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自分を褒めてやれる日もある、たぶん。


職業訓練の選考会を受け、企業の面接に行って、少しばかりの勉強をした。かなり密度の濃い1日だったと思う。別に俺が今まさに無職になろうとしているという現状には何ら変わりないが「今日1日これをした」という実感のようなものがあれば、自分を責めずに済むという俺の精神衛生上には大きく役立った日となった。効力は持続しないので、今日が終わる後数時間後までのものではあるが、それでも目をつぶりながら自責の念に駆られずに眠りにつけるというのは、とても心安らぐものである。

訓練にしろ面接にしろ、設けられる筆記試験は、読書が好きで適度に学生時代の問題集を解く習慣のある俺にとっては自尊心を満たせる、心の安寧を取り戻せる唯一の時間ともいえる。他人のペンの止まる音に安堵して、紙切れ一枚程度の優越感に浸れる。学生のころは、試験が好きで、試験で解けなかったものを復習して解けるようになるのが好きだった。あの頃は向上心があると評されたが、今は他人と比較して悦に浸る卑しい人間であるだけにすぎない。過去の、頑張っていた頃の自分に謝罪をしたい。できないことをできるように努力していた頃の自分に対して、できることしかできないと開き直っている自分が。

なにか、目的があって学生時代の復習をする習慣があるわけではない。ただ、こわいのである。ただ、昔の自分が当然のようにできていたものができなくなるのが怖い。昔できなかったものが今もできないというのは「成長していない」という別の恐ろしさがあるが、昔できたものが今できないというのは明らかに退化であり、自身の怠惰さを突き付けられるようなものだと思っている。から、こわいのだ。それを役立てようとか、親せきの子たちの勉強を見ようだとか、そういう前向きなものでは一切なく。ただ自分が過去よりも劣ることに気付きたくない。可能な限り目を逸らし続けていたい。それだけのことなのだ。

でも、ペンから手が離れた瞬間、俺の時間は終わってあとは宣告を受けるだけの存在になる。この試験会場に集まった人のなかから受講生が選ばれ、正社員に採用される人が出るのだ、と思うとなんだかもう。もうやめてもいいんじゃないかな、このままかえってもいいんじゃないかな、どうせ選ばれないのだしという気持ちが足元からせりあがってくるのだ。もうすでに4社落ちているのだし。筆記なんて目安であって、経験や資格、面接内容をこそ重視するのだし、という拗ねた自分が面接会場の自分の足元でうずくまっている。

まあ、できることをしていこうな。コツコツやっていこうな。そうして何かできるようになってちゃんと就職できたらいいな。と自分を励まそうとする自分もいるので頭の中は常に演劇が繰り広げられていて結構楽しくはある。まあ、転職理由が会社倒産だから面接で「転職理由」を考えずに済むという救いもあるし、現状での自分の救いポイントを評価していきたい。


まあ、もう本が読めたらいいな。最近は本を読む精神的余裕がなくて開けないし、本が読めないというのが苦痛でもある。本読むだけの仕事とかないかな。校正とか編集とかそういうのじゃなくて、読むだけの。本読むだけでお金がもらえたらな、と思うのと同時に対価が得られるようになると本当に好きだったのかわからなくなりそうだな、とも思う。なんだっけ。昔の研究にあった気がする。報酬とインセンティブの関係みたいな。同じ作業で1のグループには報酬を与え、Bには無報酬で行わせた結果、AよりもBのほうがやりがいを感じると回答するものが多かったというような内容の。心理的には同じ作業でもAは「報酬のためにやっている」と脳が解釈し、Bでは「無報酬でやるほどにやりがいを感じている」「やりがいがあるから自分は無報酬でやっているのだ」と脳が解釈する、みたいなものだったと思う。作業に対する「動機」が報酬によって変化するみたいなやつ。
(論文、わかる方がいたら教えていただけたら嬉しいです。無学なので論文の探し方がわからないのです。探し方だけでも教えていただけたら嬉しいです。)

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五月
もう、よくわかりませんが生きています