(掌編小説)アイドルと猫
「ユウカちゃん。事務所の社長の命令なんだけどさ、明日から犬を飼ってよ。テレビの動物番組の密着やるから」
マネージャーのMさんはうれしそうに電話してきた。ちょっと待ってよ。どうすんの?この子。私の膝の上で聞き耳を立てている、ちくわ柄のスコティッシュフォールド、おでんちゃん。ほら、今も耳が動いてんじゃん。気になるよね、おでんちゃん。私はおでんちゃんの背中を撫でながら、電話先のMさんに拒否アピールをしていたつもりだったのに、私自身もチャンスだって分かってたから、納得いかないまま決まってしまっていた。
次の日マネージャーは、私の家に制作のスタッフを1人連れてやってきた。
「Mさん!家にもおでんちゃん居るじゃないですか。この部屋に本当にわんちゃん呼ぶんですか?」
私はおでんちゃんを抱っこしたまま、カーペットの上に座って、ソファの2人を見上げて言った。有名大卒のMさんは30代なかば、いつも冷静で理屈っぽい。
「いやいや、密着って言っても撮影の時だけ犬を連れてくるから、ユウカちゃんだって仕事忙しいから、本当に飼うのは無理だって言ってあるから大丈夫だよ。猫が居るのもわかってるよ。でも猫のことはファンには言ってないよね?」
Mさんがそう言うと、私は即座に答えた。
「ファンの人には言ってないですよ。だって大事な子なんですから。本当に大事だから内緒にしてるんです」
スタッフのAさんは女性の方で、多分20代。地味だけどショートボブがとても良く似合っていた。Aさんは優しく丁寧に話してくれた。
「撮影の時間だけ、スタッフの方でおでんちゃんを責任持って預かりますよ。みんな動物のプロですから」
Aさんの笑顔で打ち合わせは終わった。明日から何日かに分けて撮影が始まる。おでんちゃん、そういう訳でよろしくね。
そして翌日「芸能界わんちゃん大好きチャンピオン、ユウカと保護犬」の撮影が始まった。
AさんとマネージャーのMさん、そしてカメラマンさんやスタッフの男の人が私の部屋にドカドカと上がり込んできて、部屋を片付け始めた。何?散らかってないし。ちょっと何だよ勝手に。私はおでんちゃんを抱っこしたまま部屋の隅に立って、その様子を眺めていた。
「ユウカちゃん。おでんちゃん預かりますね」
Aさんはニコニコしながら、おでんちゃんを抱き上げた。おでんちゃんの少し伸びた爪が、私のセーターに引っかかって、おでんちゃんはニャーと鳴いた。大丈夫だよ、おでんちゃん。ちょっとの間だけだよ。
Aさんはおでんちゃんをスタッフの一人に預けると、スタッフはおでんちゃんを連れて部屋を出て行った。
私の部屋の数カ所にカメラが設置されて、私は少し気分が下がってきた。そして大好きなわんちゃんを今日お迎えしたという体で、撮影は始まっていった。
「どうですか、ユウカちゃん。憧れのわんちゃんを初めて飼うお気持ちは?」
「もう、昨日からワクワクして眠れなくて。ああ、わんちゃんとの楽しい生活が始まるんだなって」
私はそう言って、満面の笑みを浮かべた。多分この笑顔で良いよね?鏡見たいわ。そしてついに玄関から、スタッフに連れられたわんちゃんが入ってきた。えっ!キャリーかなんかで持ち運べるサイズじゃないの?でかい!どう見ても大人のラブラドールレトリバー。犬、少し怖い。
「ユウカちゃん!初めまして。ラブちゃんです」
Aさんは、私の目の前でわんちゃんを座らせてニコニコしていた。
「ちっちゃいわんこだと思ってたから…」
私が苦笑していると、みんな笑って帰り支度を始めた。えっ?何?
「それでは今日からお世話お願いしますね。必要なものは置いておきます。困ったらすぐに電話してくださいね。スタッフは24時間体制、安心安全ですよ」
Aさんがそう言うと、カメラマンは私の困惑した顔を撮った。欲しいのか?この顔が。でも、どうすんの?騙すなよ。本当に飼わないって言ったじゃん。おでんちゃん。おでんちゃん。
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