俺の指紋が家出した
「もう、私への雑な扱いにうんざりしました。実家に帰らせていただきます」
大量の食器を、冬の温度でキンキンに冷えた水で洗い終わり
狭いリビングのど真ん中に鎮座する、新しめのちゃぶ台
の、上に重々しい雰囲気をまとった、ぐしゃぐしゃの紙切れ
「もう、私への雑な扱いにうんざりしました。実家に帰らせていただきます」
俺の右手の人差し指の、指紋が。家出した
なぜこうなったか。心当たりはある
肌が弱い癖に、ろくにハンドクリームも塗らずに冬場を過ごしてしまったり
バッキバキの素手で、食器を洗ってしまうし
かじかむ手で、書類の作業をしてしまって、紙で切ってしまったりもした
俺の右手の人差し指がブチギレてしまった。いわゆる、「激おこ」ってやつだ
なんとなく、他の指たちも「激おこ」状態なのか聞いてみると
「まぁ、ご主人も、今月から初めて一人暮らしに挑戦してるんだから。僕ら中指に気が回らないのは仕方ないよ」
「引っ越しとかの書類も大変そうだったしねぇ〜。でも、ハンドクリームぐらいは塗ってほしかったな〜!薬指にとって、保湿って割と大切なんだよ〜!!」
「食器を洗うということは、しっかり自炊しているし、ご飯をちゃんと食べているってことだろう?親指はご主人が健康に過ごせているだけで幸せなんだよ」
「ばぶう」
中指、薬指、親指、小指、それぞれの考えを聞いて、つい涙がこぼれそうになった。大学が決まり、実家を離れて人生初の一人暮らし。母の後ろ姿を必死に思い出し、なんとなくでやっている家事というものに、頭を抱えていたところだった
古本屋で購入したレシピ本の通りに作った、大好物のチーズケーキは、卵焼きと化した
ちゃんとボタンを間違わずに押せたか不安で、けたたましく動くドラム型洗濯機から、いまだに目が離せない
角という角にヘッドをぶつけてしまう、掃除機による部屋の掃除
天気予報を見る習慣がなかったことがガンガン裏目に出てしまう、午後から雨に濡らされる、俺のボロボロのジャージ
あぁ、母よ。偉大なる母
忙しそうな背中を横目に、スマホばかりいじってごめんよ
そう、乾ききった、虚しい一人のこの部屋で、俺は独り言をつぶやいていた
それから俺は、何にもひっかからなくなった右手の人差し指で、ツルツルと滑りながらテレビを見たり、洗濯物を畳んだり、お紅茶を飲んだり、いつもよりゆったり過ごしていた
やっぱ、なんか不便なんだよなぁ、なんか
書き置きなんかしやがって、人差し指の癖に。てか、実家どこなんだよ
小さなストレスを感じた俺は、不満を吐き出すため、スマホでツイッターを開こうとした
あっ
俺の右手の人差し指の、指紋が、そこにいた
そことはつまり、スマホの画面の上だ
兄が大学の仲間たちと飲み会を開いてる時も
妹が、風呂上がりのスキンケアにつとめている時も
父が定時で帰ろうと必死に仕事をしている時も
幼い弟が積み木でお城を建てている時も
母が俺のジャージの穴を縫ってくれている時も
俺は
スマホばかりしていた
フリック入力は、人差し指派なんだ、俺
今日、俺の右手の人差し指の指紋は。あまりにも俺がスマホをいじりすぎて、スマホの画面を実家だと勘違いして、そこにひっそり隠れていました
はぁ、実家、帰りたい。