森をかき分けて進んでいく。
「安清さまぁ~ 安清さまぁ~ やすきよさまぁ~」
と全員が大声を上げながら猟師に続いていく。
そのとき闇の中から声がした。
「ここじゃ~ 安清はここじゃ~」
一同に喚声が上がった。
「おお~ おられたぞぉ~、あそこじゃあそこじゃ」
小さなすり傷、切り傷だらけで泥まみれの安清が見つかった。
握り飯を食い水を飲み、家来におんぶされて森から出てきたとき安清は大泣きしていた。
あれ以来、安清は鹿を神のように思い始めた。
鹿は「人間がいる、気をつけろ」という意味で啼いただけなのだが、安清は違った。
「鹿がみなを呼んでくれて助かった。自分を助けてくれたのは鹿だ」
と解釈したのだ。
以来、安清は自分を救ってくれた「鹿たち」にいまも感謝し、ときには手を合せる仕草までする。
家来も「拝むのは、行き過ぎであろう」と思っているが、これは心の問題であり、特に困る事でもないのでほっている。
それに安清は鹿を大事にはしても動物が好きというわけではない。
家には野良犬や野良猫も何匹もいるが、興味もない。
いじめもしないが、特に優しくもしない。
道安も男子にしては珍しいと言うほど安清は動物には無関心だ。
なのに鹿だけは特別扱いだ。
しかし鹿は一方では家臣にも百姓たちにも迷惑な存在である。
稲の葉をかじって枯らし、木の皮を食い剥いで木も枯らす。野菜の葉っぱも食い、田んぼを踏み荒らし、野良犬や狐に追われては畑を荒らす。
おまけに鹿を狙ってときには熊まで現れる。
だがそういう周囲の思いは安清には通じない。
それどころか、鹿のために何かせねばと安清は考え、一時は鹿神社はどうでしょうか、それとなく父に言ったこともある。
父は「考えておく」とだけ言って放置し立ち消えになったこともある。
そもそも鹿は元々から縁起の良い生き物でもなく、どこにでもいて珍しい獣でもなく、どちらかというと間抜けで、やることは人間が嫌うことばかりだ。
なので道安も家臣も領民も鹿には冷たいのだが、そういう周囲の態度が安清にはまた気に食わない。
数日後、安清は立て札の立て替えを命じ、札の定め書きの文句も紙に書いてこのように記せと命じた。
以前から鹿を食べている者がいるという噂もあり、注意書きの文言はより過激になっていた。
「何人たりとも鹿に害を加えることを禁ず。作物を守るときは柵を張るべし。また鹿を食した者には厳罰を与える」
例によって厳罰の中身は書いてはない。
仕える役人に尋ねても「書いてある通り、厳罰だ」としか言わない。
最初の札より過激で、罰の中身は書かれておらず逆に怖い。
鹿に石を投げて遊んでいた小童(こわっぱ)たちも、他人に見えるところでは石投げをやめた。
いつしか安清は「殿は殿でも鹿殿様じゃな」と揶揄されるようになった。
たまの領内見回りでも「鹿殿が来た」と陰口をたたかれている。
そんなとき事件が起きた。
朝、町の裏手の山で烏が啼きながら何羽も騒いでいるので、近くの者が見に行ったところ鹿が胸から首にかけて斬られ死んでいた。
遺骸は目立たぬように窪みに落し、上から木の枝がかけられ、土もかぶされていた。
大きな角を持った雄鹿だったが、切り口は鋭く侍が斬ったことは確かだ。
安清は激怒し、すぐに犯人探しが始まった。
二日ほどしてそれが誰かわかった。
安清も幼い頃からよく知っていた若侍だった。
若侍は潔く「確かに拙者が斬りました」と即答し、こうも言った。
「見つからぬように細工をしたことも恥じております。斬ったその場で正直に申し上げれば良かったのですが、その勇気もなかったことも恥じております」
道安は若侍もその一家もよく知っている。
なにせ豪族とはいえ小さな集まりだ。
家臣はみな親戚一統のようなもので、みなが顔見知りだ。
だが安清は顔を真っ青にしながら若侍を見ている。
それを見て道安は不安を感じた。
(これは厄介なことになりそうじゃ)
道安の不安は的中した。
「なぜ斬った」と道安が問うと、若侍は短く端的に言った。
「散歩していたところ、あの雄鹿が近づいてまいり、何がどうしたのか突っかかろうとしました。あの角で突かれては偉丈夫な男でも無事では済みませぬ。仕方なく居合にて一気に斬り上げてございます。しかしこれはまずいと思い、そばの窪みに引きずって入れ、上を木枝や土で覆いましてございます」
だが侍が一人で散歩するようなところではない。
誰かと会っていたのだろうと道安も思ったが皆も同じだ。
「あそこの娘であろうな」
と道安の側近がささやくと、道安もうなづいた。
娘とは家臣の娘で若侍とは相思相愛の仲だ。
すでに家中には知れ渡っており、互いの親も認めている仲だ。
だが安清は顔を青くしたまま若侍を見下ろす目が尋常ではない。
道安にはわかっている。
これは道安しか知らないことだが、その娘に安清は興味があるのだ。
だがその娘が恋慕している若侍がよりによって鹿を斬り殺した。
(やれやれ、どう収めるか)道安は必死で考えている。
道安は安清に言った。
「身を守るためにしたこと、仕方ありませぬな」
だが安清は許さなかった。
「それでは示しがつかん、そのほう切腹を命ず」
一同に衝撃が走った。
「お館様、それはなりません」
と道安が言ったが、安清にも主の面子がある。
おまけに娘のこともからんでいそうだ。
安清は続けた「ダメじゃ、切れ」皆が諫めるので余計に意地になった。
そこへ相手のその娘が駆け込んできた。
ここの話しが耳に入ったらしい。
安清が仁王立ちで若侍と娘を見下ろす中で娘が両手を土につけて言った。
「あのとき私もおりました。あの鹿はなぜか私を目がけて突こうとしたのでございます。私の眼前に鹿の角が迫ったとき、一瞬居合で鹿を斬ってくれました。そうでなければ私が突き殺されるか大怪我を負っているところでございました。面白半分で鹿を斬られたわけではございませぬ、なにとぞ」
道安も助太刀をし、切腹の命を諫めた。
「多少の罰はしかたありませぬが、切腹は行き過ぎにございます。まさに鹿より家来を疎んじるがごときのお指図は決して良き結果は産みませぬ。より良きご裁可であれば家臣も領民も『しかどのに・・・』
と道安は言いかけ、あわてて唾を飲み込み言い直した。
「良きご裁可は家中領国の一層の安穏をつくります。なにとぞ良きご裁可を」
安清はチッと舌打ちし、言った。
「ならば家屋敷取り上げ追放とする。そう心得よ、反すれば一家もろとも成敗いたす」
と怒鳴って奥へ引っ込んだ。
(結局は追い出しか、まあ腹を切るよりはよいが)
道安は安清を見る目が変わったことを自覚していた。
若侍は数日かかって家屋敷をきれいにし、家財を載せた荷車を人足四人に引かせ、両親とともに里を去った。
道安は安清の姉に総てを知らせ、嫁ぎ先の家にしばらく預かってもらえるよう計らった。
そして娘もその後すぐに家を出て若侍のあとを追った。
(鹿を斬った怒りと娘を奪われた怒りが一緒じゃったようじゃな、しかし思っておった以上に怒りやすいお方じゃ)
道安の心はすでに安清から離れている。
それは家臣も領民も同じだ。
何かが動き始めた。
なんともやるせない空気が領内に拡がっている。
誰一人として安清の仕打ちを認める者はいない。
やがて安清の館の門前や街道のそばに鹿の生首が転がる事態が頻発し始めた。
そして町中に檄文まで立った。
「鹿殿様にも困ったものじゃ、家臣よりも鹿が大事とは恐れ入る。年貢は上げるわ鹿の稲の食い荒らしは見逃がすわ、では百姓もたまったものではない。これで良いのか、鹿殿の治世で良いのか」
立て札の前はごった返すような人だかりになった。
だが安清は平気だ。
自分がやりたいことだけを今もやっている。
最近は鹿が見えると餌までやるようになり、屋敷の中まで鹿が堂々と入ってきては庭木の皮をかじったり花を食ったりしている。
女中も庭師もうっかり鹿を追い払うこともできない。
これは総て自分の意に賛同しない家臣や領民への開き直りなのだと誰もが思った。
安清の家中も領内も様子が明らかに変わってきている。
道安も最近は気心の知れた者たちを集めては酒を飲みながら何かを話している。
安清の周りから人が消えた。
だがそれでも安清は鹿と戯(たわむ)れている。
館も領内も空気ががらりと変わった。
そして年が替わった春先のこと。
朝陽を浴びながら国境の街道に多数の人馬が現れた。
安清の領内に続々と入ってくる。
馬のいななきも聞こえ、鎧が音を立てている。
春先の光りに槍の穂先が鋭く光る。
ひるがえる幟には安清の姉が嫁いだ家の家紋が記されていた。
だが安清の家来のほとんどは国境には行かず、道安とともに館の門前に立っていた。
兜鎧こそつけていないが、みな頭に鉢巻き、たすき掛けで槍を持つ者、弓を持つ者もいる。
道安が大声で怒鳴った。
「開門せよ、道安である。お館様に言上(ごんじょう)のことあり」
門番は道安と侍たちの姿を見ておどろき、すぐに門を開けた。
道安たちは一斉に館の中に入り、安清の居間に真っすぐ向かった。
しかし安清の姿はない。
母もいない。
「さては知ったか」
すると奥から女中が一人引っ張り出されてきて道安の前に座らされた。
安清のそばに仕えていた老女中で、道安とも幼少のころからの付き合いだ。
「おい、おどろくな、見ての通り、謀反である。お館様はどこへおられる。永い付き合いじゃ、正直に言えばなにもせぬ、言え」
女中もこういう事態を予測していたようだ。
落ち着いて口を開いた。
「道安殿、ご一統様、ご苦労にございます」
と言ってのけ、続けた。
「一刻前のこと、なじみの炭屋が汗かいて参りましての、お館様に『姉上様の嫁ぎ先の軍勢が国境を越えゆっくりと近づいております。数はおよそ五六百、狙うはお館様であり、合わせて道安殿もご謀反にございます。
お館様にはもはやお味方はおらず、命惜しくば一刻も早くお逃げなされませ』と言いよりました。安清様は驚かれ、あわてて母上殿と二三の女中をお連れになって館を離れていかれました。ほとんど着の身着のままで何のお考えも無かったようにございます」
「一体どこへ逃げたのじゃ、逃げる先はあるまいに」
「下谷神社へ向かわれました」
「あの道は行き止まりじゃが、本当であろうな」
「鹿殿と心中する気はございませぬ。お信じなされ、わたくしも謀反の仲間じゃ」
「わかった。皆の者、お館様は下谷神社じゃ、母御も同道しておられる、すぐに追いつける。走るぞ」
おお~うと喚声が上がった。
神社から奥は神領でもあり宮司と猟師しか入れぬ決まりで、鬱蒼(うっそう)とした森になっている。
しばらく行くと道に物が落ちている。
「これはご母堂様の小物じゃ、必死で逃げる中で落としたのであろう。気後れするな、我らの謀反は神仏も許される、後ろを振り返るな、急げ」
「うわ~っ」という喚声とともに鳥居をくぐり神社の境内に入った。
境内にはいない、なら周りの森の中だ。
道安が森に向かって叫んだ。
「お館様に申し上げる。もはや逃げ場はございませぬ。お母上殿ともども出てくだされ。命は奪いはしませぬ。森にはもうマムシもムカデもおりますぞ」
足軽頭の侍が道安に言った。
「近くに潜んでおられますな」
「うん、わしたちの顔も見えておろう、じゃが無理すればケガ人が出る、待つのが一番じゃ」
みな声をひそめ、音も立てずにじっと広い森を見回している。
そのときだ、鹿がpi~と啼いた。
「鹿か、クソッ」
と誰かが大声で口走ると、あちらこちらで啼き始めた。
「我らへの警戒もですが、鹿殿一行にも啼いているのでは」
道安もそう考えた。
「うん、もうちと聞いてみよう」
鹿が啼き続けるが、啼き声の輪が段々と小さくなってくる。
「道安殿、左手の奥の辺りに何かいそうですぞ」
「うん、確かにの、何か葉がこすれるような音がする。鹿ではなかろう、あいつら森の中を走っても音は立てぬからの」
すると今度はPI!と短く啼いた。
そのときだ
「黙れ!このバカ鹿!」
とひときわ大きな怒声が聞こえた。
安清の声だった。
みなが安清だとわかった。
「おられたぞ、あそこじゃ」
道安もみなも一斉に怒声のほうに向かって入って行った。
「おられましたな、お館様、もはや観念なされ」
安清は揺れるようにふわ~と立ち上がった。
呆然としながらも、どこかふてぶてしい。
「謀反人め、ようもオレの前に出てこれたのぉ」
「さよう、謀反人でござる。安清様に領国の経営は無理にござる。家来一同も領民も同じ思いにござる。命までは取りませぬ、身の立つように取り持ちもいたします。館にお戻りなされ、お供いたしまする」
安清も母もぞろぞろと森から出てきた。
泣きじゃくる幼い女中を抱きしめながら母は安清に向かって言った。
「この親不孝ものめ、母をどこへ連れて行く気じゃったのか」
安清はそっぽを向いていた。
森の端っこにいた数頭の鹿が近づいてきた。
皆が見ている中、安清は足で鹿を蹴っ飛ばすふりをしながら「クソッこのヤロー」と口走った。
それを見た道安は声も出なかった。
バカバカしいような謀反は、安清と母が馬に乗せられて館に戻ったときに終わった。
館には先鋒の兵がすでに入っていた。
玄関に並んだ兵の端に立っていたのは、あの若侍だった。
道安と目が合うと嬉しそうに頭を下げた。
道安が聞くと、あの娘もともに元気に暮らしているという。
その後、安清は頭を剃って仏門に入り、母は姉の嫁ぎ先にもらわれていった。
安清の座布団には、姉の嫁ぎ先の親戚からきた若い領主が座った。
(これも安清にどこか似ておるが、まあええ、あとは誰かがやるじゃろう)
総てが片付いたころ、道安は下谷神社の鳥居の前で切腹して果てた。
謀反の責任を取ったのだ。
誰も一人とてケガらしいケガもせず、道安一人がこの世を去ってクーデターは終わった。
安清が行かされた寺の周りも鹿が多い。
安清が小鹿を追い回していた、という噂だが本当かどうかはわからない。
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