定年後フリーランス☆経歴・実績の虚構・虚像
あらゆるモノやコトは記述された時点で虚構の色を帯びる。宿命的に。虚構を差し入れる意図がなくとも。記述した者の主観がどうしてもそこに入るから。記述されたものが虚構の色を帯びるのは紙媒体もデジタルも同じだが、デジタル(インターネット)上の記述は、より濃く虚構の色を帯びる印象がある。ビジネスに限らず、人間いろいろなことを経験してきたら、記述されたものから何割かは割り引くものだが、まともに読んで額面通り受け取るひともそこそこいるみたいだから、経歴や実績の記述の虚構をなるべく除けて、それ以上でもそれ以下でもない等身大の実体をおさえる必要がある。よってその方策を。記述してみると当たり前すぎるほど当たり前のことだが。
1.固有名詞と具体的な数字の出てこない記述は、まず信用するな。
現実世界において裏付けがとれないものは、のうのうと絵空事を記述している可能性がたぶんにある。所属する組織や取引先であるお客さんに迷惑がかかるといけないから、というもっともらしい理由づけがあるが、よほどの守秘義務があるものでない限り、ふつう具体的な固有名詞とか数字の記述はできるはずだ。記述された内容を相手が見たときの気分を慮ってのことかもしれないが。そもそもそんなことを慮るならば、中途半端に経歴や実績を記述しなければよい。しずかにしらっと何も披瀝せずに仕事したらよい。
2.固有名詞と数字は出来うる限り精査すべし。
経歴や実績のなかに具体的に固有名詞や数字の記述があったとしても、その中味は細かく精査したほうがよい。例えば肩書き。ちょっと見の見栄えはよいがほぼほぼ〈お飾り〉の肩書きは沢山ある。よってその肩書きのもとにやっているであろう仕事の中味を精査、評価するべし。
教授や講師や研究員の頭に〈特任〉とか〈客員〉とか〈招聘〉とか〈非常勤〉とかが、付されている場合の仕事の実質。たとえば大学の非常勤講師は私の認識だと、食えない研究者を一時的に救済する仕事(アルバイト・パート的な)に付された肩書きである。複数校で複数講座やったら辛うじて食えはするだろうし、とりあえず学生に何か教えるという仕事の実質はあるが、プロの教員(教授・准教授・講師)と違うのは、その肩書き、つまり非常勤講師に基づく仕事からは、その分野において資産と評価されるような成果はまず生まれないということだ。(因みに昨今は、プロの教員とて定期的に具体的な成果(論文とか著作物)を出さないとほかされるから安閑とはしていられない。)。その実体を踏まえて、〈非常勤講師〉をどう評価するかということ。むしろ〈非常勤講師〉よりも、端的に〈研究者〉と記述されていたほうが、その分野に資産を生むような仕事をしている可能性が高い。もちろんその場合、著作物や論文という成果物の精査が必須となるが。
企業の社外役員(取締役や監査役)は、それなりの規模のところは事業報告に選任理由を記載するから、さすがにまったくの〈お飾り〉ということは無いかと。どの程度の関わり方をしているのかはいろいろあろうが。小さな企業や社団法人、NPOの役員等は記述を鵜呑みにはできない。どれも設立するのはさほど難しくないから。実質〈お飾り〉(名義貸し)のものもある。やはりその肩書きのもとにやっている仕事の裏とりは、実働しているのかどうかを含めて必要かと。もちろん該当の企業や社団法人、NPO自体の実体の精査も。
企業における仕事の実績でも、「◯◯のプロジェクトに参画」とかよく見るが、その中味は、該当のプロジェクトに携わった折の資料等をみせてもらうか、当時の関係者に取材でもしないかぎりじっさいのところは分からない。たとえば「◯◯のプロジェクトに参加」など単なる使い走りなのかコアメンバーでやったのかでまったく違うし、そのプロジェクトと称しているものの実体の確認も必要だ。他のさまざまな実績記述についても同断だ。私は日頃、カルチャースクールの講師を数多くやり、ときおり講演会やシンポジウムで喋ったりしているが、かつて或る講演会エージェントに講師登録申請をした際、過去5年間に実施した講座や講演会の詳細内容(日時・場所・時間・講義公演内容・主催者)を漏れなく提出せよと言われた。当時の資料を引っ張りだしてきて苦労したが、そのぐらい詰めて確認するのは当然のことだと思った。
シビアな利害関係(とくに金銭)が生ずることのないもの、あるいはお遊び気分でちょっと協働するぐらいのものはやり過してもよいのだろうが、相応の銭金払って仕事を頼むとか、銭金が絡まないまでも志を立てて社会に有為なことを一緒にやろうとするような場合は、相手の経歴や実績はよくよく精査したほうがよいかと。無駄な銭金や時間、心的・肉体的労力を費やさなくとも済むから。
冒頭、モノやコトは記述されると宿命的に虚構の色を帯びると書いたが、昨今は意図的に記述に虚構を綯い交ぜし虚像をこしらえている不埒ものが、大物小物関係なく跋扈している印象。モノの本質が見えづらくなってかなわぬ。モノやコトの記述は、まずそれ以上でもそれ以下でもない〈等身大〉でなければならぬ。それが確認されたうえでの経歴や実績の評価だ。