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生きることの価値と役割
ごちゃまぜフェスをはじめたきっかけは、いくつかあるのですが
そのひとつには相模原障害者施設殺傷事件があります。
障害者って不幸な存在なのか
生きている価値はないのか
あなたはどう思いますか?
私の中にあった『障害者』というイメージ
私は子どもの頃、障害を持つ方と身近で接する機会があまりありませんでした。そして長い間、私の中で『障害者』とは、某テレビ番組の中のさまざまな難題に挑戦する心清い不遇の人たち という印象だったのでした。
障害があっても幸せ だなんて、妥協と諦めなのだと勝手に思っていました。
そんな障害に対するイメージが大きく変わったのは、息子が2歳のときに広汎性発達障害と診断され、療育に通うようになってからです。
親子通園で通った療育施設には、様々な障害を持つ子どもたちが通園していました。
息子と同じような、自閉のあるお子さんもいれば、肢体不自由のお子さん、言葉を発しないお子さんもいました。
だけど、自分のことを『不幸でかわいそうな存在である』と悲観している子は一人としていなかったと私は感じています。
療育園の遠足が視点を変えるきっかけに
療育園で遠足に行った日のこと。公園の広場で、みんなで休憩していたとき、車椅子で参加していた発語のないお子さんが、頬を撫でる風にとても心地良さそうな表情をしていました。
その子がそのとき、本当はどう感じていたのかはわかりません。ですが、私は今でも目をつぶれば、そのときの青空、秋の雲と心地よい風、その子の柔らかな頬と健やかな表情をありありと思い出すことができます。
何か大きな出来事があったわけではないのですが、この遠足での一コマが、障害の有無や軽重はその人が幸福かどうかの基準にはならないのだと考えるきっかけのひとつになりました。
何ができれば生きている価値がある?
さて、発達障害についての話題の中で、得意と苦手の差が激しいということと共に、特性を個性として活かし、世で活躍する天才達の例が挙げられることがあります。
ビルゲイツ エジソン モーツァルト アインシュタイン
苦手を底上げする努力よりも、得意を伸ばすことの意義。そこに異論はありませんし、とても大切な視点だと思います。
しかし、そのように発達障害を持ちながら天才として才能を発揮し、社会で認められるというのは一握りの人たちです。
では、大多数のそうでない人たちは?発達障害を非凡な才能として活かしていかなければ、生きていく価値がないとされるのでしょうか。そんなことはないと私は思います。
これは障害のある人に限った話ではありません。
勉強ができるから
スポーツが得意だから
お友達と仲良くするのが上手だから
何かができるということにその人の価値を置いたとき
それじゃ、勉強が苦手な人は?
スポーツが不得意な人は?
一人でいるのが好きな人は?
字が書けない人は?
話せない人は?
生きる価値がないのでしょうか?
それでは、どんなことができれば、生きる価値として認められるのでしょう?
そこにどんな条件をつけるか、ではなくて。どのような条件にせよ、生きることに条件をつけるということ自体が、違うんじゃないかなって思うんです。
だってその条件、いつどんなものに変わるかわからないですよ。
いつ誰が切られるかわからない。そんな社会で、あなたは安心して生きられますか?そんな社会で生きる他者と、お互いに信頼し合うことは難しいように思います。そうやって、社会の中でジャッジされ、切り捨てられた経験のある人が、他者を条件で切り捨てる考えを持つようになるのではないでしょうか。
幸せの形は、他人に決めることはできない。
この事件を一人の人が起こした凶悪で理解しがたい犯罪である、とすれば気持ちは楽です。だけど、そうじゃない。このような事件が繰り返されないためには、私たち一人ひとりが自分たちの生きる社会にその因子があったのだということを顧みる、そしてそれを変えていくことが重要だと思います。
その人が生きている、そのことの価値と
何ができるか、できないかは関係ない。
その人の命は、その人のもの。
そして、その人が幸福であるかどうかも他人が決めることはできないのです。
社会の中での役割は、みんなで考えることができる
その一方で、その人が社会の中でどのような役割を担えるかについては、みんなで考えることができると思います。
私の尊敬する経営者の一人に、ご自身もディスレクシアという障害を持つ、砂長美んさんという女性がいます。
美んさんは、重度の障害を持つ方のお仕事を生み出すコンサルティングをしています。
ある施設の利用者さんが紙をビリビリに破るのを見て、紅茶に金箔を浮かべることを思いつきました。国会のお土産コーナーで販売され、好評とのことです。
また、あつぎごちゃまぜフェスでも受付で活躍してくれた分身ロボットOriHimeを製作しているオリィ研究所では、『テクノロジーによって「できない」を「できる」に変換し、社会そのものの可能性を拡張していく』というビジョンを持っておられます。
人間は誰しも老いていく。できないことが増えていく。障害のある人たちは、そんな経験を先取りしている、世の中がどんなふうに変わったら良いかのニーズをいち早くキャッチしている人でもあるという視点から、多くの当事者の声を生かし、共に研究所し、新たなプロダクトを生み出しているのです。
▲あつぎごちゃまぜフェス2020では、当事者でもあるスタッフの小柳大輔さんが千葉のご自宅のベッドから分身ロボットOriHimeを介して会場受付を担当しました。
多様性は、世界を豊かにする可能性を内包している
障害がある ということ自体が価値に変わる視点。いろんな人がいる、と知ること。そしてその一人ひとりがどう活かされるか。それは、みんなで考えることができる、みんなの課題なのです。
多様な人がいればいるほど、その可能性は無限大に広がっていく。それってワクワクすることじゃありませんか?
そして、そういう視点を持つ人が増えれば増えるほど、私たちの社会はより豊かに、色鮮やかになるんだって、私は信じているのです。
いろんな人がいることは、みんなにとってメリットである
ということを、楽しみながら感じてもらえる機会になればいいなぁと思いながら、このイベントを主催しています。
▲砂長美んさんへのインタビュー動画です