蟻と豆腐 第3号(2024年12月30日発行)
初蝶来/中田剛
風なりに初蝶のゆく田んぼかな
入学の日の校庭の砂埃
逆毛たてみなぎる恋の猫である
疏水けふはやき流れや花は葉に
ぶらんこのひとりであそぶ日暮かな
廻つたり廻らなかつたりかざぐるま
燕来よ青ひといろの空から来よ
燕来る檐に昔の匂あり
永き日や蟹満寺までだらだらと
春宵一刻猫が屋根から降りて来ず
犬猫の嚔(くしゃみ)おもしろ春うらら
口漱ぎまた新緑を歩きだす
どの田にも細波のたつ梅雨入かな
〈入学の日の校庭の砂埃〉は中学校入学時の記憶の光景。砂埃というよりじっさいは土埃。千葉ならではの関東ローム層。晴れ続きのグランドは土埃がわんわんで向こうの景色がまったく見えなかった。何かあまり芳しくない行く末が想像されたが概ねそのとおりになった。因みに小学校入学の日回想の作が〈入学の日の雨冷えの廊下かな〉。おそろしく寒くて震えあがった。そのことだけしか憶えていない。〈逆毛たてみなぎる恋の猫である〉。猫の恋の季節の或る日、一匹の雌の争奪で睨みあっている雄三匹の渦中に不覚にも踏み込んでしまったことがある。三匹とも背中を盛り上げて逆毛をたてて低くドスの効いた声で唸って微動だにしない。ひさしぶりに猫怖ろしやと思った。〈ぶらんこのひとりであそぶ日暮かな〉の初案は〈ぶらんこのひとりあそびの日暮かな〉。ひとが降りたあと惰性でまだ揺れている、という風に読まれたくなかったから。ひとが離れてからブランコはブランコの人格をもち自らを励まし漕ぐ。〈廻つたり廻らなかつたり風車〉は見たそのままの他愛のない描写なのだが、あとから違った意味が付着してきた。端的に言えば、人の世はとにかくいろいろな奴がいる、と。或いは、そのときそのときの気分によって対処の仕方はいろいろ変わるもの、と。〈永き日や蟹満寺までだらだらと〉の蟹満寺は京都山城の古いお寺。むかし一回行ったきりだがつよく印象に残っている。巷では蟹の恩返し(動物報恩譚)をもって知られる。いろいろ話は混み入りながら別途、異種婚姻譚も伝わる。蟹満寺にも風車がいくつか廻っていた記憶がある。
蟻と豆腐集(会員作品)/中田剛 選・評
駐車場で踊りませんか春の宵 猪倉さえこ
一面のパンジー揺らす逆上がり
石拾ふ子をずつと待つ春夕べ
辛夷咲く刈株てんやわんやして 近藤和草
春の夕皆西を向く飛行雲
蟻と豆腐集・句評ー妄想の果てに
第二号に引き続き、おふたりに投句いただいた。猪倉さえこさん、近藤和草(にこぐさ)さん、どうもありがとうございました。
まず猪倉さえこさんの作品について。
駐車場で踊りませんか春の宵
「ダンスはうまく踊れない」という歌があった。高樹澪が歌っていた。一九八〇年代のはじめ。サラリーマンになって二、三年ぐらいの頃だったかと。気だるい感じが好きだった。高樹澪がつくった歌だとずっと思い込んでいたのだが、井上陽水の作詞、作曲であった。のちに奥さんになる石川セリと付き合いはじめの頃、気を引こうと三〇分ばかりで書き上げた楽曲、というエピソードがウィキペディアに載っていた。なかなか洒落ている。三橋鷹女の〈煖炉灼く夫よタンゴを踊らうか〉〈老いながら椿となつて踊りけり〉を思い出した。ところで夜更けの空き駐車場は意外といろいろやっている。腰を据えての酒盛りは幾度か目にしている。あとサイファーもときおり。
一面のパンジー揺らす逆上がり
空き地か。鉄棒や雲梯や滑り台などがあって、近くにパンジー(三色菫)が咲きひろがっている。パンジーというと花壇のそれを思うのだが、〈パンジーの畑蝶を呼び人を呼ぶ 松本たかし〉もあることだから咲くに任せている感じ。逆上がりの練習。何度も勢いをつけて納得のゆくまで。中七音中の〈揺らす〉は〈揺らし〉もありかと。
石拾ふ子をずつと待つ春夕べ
買い物帰りか。夕飯の支度もせねばならぬしいらいらするところではあるが、子供の興味に暫くつきあう。子供には子供の世界がある。自分だけの想像の世界にひとたび入り込むとなかなか戻ってこない。幼少期の子供を育てるのは忍耐が要る。此の句の内容とはまったく関わりがないのだが〈石拾ふ〉を見ていて、つげ義春の漫画「石を売る」を思い出した。漫画家、中古カメラ屋、古物商と手をつけたものどれもうまくゆかず窮した挙げ句、河原に転がっている何の変哲もない石を拾いあつめて売りはじめる。そんなもん誰の目でみても売れるはずがなく。女房からは、能なし、虫けら、と愚弄される始末。でもここまでくると馬鹿らしさを突き抜けてシュール。下五音〈春夕べ〉を上五音に持ってくるのもありかと。母親と子供の光景を〈春夕べ〉が包みこむ感じになるかと。
次に近藤和草さんの作品について。
辛夷咲く刈株てんやわんやして
刈株(かりばね・かりかぶ)は、稲や麦などを刈り取ったあとの株。とすると〈刈株てんやわんや〉は田起しの様子の描写かと。桜と同じく辛夷も稲穀の神霊の依代であったという。辛夷の花に田起しが囃されているようにも。ひとつ上五音は〈辛夷咲く〉とひと呼吸入れずに〈辛夷咲き〉とすみやかに中七音に接続したほうが、春が動き始めた感じがより出るかとも。参考まで。
春の夕皆西を向く飛行雲
じっさいの状況はどうだったのかは分からない。此の句の表現からのひとつの見え方として、飛行機雲は西へ向けてまだどんどん伸びている感じはある。機体は見えているのかどうか。〈皆西を向く〉だから複数の機体、それも数機がほぼ並んで進んでいる印象。緩く大きく撓む数筋の航跡。下五音の〈飛行雲〉はやはり〈飛行機雲〉かと。或いは、船のみならず飛行機の道筋にも〈航跡〉は使えるとあるから、別案として〈春の空航跡は皆西を向く〉〈春空の(や)航跡は皆西を向く〉など。参考まで。
なお〈犬ふぐり白き星ほどたくさんに〉は、高浜虚子に〈犬ふぐり星のまたたく如くなり〉(昭和十九(一九四四)年)があるため類似表現とみなし採らなかった。
松尾芭蕉という男(二)/中田剛
創刊号(2024年12月4日付)では、弟子の仕様もない喧嘩の仲裁になぜか知らぬが首を突っ込み、挙げ句のはては引き摺り回されて死んだ最晩年の松尾芭蕉についてちょっとだけ言及したが、そのあたりの経緯をもう少し書いてみたい。
弟子の之道と洒堂の縄張り争いの仲裁のため元禄七(一六九四)年九月八日(陽暦十月二十六日)早朝、伊賀を発って同日は奈良に泊まり、重陽の節句の九月九日に暗峠を越えて大坂入りしている。伊賀より奈良へは弟子の支考、素牛、甥の又兵衛、寿貞の子・次郎兵衛が同道。〈びいと啼く尻声悲し夜の声〉は九月八日作、〈菊の香や奈良には古き仏達〉〈菊の香や奈良は幾代の男ぶり〉は九月九日作。九月九日の二句をみる限り句調が張っており高揚感がうかがえるのだが、じつはこの時点で既にからだに何らかの違和を覚えていたのではないかと想像する。伊賀を出てから半月後の元禄七(一六九四)年九月二十三日付、兄・松尾半左衛門あて書状には〈大坂へ参(まゐり)候而、十日之晩よりふるひ付申(つきまうし)、毎晩七つ時より夜五つまで、さむけ・熱・頭痛参(まゐり)候而、もしはおこりに成可申(なりまうすべき)かと薬給(たべ)候へば、廿日比(ごろ)よりすきとやみ申候。〉とある。「大坂へ行ってから、九月十日の晩より激しい震えに襲われて午後四時頃から八時頃まで寒け、熱、頭痛があり、もしかしたら疫病(マラリア性の熱病)にかかったかと薬を飲んだところ、二十日頃からすっきりと治まった」と。だが晩方いきなり不調に襲われた九月十日は、弟子の杉山杉風(さんぷう)、向井去来両人あてに書状をしたためている。昼のうちはまだ不調の自覚がなかったのだろう。(書簡の参考文献:『芭蕉書簡大成』今栄蔵 角川学芸出版 二〇〇五年)
巨椋池雑記/中田剛
最近、桂信子について少し長めの文章を書くことがあり、その折、俳句とともに文章を読み直した。もともと句集『緑夜』所収の「川の流れ」と題する文章はつよく印象に残っていた。自分の来し方を成長のおりおり身近に見ていた川の光景に絡めて語る よい文章なのだが、最後の最後にその情緒をひっくり返す一節〈私の心のうちを流れる水は、私を遠い昔へ運んでくれる。これからも、私はたぶん水に添って、歩いてゆくだろう。それがたとえ、奈落の口へ流れ入る水であったとしてもー。〉が現れて驚いた。
桂信子の文章だけを集めた『桂信子文集』(ふらんす堂 二〇一四年)にはもちろん「川の流れ」は収められているのだが、それとはべつに「信濃紀行ーわが幻の城始末記」と題する文章があって、これがなかなかおもしろい。「信濃紀行ーわが幻の城始末記」は、さまざまなひとに手助けしてもらって自分の父祖を信州の駒ケ根にさがしにゆく話だ。ただその本筋に自分の句碑を建てる話が絡んでくる。本筋ではないこの部分が私には滅法おもしろい。私小説になりそうな旨みのある話だ。ただ桂信子は作家ではないからそのようなコクをつけてはいないがなかなか読ませる。これだけの大俳人だから句碑建立の話が出てくるのは自然の流れだが、この信濃への父祖探索行と同じタイミングで周囲のひとたち(おそらく弟子)から句碑を建てたいという話が持ち上がる。そのとき桂信子は大変困ったことになったと思う。〈私は近頃の句碑ブームに何となくそぐわない気持ちをもっていたので、一も二もなく断った。だいいち、私の句には句碑に刻むような句がほとんどない。どこかの温泉旅館の庭に「ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき」や「窓の雪女体にて湯をあふれしむ」などの句が刻まれているところを想像して、私はひとりでふき出したが、しかしこれは笑いごとではない。私の死んだあと、現実にそんなことがおこるかもしれないのである。〉(「信濃紀行」)。ちなみに〈ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき〉〈窓の雪女体にて湯をあふれしむ〉は、第二句集『女身』(琅玕洞 一九五五年)所収の句。桂信子の初期代表作である。句集『女身』は題をみてもわかるようになかなか妖艶な作品集である。若くして夫を亡くした女性の孤独。生身をもてあます寡婦の嘆きのなまなましい描写の句が並ぶのだが、案の定、世間の好奇の目にさらされることになる。宇多喜代子さんの『この世佳しー桂信子の百句』(ふらんす堂 二〇一七年)には、『女身』所収の〈ふところに〉〈窓の雪〉と同時期作〈いなびかりひとと逢ひきし四肢てらす〉が抜かれ、当時のカストリ雑誌に取り上げられたことが問題視され、裁判沙汰寸前までいったというエピソードが書かれている。
編集のあとに/中田剛
歯が痛くなった。右上の奥の歯。生まれてこのかた虫歯になったことが無いゆえ、虫歯の痛さというのがじっさいにどういったものだか分からないのだが、ふあっとした痛みというか疼きが不定期に自覚されたのでもしやと思ったわけで。とりあえず我が栖の目と鼻の先のシモジ歯科クリニックへ。レントゲン撮って、更に痛みが自覚される右上奥あたりの写真を数枚。結果、ちょくちょく痛みが自覚された右上奥あたりに虫歯は無いと。それで痛みの拠ってくるところは、ひとつは噛み合わせの悪い状態での歯軋り。特定の歯にかなりの負荷がかかっているかと。もちろん経年劣化も相まって。それとは別にそうとう歯石が溜まっているから一度しっかり除いたほうがよいと。しっかり取り除くのには七、八回かかり、かなり出血すると。私は心臓にステントをひとつ入れている関係で抗血小板薬(血液をさらさらにする薬)を服用しているゆえ、血が止まらなくなると大変云々話したら、紹介状書くから近くの宇治徳洲会病院の口腔外科で診てもらったらどうかと。こんなところで血が止まらなくなったら大変と思ったのだろう。至極まっとうなリスク管理。私もこんなところで出血多量で頓死したくない。紹介状書いてもらって宇治徳洲会病院の口腔外科で診てもらうはなしはひとまずペンディング。もう少し差し迫った状況になったら又来ますから、その節はよろしく、と。現時点で既に、目(右目緑内障)、心臓(冠状動脈狭窄)、腰(慢性腰痛)、足(右足親指に痛風に酷似した原因不明の痛み)のボロボロ。このうえ歯とは。ちょっと誤魔化して遣り過したい気分。ふと飴山實先生の句〈身のうちに無明長夜や青あらし〉へ思いが至る。ちなみに此の句には〈近来なにかと病徴みつかり、あたかもポンコツ車を手入れしてはしるがごとき月日なり〉の詞書あり。
続・編集のあとに
すいません。当初書き始めた〈巨椋池雑記〉の文章がうだうだになったのが大遅刊の原因です。引っ張りたおして、結局、捨てました。ずっと〈素人料理〉という言葉に執着していたのですが、上手く書けませんでした。再挑戦するかどうかを考えます。あと〈蛙化現象〉だとか〈錯覚資産〉だとかも。気になって仕方がない言葉がまだまだ沢山あります。