阿木燿子先生のPOISON:昭和歌謡篇
サザエさんの設定が、古き良き昭和の世界観であるという話はチノアソビでも何度か出てきたが、半纏を着て、こたつに入って、みかんを食べながら家族やばあちゃんと一緒にドリフ(正式名称は「8時だョ!全員集合」)を見ていた土曜の8時の記憶はなつかしさとともによく後藤の胸に去来する。
たまにテレビの映りが悪くなる。
アンテナの向きを変えたり伸ばしたり縮めたりしても変わらない。
「ようこ、見えん!」
と父に文句を言われる。
(そもそも映っとらんやん)
と思いつつこたつに戻ると、入れ替わりにばあちゃんが立ち上がって絶妙にテレビを叩く。
すると、なぜか志村けんのドアップが復活する。
みたいな記憶とともにあるのが、ドリフに出ていた明菜をはじめとするアイドルたちの歌ものコーナー。
あれを毎週、生放送でやっていたというのが今考えたら恐ろしい。
ハプニングも多々あったけれど、それも含めてみんなが鷹揚に受け止めていた気がする。
そして明菜たちがよく出ていた番組といえば、「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ(通称・夜ヒット)」。9時就寝の子どもには耳に毒だった。
(当時から寝つきの悪い宵っ張りな子どもだった。三つ子の魂である)
☝そんな夜ヒットで明菜が出ているシーンだけを集約したDVD集。もう廃盤だが、後藤の車に常駐している。井上順さんのとぼけ具合と芳村真理さんのむちゃくちゃなトークがまたおもしろい。
という感じで、令和のなうにあっても、昭和の成分を求めがちな後藤の日常において、とても良心的に耳を傾けてくれる人にだけ毎回話してしまうことを今日は強制的に読者の皆様にお届けしたいと思う。
* * *
昭和歌謡の魅力は多々あるのだが、そのひとつが、70年代から80年代への移り変わりの時期に登場したコンポーザーやソングライター。専門の作家が手掛ける世界観が一般的だった時代から、シンガーソングライターが増え、さらにそのアーティストがアイドルに楽曲提供をしだしたのがこのあたり。
元大関・若嶋津の奥様、高田みづえの「私はピアノ」はまさにその代表格。桑田佳祐が作詞・作曲。そう聞いて聴きなおすとメロディラインがどこからどう聴いても桑田節なのだ。
みたいな発見が楽しく、なかでも筒美京平先生の作曲は本当に素晴らしいものが多い、といったことだけで何時間も経ってしまう。
まぁほかにも、久留米が生んだスター・聖子ちゃんの代表曲の多くに作詞としてクレジットされている「呉田軽穂」は荒井由実、つまりは独身時代のユーミンだし(ハリウッド女優であるグレタ・ガルボをもじって作られたというこの名前、昭和歌謡好きの間では初級レベルだが)、工藤静香が「ユーミン、まりや、みゆきの誰に書いて欲しいか?」と聞かれてみゆきさんを選んだ話も有名だ。
そんなエピソードはいくらでもあるのだけど、今のところ、勝手にそうだと信じてやまないネタがある。
宇崎竜童のパートナー、阿木燿子先生にいつか当時の真相を聞いてみたいことでもある。
ここで、読者の皆様も確実にご存知の2曲を並べたい。
1977年5月21日リリース、ジュリーこと沢田研二の「勝手にしやがれ」。
1978年5月1日リリース、山口百恵「プレイバックPart2」。
確か中学生の時分。
百恵ちゃんばかりをリピートしていた後藤は、久々にテレビの何かの番組でジュリーが「勝手にしやがれ」を歌っている当時のシーンを見て気付いたのである。
(どちらの曲も、リリース当時後藤は産まれていない)
「プレイバックPart2」の2番の歌詞に
潮風の中ラジオのボリューム
フルに上げれば
心かすめてステキな歌が流れてくるわ
勝手にしやがれ 出ていくんだろ
ちょっと待って
Play back play back
今の歌を
Play back
というくだりがあり。
ジュリーの「勝手にしやがれ」の1年後に「プレイバックPart2」が出ていることを考えると、作詞を担当した阿木先生は実際に車を運転しながらカーラジオからジュリーの歌声を聞いたのではないだろうか、という後藤の勝手な推測である。
と、思っていたら。
近年、Wikipedia上に「『プレイバックPart2』は『勝手にしやがれ』に対するアンサーソングである」と加筆された。
どこからの情報かわからないが、後藤の推測は一定の解を得たといっていいのかもしれない。そしてこの解にたどり着いた加筆者にペンフレンドになってもらいたい!
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