【プロレスと私】 第7回 オールスター戦で復活したBI砲(1979年)
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1979年の最重要イベントといえば、8月26日に日本武道館で行われた『プロレス夢のオールスター戦』だろう。東京スポーツ創立20周年記念イベントとして新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの3団体によるオールスター戦が実現した。
メインは、ジャイアント馬場&アントニオ猪木 vs アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン。1971年12月7日の日本プロレス札幌中島体育センター大会(ザ・ファンクス戦)以来の復活となるBI砲が、ファン投票によって決められたブッチャー&シン組と対戦。猪木が逆さ押さえ込みでシンをフォールしている。
新日がテレビ朝日、全日が日本テレビ、国際が東京12チャンネル(現・テレビ東京)と専属契約していたことから大会自体のテレビ中継はなかったものの、各局のニュース枠で約3分間のダイジェスト映像が放送された。
残念ながらこのニュース映像を観ていないが、仮に観ていたとしても、小学2年生だった私に「BI砲復活」に対する興奮はなかっただろう。当時の私にとって、ジャイアント馬場はアニメ『タイガーマスク』の登場人物。実在するプロレスラーであることは知っていたが、この時点ではまだ馬場の試合を一度も観ていない可能性が高い。
『全日本プロレス中継』が土曜日の午後5時30分から放送されるようになったのは、1979年4月(オールスター戦の4ヵ月前)。それまでは土曜日の夜8時に放送されていたが、怪物番組と呼ばれた『8時だョ!全員集合』や、1975年4月からスタートした萩本欽一のバラエティ番組『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ系列)といった裏番組に視聴率争いで惨敗。1979年4月の改編にともなって土曜夕方の録画中継がスタートした。
ゴールデンタイムからローカル枠に移動した『全日本プロレス中継』を観るようになったのがいつごろなのか、はっきりとは覚えていないが、新日のトップ外国人レスラーだったスタン・ハンセンが全日の会場に突如現れた1981年12月13日の『世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦(蔵前国技館)よりも前であることは確か。
躍動感あふれるドラゴン殺法で一大ブームを巻き起こした藤波辰巳に心酔していた私には、スローテンポな全日の試合は退屈だった。筋肉質で黒のショートタイツを着用する選手が多い新日とは対照的に、たるんだ身体で色付きのデカパンをはいた全日の選手を好きになれなかった。
一方、アントニオ猪木は幼いころから知っていた。プロレスといえばアントニオ猪木。藤波ファンの私でさえ、猪木がプロレス界を代表する選手であることを認識していた。
猪木はこの年、ボブ・ループ、タイガー・ジェット・シン、ジャック・ブリスコ、スタン・ハンセンらの挑戦を退けてNWFヘビー級王座の防衛回数を重ね、ミスターX、レフトフック・デイトン、ウィリエム・ルスカ、キム・クロケイドを相手にWWF(1979年3月にWWWFから改称。現・WWE)世界マーシャルアーツ・ヘビー級のタイトルも防衛している。
オールスター戦が行われる2カ月前(6月16日)には、パキスタンのカダフィ・スタジアムでジュベール・ジャラ・ペールワンと対戦。1976年12月12日に猪木と戦った伯父であるアクラム・ペールワンの敵討ちとして行われ、引き分けとなったこの一戦は情報が少なく「幻の異種格闘技戦」と呼ばれていたが、現在は非公式ながらYouTubeで映像を観ることができる。
そして11月30日、徳島市立体育館でボブ・バックランドを破り、日本人初となるWWFヘビー級王座を獲得。だが、12月6日に蔵前国技館で行われたリターンマッチは無効試合となり、裁定に納得できなかった猪木がベルトを返上している。
実は、猪木の戴冠はWWEの公式記録に残っていない。本拠地ニューヨークから遠く離れた島国でのタイトル移動劇は、長らくWWEの歴史から抹消されていた。しかし、猪木が亡くなった2022年10月、WWEのテレビ番組『SmackDown』の放送中に、猪木がWWE史上唯一の日本人ヘビー級チャンピオンであったことが明かされている。
(つづく)
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