爪
※におわせ程度の性表現があります
蝉の声が五月蝿くて、一瞬聞こえなかったのだ。
赤い夏色に染まる、がらんとした教室。この世の終わりを彷彿とさせた夕焼けは、僕の心をなお焦らせた。
「あの、なんて言いました?」
聞こえなかったことをヒグラシのせいにして、なんとまぁずるい。聞きたくないからって、やらしい手を使いました。でもええねん、これぐらいのことは許して欲しいのよ、これぐらいのこと。
「なんてって…もう、何回も言わさんといてやぁ」
「だってほんまに聞こえなかったんですもん」
「えぇ〜…、しゃあないなぁ。…一回だけしか言わへんで?ちゃんと聞いといてな?他の人に聞かれたら困るから」
知らへん人の机の上に調子良く、男にしては長い爪を携えた左手、を置く林田先輩。眼鏡に反射して一瞬見えにくいが、憎たらしいほどの笑顔で目が糸のようになっていた。
この間にだって、僕は心臓が張り裂けそうなくらい辛いんです。自慢の細長い脚が、生まれたての小鹿みたく震えているのが分かる。嗚呼濃くなった自分の影に飲み込まれてしまった。蒸し暑い風に背中が焼けそうにもなった。
「うふふ、俺なぁ。彼女、できてん」
真っ白な歯が、三日月形になって僕の前に姿をあらわした。誰もいない廊下にまで響いた気がした、彼女できてん、の言葉。ヒグラシさえも押し退けた先輩の声は間違いなく、歪みなく、僕の耳に届いてしまった。
目を合わせたくなくなった両目は、必死に彼の清潔な上靴を見つめ始めた。2年1組林田誠…あぁ、やっぱり目の前にいる人間は林田先輩なんですね。
僕はとにかく胸が痛むのです。口が渇いて苦しいので、いますぐ貴方に食堂前にある唯一の自販機へと走ってもらって、甘くておいしいコーラーでも買いにいって欲しいんですよ。ほんで飲んで、炭酸と一緒に飲み下したいんです。
「どーせすぐ別れますよ、どーせ」
つんっと唇とがらせて、からく吐き捨ててやる。すると、それを受けた先輩は更に口角を上げて、斜めから僕を見つめた。
「なに?不安なん」
「不安って。なんで…」
「別に彼女できたからって、俺はなんも変わらへんよ」
「不安なんかじゃないですし、それぐらい分かってます!にやけてる先輩がきもかったから言ったんです」
「誰がきもいねん!」
そう言って、昨日の彼となんら変わらない様子ではにかまれた。
胸がずきんって、した気がした。
宣言通り、あの日からなんも変わらない先輩は、いつものように一緒に登校してくれるし、すれ違ったら挨拶してくれるし、目があったら笑ってくれるし、いつものように一緒に下校してくれる。
まるで彼女ができたなんて嘘みたいで、逆にこっちが心配になるくらいでした。登下校も一緒にしてくれない彼氏なんてって。すぐ別れてまうんちゃうかって。でも、その心配はありませんでした。
だって先輩、あの日から深爪くらい爪を短く切るようになったんですから。
まぁ、危ないですもんね。傷、ついちゃいますもんね。なんて、無意識に心配しているフリをし続けている自分に、吐き気がしたのです。
高校生の頃に書いた創作BL小説でした。
ひぐらしの声が狂うほど好きでした。今でも!
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