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日本人はずっとおとなしいわけではない話:昭和維新篇

家から一歩も出ていないのに、気付けば丑三つ時、みたいな缶詰めWEEKだが、金曜日はしっかりやってくる。

そんななか、毎月恒例の福岡大学・飛田先生からコラムが届く。

☝読んでね♪

先生は、現在サンフランシスコなう。
人間の顔より大きいのではないかと思われるピザの写真が送られてきてビビる。
「かなり中心地におるのに、雰囲気やばい」
と、飛田先生。
「え?治安ですか?」
「そうそう。暴動の影響でブランド店が撤退。1階に何も入ってないビル多数」
みたいなやりとりをしつつ、原稿チェック。

そう、海外に行ったことがないどころかろくすっぽ家から出ない日もある最近の後藤にとっては刺激が強い。
「日本はなんだかんだで、おとなしいんでしょうね…」
と返して
「いまからスタンフォード大学。夕方、校正戻しまーす」
でメッセンジャーは終了。グローバルな会話だ…。

最近、「日本人はこんなに五公五民で虐げられているのになんで暴れないんだ」みたいなことを言う人にたまに遭遇するのだけど、ここで後藤はふと考えた。

いや、でも明治維新とかあったし、ずっとおとなしいわけではなかったやうな…。

相変わらず枕が長い。
あったじゃないか、歴史的には、何度も、暴動が。

ということで、浪人生時代のテキストを引っ張り出してまとめてみたのだけれど、間違っているところがあれば教えて!エロい人!


515は知っているのに、226はピンとこない問題

手前の話で恐縮なのだが、後藤の誕生日は5月15日なので、「515事件=犬養毅の命日」としてしっかり記憶に残っている。が、2月26日の226事件はあまりピンとこない。

「軍の反乱」「昭和維新を掲げた青年将校たち」「クーデター未遂」―― なんとなく聞いたことはあるけれど、詳細は意外と知らない。

でも、もうすぐ2月26日。せっかくなので、これを機に調べ直してみた。


515事件と226事件、何が違うのか?

まず、515事件と226事件の基本的な違いを整理すると、こうなる。

ChatGPTに無理やり表を作ってもらった

ざっくり言えば、
515事件は「軍人が政治家を狙った暗殺事件」
226事件は「軍人が政府を乗っ取ろうとしたクーデター未遂事件」

事件の規模も、歴史への影響も、圧倒的に226事件のほうが大きい

なのに、なぜか515事件のほうが「語られやすい」気がする。気のせい?


515事件後、なぜ226事件が起きたのか?

515事件、226事件ともに青年将校による暴動で、間が4年あいているとなると、515事件で国のトップが撃たれても、問題は解決しなかったってこと?という純粋な疑問がわく。

そう、実際のところ、515事件で犬養毅首相が暗殺されたものの、それによって何かが解決されたわけではなかった。むしろ、この事件は軍部の影響力を強める結果となり、政党政治の終焉を加速させることになったのだ。

515事件とは何か

1930年代の日本は、経済的にも政治的にも大きな混乱の中にあった。世界恐慌の影響で農村部は深刻な不況に陥り、多くの若者が生活苦から逃れられずにいた。都市部でも失業者があふれ、軍部の中にも「政治家が腐敗しているせいで国が危機に陥っている」という不満が広がっていた。
そうした社会不安の中で、軍人たちは「昭和維新」というスローガンを掲げ、自らが国家を立て直すべきだと考えた。

515事件は、そうした不満の象徴として発生したが、結果として軍の影響力を一層強め、政党政治の終焉を加速させるきっかけとなった。

にもかかわらず、陸軍の若手将校たちは「十分な改革がなされていない」と考え、より大規模な行動を起こすことを決意する。彼らにとって、515事件はあくまで『第一歩』であり、軍部の主導権を確立するためには、さらに大きな変革が必要だと考えられていた。


国際連盟脱退:515事件と226事件の間に起きた大転換

515事件(1932年)の翌年、1933年、日本は国際連盟を脱退する。

これは、1931年の満州事変をきっかけに、日本が中国東北部(満州)を占領し、そこに「満洲国」という傀儡国家を樹立したことに対し、国際社会が強く反発したためだった。

国際連盟は、「満洲国は日本が勝手に作ったものであり、中国の主権を侵害している」として、「リットン調査団」を派遣し、調査報告書を発表。その結論は「満洲国を承認しない」というものだった。

しかし、日本はこれに激怒し、国際連盟総会で松岡洋右全権が「満場一致で決議されようと、日本の立場は変わらない」と演説し、満州経営を続ける決意を表明したうえで、国際連盟を脱退することを決定した。

国際連盟脱退の影響

  • 外交的孤立 → これまで「国際協調」を重んじていた日本が、西欧諸国から孤立し始める。

  • 軍部の発言力が増大 → 「もう外交なんて通じない。だったら軍事力で解決すべきだ」という論調が強まる。

  • 政党政治の衰退 → 政府も軍の決定に従うようになり、軍が政治の主導権を握る体制が強まる。

  • 陸軍の暴走 → 「日本は自力で道を切り開くべき」という考えが支配的になり、軍部の独走が加速。

この流れでなぜ226事件に繋がったのか

国際連盟脱退は、日本の「対外強硬路線」への転換を決定づけた。 「もう国際社会と話し合っても無駄」「力こそ正義だ」という考えが日本国内で広がり、それを最も強く信じていたのが軍部だった。

軍の暴走を止めるどころか、むしろ「政府はもっと軍の意見を聞くべきだ!」という風潮が強まり、陸軍内の「政治家なんか信用できない。軍が主導して国を動かすべきだ!」という思想が過激化する。

その結果、「昭和維新」を掲げた青年将校たちが226事件を起こし、「軍が日本を動かす時代」へと大きく舵を切ることになる。

国際連盟脱退が持つ「もうひとつの意味」

国際連盟脱退は、日本が「西欧中心の国際秩序と決別する」という象徴的な出来事だった。

「満州は日本の生命線だ! 何があっても守る!」という強硬姿勢を貫いた結果、日本は世界から孤立し、やがて「アメリカやイギリスと戦争してでも、日本の生存圏を確保しよう」という考えへと発展していく。

この流れが、1937年の日中戦争、そして1941年の太平洋戦争へと繋がっていく。


226事件、具体的に何が起きたのか?

まず、事件の概要をサクッとまとめてみると…。
1936年2月26日、陸軍の青年将校たちがクーデターを起こした。「昭和維新」を掲げ、約1,500人の兵を動員し東京の主要機関を占拠、政府要人を次々に襲撃。結果は以下の通り。

  • 斎藤実(元首相)→ 暗殺成功

  • 高橋是清(大蔵大臣)→ 暗殺成功

  • 渡辺錠太郎(教育総監)→ 暗殺成功

  • 岡田啓介(首相)→ 偽装して生存(影武者が身代わりになった)

  • 首相官邸や警視庁などを占拠し、3日間にわたって反乱を続けた

ただし、ここで彼らの誤算があった。

「天皇は俺たちの味方」のはずが…?

この青年将校たちは、「天皇のために腐敗した政府を倒す!」 という大義を掲げていた。
しかし、昭和天皇はこれを激しく拒絶し、『逆賊め! 討伐せよ!』と厳命。2月29日には反乱軍が完全鎮圧される。
そして、首謀者たちは裁判なしで即銃殺刑という異例の厳罰に処された。

この時点で、「昭和天皇は軍の暴走を許さない」というメッセージが明確に発せられた。

しかし、これで軍の暴走が止まったわけではなかった。


226事件の結果、日本はどう変わったのか?

226事件は、青年将校たちにとって「昭和維新」として国家を改革するための決起だったが、その結果、彼らの理想とは全く違う方向へと日本は進んでいくことになる。

まず、陸軍内の派閥争いが決着した。
もともと陸軍は「皇道派(天皇親政を目指す青年将校中心の派閥)」と「統制派(軍が政府をコントロールすべきと考える官僚的な派閥)」に分かれていたが、226事件で皇道派が一掃され、統制派が主導権を握ることになった。これは、軍の政治介入がさらに加速するきっかけとなった。

また、政府が陸軍の顔色をうかがうようになったことで、軍の独裁化が進んだ
事件後、政府は陸軍の意向を無視できなくなり、『陸軍大臣現役武官制』(陸軍大臣は現役の軍人でなければならない)を復活させた。この制度により、軍が政府に圧力をかけ、政治の主導権を握るようになった。結果として、軍の独裁化が進み、日中戦争(1937年)や太平洋戦争(1941年)へと突き進む流れが決定的になった。

つまり、「政治を変えよう」として起こしたクーデターが、結果的に軍の独裁を強化し、戦争への道を突き進ませる原因になったという皮肉な結末を迎えたのだ。


515事件と226事件が残した「歴史の教訓」

515事件では、軍部の影響力が強まり、政治家が軍の言いなりにならざるを得ない状況を生み出した。しかし、226事件はそれをさらに推し進め、「軍が政治を動かす」体制を決定づけたと言える。

どちらの事件も、当時の政治家や軍人たちの腐敗や無策に対する怒りから発生した。しかし結果として、政治を変えようとした暴力行為はさらなる混乱と暴走を招き、日本は戦争の道を突き進むことになった。
515事件のあとに軍の影響力が増し、226事件のあとには軍の独裁体制が進み、そして最終的に戦争へと突き進む。軍が政治を握ったことで、かえって国が戦争という最悪の選択肢へと導かれてしまったのだ。

「腐敗した政治を正したい」という理想が、結果的にさらなる混乱と悲劇を生んでしまう。これは、どの時代にも通じる歴史の教訓ではないだろうか。


そもそも「昭和維新」とは何だったのか?

青年将校たちは「昭和維新」というスローガンを掲げてはいたが、その具体的なビジョンは曖昧だった。彼らの思想の根底には、「明治維新のように、武力を持って政治を改革し、日本を強くするべきだ」という考えがあった。

ただし、明治維新には「幕藩体制を倒し、西洋の近代国家制度を取り入れる」という明確な目標があったのに対し、昭和維新には統一された国家ビジョンがなかった。彼らは「腐敗した政治を倒せば、日本はよくなる」と考えていたが、ではその後どうするのか? という具体策には欠けていたのだ。

結局、昭和維新という理想は、実行段階で「軍部の独裁体制強化」という現実に変わってしまった。これは、目的が明確でないまま勢いだけで動くと、かえって意図しない方向に流されるという、歴史が示すもうひとつの教訓なのかもしれない。

結論:日本人は「ビジョンなしの暴動は意味がない」と学んだ?

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