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こわいよりさみしいなんじゃないかなって
生きているといろんな場面で経験したことが
ある方もいるのではないでしょうか
人生のリミットを感じた瞬間。
私は病気の経験からそれがあったのですが
そのときに思ったのが
「このままじゃ死ねない、死んでたまるか」
という悔しさから泣き叫びつつ
「じゃあどう生きる?」って身を置く環境や
人生をやりくりしてみた結果、
現在まさかの神戸まで来ちゃったのですが。
しかしちょっと最近そのリミットを感じさせられる
出来事がまたやってきまして。
あれから数年、やりくりしてきた今の自分から
出てきた気持ちはというと
「まだまだ元気な状態でやりたいことあるし」
というのと突然にふってきた言葉。
「さみしいと感じながら過ごさせたくないな」
リミットが死ぬということだとして、
感じ方は大小あれどこわいと思うことは
きっとみんなそうであり当然だと思いますが、
その真髄にある思いは「さみしさ」なんじゃないかなって。
自分の存在とか、忘れられちゃうんだなとか、
ひとりぼっちはイヤだなとか。
いきなり自分の過去世の話をするんですが(←?)
私の過去はだいたい早死傾向だったらしく、
しかも孤独に死んでいるらしいのです。
そこらへんにほっぽかれて投げ出されていたりとかもあったらしく。
だから今世はみんなに囲まれていたい思いがあるんですって。
ホントかウソかなんてわからないんですけどね、
私はその話をきかせてもらったとき
胸が締めつけられて苦しくて涙が止まらなくて
そのとき感じた思いだけが鮮明で真実でしかなかったんです。
そんなん可哀想って思ったし、
今の私は私自身をそうさせてやしないか?とも思ったし。
そう、このあいだ久しぶりにお仕事以外で長電話
なるものをしたのです。
相手は大学時代からの友人でそんな滅多にやりとり
する仲でもないのにタイミングでポッと繋がる関係
なわりに話していてすごくラクな人。
頭を使って話すのでなく自然とハートを使って
ただお互いにでてくる声と言葉をスマホ越しに
ききあって伝え合って笑っているだけの時間。
なんのテーマもないし意味も求めてないし
なんなら向こうはちょっと酔っ払ってたのかな?笑
私はこういう感覚でいられる日常をコツコツ作って
過ごしていきたいんだろうなって思いながら
4時間以上お話してた。
(うっかり夜があけちゃうところだった)
だから近くにいてもいなくてもそういう人たちと
繋がれている今の私は、リミットがわかったときに
もっと一緒にいたいなーもっと語らいたいなー
もっときかせてほしいなーあー時間たりないなー
なんてそんなさみしさを苦笑い浮かべながら
感じることができていたら
これはきっといい人生であったなって胸を張って
いえるかなと思うのです。
それが今わかってるので
やっぱりリミットいわれる前に
もっと一緒にいられるようにして
語らえるようにして、きけるようにして、
伝えるようにしていく時間を作っていこうと
思いました。
こわくてもいいしさみしくてもいいよ。
ひとりじゃないよ大丈夫。