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空白の一日

3月上旬、石巻に旅に出た。

帰りに、東京に一泊した。
その時に見たものについては、まだ誰にも語っていない。
ようやく、言語化できた。

プロローグ

2019年の暮れ、書店で偶然、1冊の詩集に出会った。
緑色のカバーに銀色のシダとナズナが描かれている。美しい、と思った。
『新編 志樹逸馬詩集』というその本を、ジャケ買いした。

帰宅して読んで、志樹逸馬がハンセン病患者であったことを知った。
若くして発病。療養所に強制収容されて、42歳の若さで他界。
志樹逸馬というのはペンネーム。よくあることのようだ。ハンセン病患者であることが知られると、故郷の家族に迷惑がかかるから、という。

   ことしは庭に

ことしは 庭に 菜の花を たくさんさかせ
蝶を 遊ばせよう
青空の下 風に流れるようなおもいを 詩につづろう

(若松英輔編『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房)より) 

こんなに美しい詩を書いた人が……
どうして病気になって、どうして強制収容されて療養所の中で一生を終えなければならなかったのか。
わたしは呆然とした。

☆……☆……☆

ハンセン病については、説明が必要であろう。
以下、ざっくり説明する。

ハンセン病は 昔は「癩病(らいびょう)」と呼ばれていた。不治の病として、患者は差別の対象になっていた。
近代になって、伝染病であることが発覚。患者たちは療養所に強制収容された。療養所といっても、当時はろくな治療は受けられない。劣悪な施設に収容されて、事実上、死を待つのみであった。死んでも故郷には帰れない。遺骨の引き取りを遺族に拒否されて、療養所の中にある納骨堂で眠るのだ。
その後、特効薬ができて、不治の病ではなくなった。伝染力はきわめて弱いことも分かった。それでも、差別は続いた。
1996年に「らい予防法」が廃止されても、元患者たちの多くは、全国にある療養所に暮らしている。もちろん、療養所の外で暮らすことはできる。でも、21世紀になった今も、偏見による差別は根強く残っている。

詳しく知りたい方は、下記リンクを読んでください。

☆……☆……☆

そして2023年2月。
ネットで、特別展「ハンセン病文学の新生面 『いのちの芽』の詩人たち」の開催、それから『いのちの芽』の復刊を知った。

関西に巡回してくる見込みはない。『いのちの芽』だけでも入手したい、と思ったが、通販はやっていないようだ。

3月に、石巻に行く用事があった。
石巻の帰りに、東京で1泊した。

『いのちの芽』の詩人たち

その日、まず、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)に向かった。

玄関を入った。受付から、「入り口の紙に記入してください!」と声がかかった。
簡単なアンケートだった。どこから来たか、資料館のことをどうして知ったか、そして新型コロナウイルスに感染していないか。
そう、資料館は療養所(多摩全生園)と同じ敷地にある。新型コロナウイルスを持ちこまれたら困るだろう。
記入して受付のお姉さんに渡すと、「奥の階段から2階に上がってください」と言われた。
ちなみに、入館料は無料だった。

2階に上がると、常設展示があった。
ハンセン病の歴史。
治療にたずさわった人たちの紹介。
療養所での暮らし。
そういったこと、もろもろについて、ジオラマも交えて紹介されていた。

本やネットである程度の知識は得ていたが、こうして実際に立体として展示されると、胸にずしんとくるものがあった。

最後の部屋が、お目当ての特別展の会場となっていた。
詩人たちの詩が、パネルに印刷されて展示されていた。

たとえば、こんな詩。

   伝説
                厚木叡

ふかぶかと茂った森の奥に
いつの日からか不思議な村があった
見知らぬ刺(とげ)をその身に宿す人々が棲んでいた
その顔は醜くく その心は優しかった。
刺からは薔薇が咲き その薔薇は死の匂いがした
人々は土を耕し 家を葺き 麵麭(ぱん)を焼いた
琴を鳴らし 宴に招き 愛し合った
こそ泥くらいはありもしたが
殺人も 姦通も 売笑もなかった
女たちの乳房は小さく ふくまする子はいなかった。

百年に一人ほどわれと縊(くび)れる者がいたが
人々は首かしげ やがて大声に笑いだした
急いで葬りの穴を掘り 少しだけ涙をこぼした
狂ったその頭蓋だけは森の獣の喰うに委(まか)せた
いつもする勇者の楯には載せられなんだ。

戦いはも早やなく 石弓執(と)る手は萎えていた
ただ時折りひそかな刺の疼きに人知れずうめき臥すとき
祖(おや)たちの猛々しい魂が帰ってきてその頬を赭(あか)く染めた
宵ごとに蜜柑色に灯った窓からうめきと祈りの儀式(リテュアル)が
香炉のように星々の空に立ち昇った。

幾百年か日がめぐり 人々は死に絶えた
最後の一人は褐(かち)いろの獅面神(スフィンクス)となった
頽(くず)れた家々にはきづたが蔽い
彼らが作った花々が壮麗な森をなした
主のいない家畜どもがその蔭に跳ね廻った。

夕べ夕べの雲が
獅面神の双の目を七宝色に染めた。

(『詩集 いのちの芽』より)

一篇一篇の言葉の重みに、わたしはただ立ち尽くした。

写真は撮れなかった。

帰りに受付で『いのちの芽』をいただいた。
ソフトカバーだが分厚いしっかりした造本。無料で貰うのがなんだか申し訳ない気がした。

資料館を出た時、13時になろうとしていた。
迷いなく、次の目的地に向かった。
資料館の受付のお姉さんには「遠いですよ」と言われた。でも、お昼ごはん抜きで向かえば1、2時間は見る時間ができるはずだった。

趙根在写真展

西武池袋線清瀬駅から秋津駅で下車。空腹を抱えて武蔵野線新秋津駅まで歩く。北朝霞駅で下車、東武東上線朝霞台駅まで歩いて、乗り換えて、森林公園駅で降りた。
駅前にはタクシーが1台だけ止まっていた。その1台に乗って、わたしは告げた。
「丸木美術館までお願いいたします」
タクシーで1500円。15分くらいかかって、丸木美術館(埼玉県東松山市)に着いた。
入館料は900円であった。

丸木美術館は、丸木位里・俊夫妻の手による連作絵画「原爆の図」が収められている。一生に一度は見ておいていいと思った。
しかし、主目的は、「趙根在写真展」であった。

趙根在(チョウ・グンジェ)。日本名は村井金一。在日朝鮮人の子として生まれた彼は、1960年代から1980年代にかけて、国内各地のハンセン病療養所を訪ね、隔離政策によって収容された入所者たちの写真を撮り続けた。

信頼。
そういうものを感じた。

家族と離れて暮らし、家族に迷惑がかからないようにとひっそり暮らす入所者たち。
趙は療養所に通うだけではなかった。入所者たちと仲良くなって、時には療養所に住みこんで、心が通ってからカメラを向けたのであろう。

展示会場の最後に、彼の遺品が展示されていた。何台かのカメラ。オリンパスの一眼、ブラックボディだった。

丸木美術館から出たのは16時過ぎ。タクシーを呼んで、駅に戻った。

渡されたバトン

こうして、空白の一日は終わった。

大丸東京店の地下で求めたお弁当を東海道新幹線で食べながらも、手は、時々、『いのちの芽』『趙根在写真展図録』の入ったトートバッグに触れていた。

これは、バトンなのだ。
そう思ったのは、松谷みよ子『死の国からのバトン』が記憶にあったからなのだろう。

わたしには、子どもがいない。甥や姪もいない。いとこの子どもたちも、離れて住んでいて、顔すら知らない。
受け取ったバトンを、誰に渡すのか。

展覧会は、2つとも、5月7日(日)まで。
もしよかったら、どちらか片方だけでも、実際に行って見てほしい。

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