おかあさんの家【禍話リライト】

今は大学で研究員をしているBさんが、大学院に通っていたころの話だという。

当時、同じラボに所属していた大学院の同級生に、Cという男がいた。
彼は、明るくていいやつで、気さくで話しやすい人柄だったこともあり、よく一緒に行動していたのだが、話していると突然、表情や話しぶりに暗い影が差すことがあった。
だからBさんも、ひょっとすると家庭に何らかの事情を抱えているのではないか、と思っていたというのだが、ある時二人きりで歩いている時に話がCの家庭事情に及んだことがあるのだという。

Cは、母親を亡くしていた。
それも、出産時の事故だったため、Cは自分自身の母親と対面したことはない。
だからCは、父親とずっと二人暮らしで育ってきたのだそうだ。

「ああ、そうなんだね……」
「それでね、父親もさ、俺のことを愛してはくれていると思うんだけどね……やはりどこかに、俺のことを自分の妻を奪った存在だ、という感情があるみたいでね。俺を見たくないときもあるんだろうなと思うんだけど」
「……重い話だな」
「まあ、ね。だからさ、父親は俺が大学入ってからはほとんど家に帰ってこなくて。外にアパート借りて、そこから仕事に行っているんだ。まあ、俺には仕事が忙しくて云々って言い訳してたけど、さすがに俺と顔合わせたくないんだってわかるよ。親子だもん」
「それはまあ……なんというか……」
「そういうわけで、俺、実質今は家で一人で暮らしてるんだよ」

Cはそう言って、寂しそうに笑っていたそうだ。

Bさんとしては、当時はまだ若かったこともあり、どう反応してよいかわからない部分があった。
ただ、他の連中にはしていない話を自分にだけ打ち明けてくれたという事実は重く受け止めており、“俺を信頼して言ってくれたのかな“とは思っていたという。

それからしばらく経ったあるときのこと。
BさんはCから声をかけられた。

「悪いけどさ、今度の日曜日に俺ん家に泊まってくれないかな?」

突然のことに若干戸惑いながらも、Bさんは答える。

「別にいいけど……なんで?」
「最近さぁ、家の中に俺以外のやつがいる気がするんだよね」
「お父さん?」
「いや、親父じゃなくて、女性がいる気がするんだ」

え?
こいつ、何言ってるんだ?

そう思いつつ、念のため尋ねてみる。

「それって、彼女とかじゃなくて?」
「彼女はいないよ」
「姿を見たの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、気配を感じるし……なんか、ものが片付いてる気がするんだよね」
「自分でやってるんじゃなくて?無意識で、とか」
「それだけは絶対にない」

Cの話によると、勘違いとか無意識でやったというレベルではないほど、家の中のものの配置や畳まれ方などが変わっているのだという。

あれ、洗濯物こんな畳み方したっけ?
布団、こんなふうに直してたっけ?

そう思って自分でも畳んでみたり直してみたりするのだが、上手くいかない。
無意識で自分がやることができないくらい、上手く片付けられているのだ。

「だからさ、一回誰かを泊めて、そいつにも様子を見てほしいんだよ」

真剣にそう語るCの様子を見て、Bさんには思うところがあった。

こいつ……大学院での研究生活に参ってるんだな。

大学院に入学することは俗に「入院」と言われる。
研究とは、それだけ特殊な環境に隔絶され、神経がすり減ることなのだ。
だからCに限らず精神のバランスを崩してしまう院生はしばしば見られたし、時と場合によってはBさんも精神的に参ってしまいそうになる時もあった。

でもまあ、普段は気さくないいやつだし、あまり抱え込まないタイプだから、こいつの家に泊まって酒飲んでストレスを解消すれば回復するだろう……

そんな、後で考えてみると間違っている上に甘い見通しで、Bさんは日曜日にCの家に泊まりに行った。

Cの家は住宅街の一角にある、やや古めながらもしっかりとした造りの、取り立てて特筆すべきところのない普通の家だった。
中に入ってもきちんと片付けられており、おかしなところはない。
確かに仏壇にお母さんの遺影があったように思われたが、気付いたところと言えばそれだけだ。
お父さんはもうずいぶん帰っていないらしく、その存在を感じさせるようなものもない。
そういうわけで、一人で寂しく暮らしているのは間違いないだろうが、ちゃんとした家だな、というのがBさんの印象だった。
無論、嫌な気配がするとか、気持ち悪い雰囲気が漂っているなどということもなかったのだ。

ただ。

Cの部屋のある二階に上がろうとした時のことだった。
階段の途中で立ち止まったCは、手すりを触りながら急にこんなことを言い出した。

「……埃がないな」
「え?」
「いや、ここ最近、手すりなんか掃除していないはずなのに、埃がないんだよ」

そう言われてみてみると、確かに木の手すりは雑巾掛けでもされたように埃一つない。
とはいえ急にそんなことを言われたところで、Bさんからすれば元の状態がわからないため反応のしようもない。

「気のせいじゃない?ほら、無意識のうちに手すりに手を滑らせて降りたりするとさ、それが雑巾みたいな効果を生むこともあるっていうか。埃が気づかないうちにとれてる、なんてこともさ」
「……そうかなぁ」

Cとしては納得がいかないようだったが、Bさんは「そんなことより飲もうぜ」と促して、部屋へと向かった。


Cの部屋に入ると、すぐに酒盛りが始まった。
元々、Cを元気付けるつもりだったのだ。
散々飲んで、くだらない話をした。
Cも、いつもよりもハイペースで酒を飲んでいた。
そのうちCはだんだん明るくなってきて、飲み会の後半では前向きな発言がどんどんと出てくるようになったという。

「俺さあ、修士出たら家を出ようと思うんだよね」
「この辺に就職したり、博士行ってもか?」
「ああ。親父もさ、この家を俺にくれるっていうんだけど、売っぱらってマンションで暮らそうと思うんだよね」
「それがいいよ。辛い思い出を捨てるってわけじゃないけど、心機一転って大事だよ」
「だよな」

そんなふうに、建設的で前向きな発言がCから聞かれたため、Bさんは大いに安堵した。

よかったよかった。

そのうち酔いがすっかり回ったBさんは、いつの間にか、そのまま床に崩れ落ちるように寝てしまったそうだ。

後から考えると、ものすごく酔っ払っていたため、勘違いしているかもしれないとBさんは言う。
ただ、自分の記憶によれば、確かに夜中に何度か起きて寝てを繰り返している時に、一階の方で物音がしていたというのだ。
Cはベッドでイビキをかいていたので、Cではない。
その一階の物音というのも、泥棒や物取りが物色しているような音ではなく、洗い物をしたり掃除をしたりといった、家事をしているような音だったように記憶している。
もっともその時点では、酔っていたし、自分の勘違いかもしれないな……と思っていて、特段気にすることもなかった。

明け方。
ぐっすり寝ていたBさんは、誰かに肩を揺さぶられて目が覚めた。

「……ん?」

目を開けると、Cが顔面蒼白で、必死にBさんを揺すっている。

「やばいよ、やばいやばい」
「……何?」

Bさんが尋ねると、Cは混乱しているのか、慌てた口調でこんなことを言い始めた。

「あのさあ、前からさ、変なことが台所であってさ」
「変なこと……?」
「ああ。冷蔵庫の周りに、新聞のチラシを細かくちぎったみたいなものが落ちているってことがさ、何度かあって。流石に俺これやってないよって思ってたんだけど、今日も落ちてたから拾ったら、殴り書きのメモが書いてあったんだ」
「……お前が書いてるの?」
「違う!知らない女の文字なんだよ」
「はあ?」
「とにかく来てよ。俺、さっき二日酔い気味だから水飲もうと思ったらそれがあって……きてきて」

Cに手を引っ張られるまま一階に降りる。
台所に入ってみると、確かに何枚かにちぎられたチラシのようなものが床に落ちていて、裏には文字が書かれていた。
Bさんはそれを拾い上げ、繋げてみる。
字がぐちゃぐちゃだし、元々正確な文章ではないようで、あくまでその場でBさんが読み取った内容ではあるのだが、そこにはアドバイスみたいなものが書かれていた。

“庭を何人かの人が喋りながら歩き回ることがある。そういう時は勝手口を開けておくと、すぐにじゃないけど静かになるから“

おおよそこんなことが、メモには書かれていたそうだ。

「はぁ?何これ?!前半も後半も怖いけど、何?」

Cに尋ねてみても、彼は思い当たる節がないようで真っ青な顔をしたままかぶりを振る。

「……わかんない」
「今まで庭で誰かが歩き回ったりしてんの?」
「そんなことないよ。そんなことあったら家帰んないで研究室にいるよ」
「そりゃそうか……ん?」

その時Bさんは、あることに気付いた。

「今気がついたけどさ、C、冷蔵庫と壁の間にもう一個なんかあるぞ」

冷蔵庫の後ろから、紙のようなものが一部見えている。
引っ張り出してみると、以前に書かれたと思しきメモが落ちていた。

「お前、これ同じ字だぞ」

ボールペンで書かれているその文章は、破られていなかったこともあり、完全に内容を把握できた。

“明け方の5時35分と夕暮れの4時27分にすれ違うことしかできない母親でごめんなさい“

「……うわ!!だめだ!!」

思わずその紙をシンクの中に放り込んで、Cに言う。

「ちょっとおい、燃やせ!」

同じく内容を読んで、今にも卒倒しそうなほどショックを受けていたCは震えながら仏壇からライターを取ってくると、シンクで落ちていたチラシと冷蔵庫の裏のメモ紙を燃やした。

「これはだめだ……」

紙を燃やしながら、泣きそうな声でCが言う。

「何?今の。時間指定してたよ……」
「あれは……だめだよな……」

Bくんとしても何も言いようがない。
Cは泣きそうな声で続ける。

「どうしよう、俺、こんなの気づかなかったよ。こんな直接……やばいよなあ?」
「ああ、やばいよ。やばい」
「これ、家出た方がいいよな?」
「出た方がいい、出た方が。しばらく俺の家とか、研究室とか、友達の家とかあちこち転々として。家はやばいよ」

この段階で、二人ともそれが100%お化けの仕業だと思っているわけではなかった。
誰か、人が入り込んでやっているのなら、それはそれでやばいわけで、こんな物証がある段階でもうこの家はCの安住の地でないことは明らかだった。
Bさんはまだブルブル震えているCに声をかける。

「だめだだめだ!準備しろ!俺はこの灰を外に捨てとくから、お前は荷物とか大事なやつをカバンに詰め込め」
「あ、ああ……」

そう言ってCは二階へと走っていく。
Bさんは灰を長く持っていたくはないので、ビニール袋の中にそれを入れると、玄関向かい、外に捨てようと思ったそうだ。

ところが。

Bさんが玄関に行ってみると、妙なものがあった。

見知らぬ靴があるのだ。

自分の履いてきた靴。
Cの靴。

そしてもう一つ。

明かに女性ものの、少しくたびれた靴がそこに揃えて置かれていたのだ。

「うわ!!」

思わず飛び退いたBさんは混乱する頭で考える。

昨日はこんな靴絶対なかったし、そもそもお母さん亡くなったのはあいつが生まれた時だって言ってたし、俺もあいつも彼女も女友達もいないのに女が来るわけないし……
これ、やばくないか?
灰はその辺に捨てて、とっとと逃げたほうがいいんじゃないか?

そう思ったBさんは2階に向かって声をかける。

「おい、やばくねえか?これ。やばくねえか?」

すると呼応するように、2階からCが「庭みろ!庭!」と慌てた声を出す。

え、庭?

「庭、庭だよ!!」

少し戻って、リビングの窓を見る。
レースのカーテンの向こうに、庭がある。
しかしBさんは、パッとみただけですぐに視線を外した。

庭を、背の高い女性がぐるぐると歩いていた。

それほど大きくない庭に、場違いなほど長身の女性だった。

うわ!!
……え?今勝手口開けなきゃいけないの?

先ほどのチラシの裏のアドバイスが脳裏を過ぎる。
だがBさんはすぐにそのアイデアを打ち消す。

いやいやいや、今勝手口なんか開けちゃだめでしょ!?

すると上から、Cの声がまた聞こえてきた。

「おいおい、見えるかおい?!」

Bさんは返事ができなかった。

いやいや、見えてるけど……今勝手口開けたらだめでしょ。
入ってきちゃうじゃん!!

そんなことを思っていたそうだ。
もっとも、冷静になれば、屋内にはすでに謎のメモ書きがばら撒かれ、玄関には靴があるのだ。
入ってきてしまうというのであれば、もうすでに入り込まれていたはずなのだ。
しかしその時のBさんの注意は、もっぱら庭を歩き回る謎の長身女の方にのみ向いていた。

開けたらあいつ入ってきちゃうよ!!

Bさんが無言でいる間も、Cは「おい、おい」と上から声をかけてくる。
Bさんは思考停止状態で、声も出せずに階段を見つめたまま、頭の中で“だめでしょ、だめでしょ“とぐるぐる考え続けていた。

と、その時だ。

不意に2階が静かになった。

Bさんも即座に異変に気づく。

……あれ?黙った?

「……どうしたー?」

遠慮がちに、だがしっかりとした声で、Bさんは2階に向かって声をかける。
Cは自室で、ボソボソと何かを言っているようだった。

……準備終わったのかな?

しかし、それにしてはどういうわけか、いつまで経ってもCは降りてこない。
相変わらず部屋でボソボソ言っているだけで、降りてくる気配が微塵もないのだ。

「おい、なに?どした?」

声をかけてみるが反応はない。
仕方がないので階段の踊り場まで上ったところで、足を止めた。

……ん?

Cの部屋から、二人の人間が話している声が聞こえてくる。
聞き覚えのない中年の女とCの声だった。

「なんで親の言うことが聞けないんだ。お前はだめな子だ」
「ごめんなさい」
「なんで親の言うことが聞けないんだ。お前はだめな子だ」
「ごめんなさい」

女の声は、到底怒っているようには思えない、感情の籠っていない声だった。
しかし、言われるたびにCはどんどん意気消沈していっている。

うわ、うわ、もうだめだ……

Bさんとすれば、もはや恐怖の限界である。
しかし、恐怖のあまり、動けないのだ。

こういう状況になると、本当に人間って動けなくなるんだな、などと頭の一部では冷静に思うものの、恐怖で動けなくなっているうちに、あることに気付いた。

その会話の声が近づいてくるのだ。
動く音もしないのに、どんどん声だけが近づいてくる。

「なんで親の言うことが聞けないんだ。お前はだめな子だ」
「ごめんなさい」
「なんで親の言うことが聞けないんだ。お前はだめな子だ」
「ごめんなさい」

このままいくと、もうすぐ階段の上に来てしまう!!

そう思った、その瞬間に、Bさんの記憶は飛んだ。



次に気づいた時、Bさんは自分の家に戻っていた。
しかも自分の両親が必死に自分に呼びかけている。

「おい、大丈夫か?!」

見るとBさんは、涎を垂らして下からは大小の汚物が垂れ流されていて、ズボンがびしょびしょに汚れていた。

「え、なになに?!えええ??!!」

Bさんはパニックに陥る。

自分の家族が言うには、Bさんは朝早くに、家に帰ってきたのだという。
友達の家に泊まった割にはえらく早い時間に帰ってきたなと思っていると、リビングのドアが開いてBさんが「ただいまー」と両親に声をかけてきた。

「おお、早いな。友達の家で飲んで、ゆっくりしてくるんじゃなかったのか?」

父親がそう尋ねると、Bさんはごく普通の様子で答えたという。

「なんか家族の用事があるって。俺は帰ってきたから」

そう言うとそのまま階段をトントン……と2段くらい上がったところで、バターンと後ろに倒れたのだそうだ。
慌てて両親が様子を見に駆けつけると、Bさんは涎を垂らして失神していたため、介抱していたのだという。

「や、や、それどころじゃないよ!!電話、電話!!」

記憶が飛ぶ前のことを思い出し、Cのことが心配になる。

「ああ、だけどお前、今ひどい状況だから、まず風呂入れ」
「あ、うん……じゃあ、親父代わりに電話してくれ。いいな」

そう言って携帯を渡すと、Bさんは浴室に入って、急いで体を洗って出てくる。
すると父親が「大丈夫みたいだよ」と言いながら携帯を渡してきた。

「なんか女の人が出て、大丈夫だって言われたよ」
「え?女?……女性の方が電話に出たって?」
「うん。電話したら女性の人が出て……息子さんの名前、Cくんって言うんだろ。Cは手が離せないってその人が言うから、よろしく伝えといてくださいって言っておいたよ。その人……Cくんのお母さんか?お前が飲みすぎだから、水をちゃんと飲まないとだめですよって言ってたぞ」

そう言って父親は笑っていたが、Bさんは“うわ、もうだめだ……“と暗澹たる気持ちになったそうだ。


Cは、月曜日に普通に研究室にやって来た。
そして、泊まりに行った日のことなどすっかり忘れてしまったように、いつも通りにBさんに接してきたそうだ。


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「Cが普通だったことが、俺、本当に怖くてですね……理屈はわからないけど、その姿を見て“もうだめだ、もうだめだ“って思ってたんですよ」
「そうなんですね……ところで、その後、Cさんは?」
「ああ、Cの、その後、ですか……あいつ、結構優秀だったんですけどね……大学院出て、就職も決まったんですけど、急にいなくなってしまって」
「いなくなった?」
「就職先からバックれて、院も辞めちゃって……今何をしているのかわからないんです」
「そうでしたか……」
「でね。このことで、俺、ずっと思ってることがあるんです」
「どういうことですか?」
「説明するのが難しいんですけどね。自分は何らかの条件を満たしていなかったから助かったんだと思うんです。で、逆にCみたいにその条件が揃ってたら、多分おかしくなっていたかもしれないなって。根拠はないですけどね……」

理系の研究者がこんなこと言うもんじゃないですけどね……そう言いながら、Bさんは力無くため息を一つついた。

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この記事は、「猟奇ユニットFEAR飯による禍々しい話を語るツイキャス」、「禍話X 第1夜」の怪談をリライトしたものです。原作は以下のリンク先をご参照ください。

禍話X 第1夜
https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/648918046
(1:29:52〜)

※本記事に関して、本リライトの著者は一切の二次創作著作者としての著作権を放棄します。従いましていかなる形態での三次利用の際も、当リライトの著者への連絡や記事へのリンクなどは必要ありません。この記事中の怪談の著作権の一切はツイキャス「禍話」ならびに語り手の「かぁなっき」様に帰属しておりますので、使用にあたっては必ず「禍話簡易まとめwiki」等でルールをご確認ください。

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