報道の自由にも「神の見えざる手」が作用するのかもしれないと思った件

きっかけは悲しい報道とYoutuber

コロナの影響なのか、もっと違うなにかなのかここ最近で有名な方々の悲しい報道が続いてた。その方たちの出演した作品の中には私がとても影響を受けたものもあり、今でも「もうあの人の新しい作品は見られないんだな」と思うととても寂しい。

そんな悲しい報道が続く中で、亡くなられた方の自宅に張り付いてなんとか新しい情報を得ようとするマスコミの方々への非難が目についた。

「人のプライバシーをそこまで暴こうとするなんてひどい!」

この意見には私も同意で、「そこまでしなくていいのに」と何度も思った。。

一方で、そこで得られた情報がニュースとして流れれば私はきっとそのニュースのタイトルをクリックしてしまう。

そんな私なのでマスコミの方々が、

「報道の自由の名のもとで、求められる情報を得ようとしているだけだ」

と主張されれば、反論できない。

そんなことを考えていると、有名人の自宅に集まるマスコミの様子を配信するYoutuberが現れた。ワイドショーで流れる映像とは違い、生々しくどこまでもYoutuber目線で配信されるその映像はこれまで掲示板やTwitterで垂れ流されていた非難とは比べ物にならないインパクトがあったように思う。

気のせいかもしれないけれど、

「人のプライバシーをそこまで暴こうとするなんてひどい!」

という声が何倍にも大きくなってニュースになったような気がした。

〇〇さんの自宅前にマスコミが集結 YouTuberの動画で議論に
https://news.livedoor.com/article/detail/18975424/

今までは、行き過ぎた報道やプライバシーの暴露に触れるマスメディアは存在しなかったし、上記のニュースもマスメディアのニュースではないんだけれど、それでも比較的大きなネットニュースメディアにこのような形で取り上げられると、それが大勢の目にとまるようになる。

そうすると、自ずと行き過ぎた(と民衆が感じる)報道への非難の声はどんどん大きくなる。

報道の自由と行き過ぎた(と民衆が感じる)報道への非難がぶつかると、もしかすると未来の報道のあり方は変わるのかもしれないなと思ったのが、今回このnoteを残そうと思ったきっかけだった。

報道の自由ってなんだろう

報道の自由って、何なんだっけ?中学生くらいには社会の授業で習ったと思うけれど自信がなかったので調べてみた。

コトバンクより

表現行為のうち特に事実を伝達する行為の自由。国民に対して事実を伝達する媒体として新聞や放送が大きな役割を果しているところから,報道の自由も新聞,放送との関係で問題となることが多い。日本国憲法 21条の保障する表現の自由のなかに報道の自由が含まれることについては,今日ほぼ異説はない。ただ,この自由が取材活動における違法性を阻却する主張はいまだに承認されていない。

違法な取材は認められないけれど、合法な取材で得られた「事実」であればそれを報道することの自由が日本国憲法21条の「表現の自由」の中で保証されている、ということらしい。

神の見えざる手とは

「神の見えざる手」も確か中学生の時に公民の授業で出てきたキーワードなのでほとんどの人が聞いたことはあるはず。

コトバンクより

市場経済の自動調節機構をいう語。経済活動を個々人の私利をめざす行為に任せておけば「神の見えざる手」により社会全体の利益が達成される、というアダム=スミスの経済社会思想を示す語。

「大きな政府」「小さな政府」における「小さな政府」の論拠の1つだったような。

確か当時イギリスでは重商主義といって、貿易で儲けるために政府が主導してビジネスを推進していたけど、アダム・スミスは政府は余計なことせずに自由でフェアな競争ができる環境を整えてくれた方が結果的に良くなるんだよ!と主張していた。みたいなことだった気がする。(気になる人は是非調べて見て下さい。)

で、なぜ「報道の自由」に「神の見えざる手」が作用すると思ったのかという話。

報道する側の自由は先述の通り、かなり広範囲に認められている。

(しかし世界的にみると日本はそうでもないらしい。
「報道の自由度」ランキング、日本はなぜ61位に後退したのか?

これは、経済活動が基本的には個々人の私利を目指す行為に任せられている、という「神の見えざる手」で言うところの「全体の利益が達成される」条件にあたるのではないかと考えた。

報道する側の自由が、Aさんの経済活動だとして、

今回マスコミの行き過ぎた(と感じられた)Youtuberの晒し行為がBさんの経済活動だとすると、

・合法的な取材の範囲で事実を獲得して、報道するんだ!

という経済活動と

・行き過ぎた取材でプライバシーを蹂躙するのはやめろ!

という経済活動が衝突すると、
「じゃあ、なにをどこまでなら取材して報道していいんだろう?」

という、誰かが明確に定義したりジャッジしたりできない問いが生まれる。

そして、その時の落とし所になるのは

「民衆が許すのか許さないのか」

になるのではないかなと。

「報道の自由」がいくら法律で認められていたとしても、それを受け取る多くの民衆が「それは許されない」と判断するとその民衆を相手にビジネスをしている企業はその報道番組をスポンサードしなくなる。テレビの現状のビジネスモデルに限って言えば、スポンサーからお金をもらわないと成立しないので、民衆が許さない報道はしにくくなる。みたいなことになるのではないかと。

もし本当にそうなるとしたら、その有様はまさに「神の見えざる手」によって落とし所が決まるようだなと、そう思いましたというのが今回のnoteで残しておきたかったことでした。

(そうなったらそうなったで、今度はスポンサーとか関係ないYoutuberみたいな人たちの中から、過剰な取材と報道をする人が出てくるのかもしれない)

もしこの考察が正しいとしたら、これからの報道はどうなるんだろうでしょうか。

これまでもきっと、マスコミの報道に対して「そこまでやらなくていいじゃん」と思ってた人たちがいたのだけれど、マスコミの報道ではそこには触れられないので「そこまでやらなくていいじゃん」と思う人々は報道される情報を受取るだけだった。

でも、「そこまでやらなくていいじゃん」と思った人が声をあげるとそれを全国・全世界の人々にダイレクトに届けられるメディアが出てきて、それをみて「私もそう思う!」という人たちが出てくるようになった。そうなると、「あ、実はそんなふうに思ってる人たくさんいたんだ」ということで「そこまでやらなくていいじゃん」な人たちの声はどんどん大きくなって、「報道の自由」の名のもとの(経済)活動に、「そこまでやらなくていいじゃん」という(経済)活動がぶつかるようになる。

そうなると、今後報道ってどうなっていくんだろう。

もし、このnoteを読んでなにか思うところがある人はコメントに残してほしい。ここまで読んでくれてありがとうございました。



いいなと思ったら応援しよう!