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自分から動くこと。多少無理をしてでも

気分がふさぎ込むとき、これまでの私は誰にも会わないよう家に閉じこもっていた。誰にも会いたくないし、何もしたくないから。
でも、いろいろ行動してみて「落ち込んだ時ほど、積極的に何かする」ことが自分の支えになるのだと気付いた。

私は生来、切り替えの下手な人間だ。
例えば夏休みの宿題があったとして、初日にみんなで遊ぼうと約束したとき、心の中は常に宿題のことがどっしりと構えていて、気持ちよく遊ぶことができない。そして夕方家に帰ると「なんで宿題をしなかったんだろう」と「どうしてせっかくみんなと遊んだのにちゃんと楽しまなかったんだろう」とどちらの後悔もきちんとして夜眠る。そういう子供だった。
何かミスをすることはあまり多くなかったけど、だからこそ自分がミスをした時すべてが許せなくなる。二度としないように対策を立てて、実行するのは得意だけれども、自分の課したルールに首を絞められて息苦しい。でも自分はひどく怠惰だから厳しく律していないといけない。
そういう考えで、まともにちゃんと遊んだり、義務感を抜きに自分から挑戦すること等はなかった。

100リストを定めて行動するようになってから、心なしか前向きになれたような気がする。それは今まで気になっていたことを解決できているだとか、なんとなく前進していると思えるようなところが大きく影響しているのだろう。でもそれと同時に積極的に動いている、というところも大きいと思う。

眉毛の形がうっすらとコンプレックスだったけど、アートメイクできれいになってうれしい。いままできれいだね、と言われても眉毛のせいで出せなかったおでこを惜しみなくだせる、とか。今まで使ったこともなかったコテをなかなかうまく使えるようになってきた、とか。いままで自信なくて化粧品も選べなかったけど、自分に似合うものがわかって選ぶのも考えるのも楽しくなった、とか。
たぶん、同世代の多くの人よりはずっと周回遅れなのかもしれないけれど、何もせず自分に不満ばっかり抱えていた日々よりも今がずっと楽しい。
もちろん、動いていいように変わることばかりじゃないとは思うけれど、切り替えが下手な自分は、積極的にいろいろ関わっていったほうが楽しくやっていけるのかもしれない。

一人は安心。疲れないし、平穏で、大事な時間だ。
それは今も変わらない。でも、他人と関わる機会が減少すれば偏屈というか視野が狭くなってしまう。視野が狭くて自分だけに視線が向くから、自分の嫌なとこばかりが目に付く。自分が許せなくなる。許せないけどどうすればいいかもわからないし、自分のことだけで一杯いっぱいだから苦しくなる。

そういうときに、他人と関わったり何かに積極的に取り組んだりするのは、自分から目を逸らして、いい意味で自分から逃げられるのではないかな。
いつか、真正面から自分のことを愛してあげられるのがいいけれど。

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五月
もう、よくわかりませんが生きています