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マスクをしないと公然わいせつになる時代がやってくるのか?

 マスク着用生活も2年目に入ってしばらく経った。未だに、食事などで同僚がマスクを外していたりすると、「そういえば、この人こんな顔だったっけ」とか思ってマジマジと見てしまう。

 1年間でマスクにまつわるトラブルのニュースも幾つか記憶に残るものがあった。マスクを着けずに飛行機を降ろされたおじさんや、マスクを正しく着用しなかったせいで試験を失格になったおじさん。新聞沙汰にまで発展する事例は稀なのでサンプル数は多くないけれども、どうもおじさんが厄介ごとを起こす傾向にあるらしい。そしてときには、憲法的な自由権を引き合いに出したり、コロナウイルス自体の危険性に疑問符を付けたりすることで、反論を試みようとする。

 ひとに注意されると自分が間違っていると分かっていてさえ釈然としない気持ちになるのはわかるが、結局、防疫上の観点から「マスクを着けましょうね」というルールになっている以上は、とりあえず従わなければ仕方がないんじゃないだろうか。我々の多くはそういう感覚を持っている。

 ところで、このルールがどの程度のルールなのか、という点には一考を要する。そもそも、ある切り口ではルールは「法」、「道徳」及び「慣習」に区別できると考えられている。

「法」は集団によって一種の民主的過程によって決められた(つまりみんなで決めた)、集団の秩序を維持するためのもので、ここには国会で決められた法律だけでなく、例えば会社で決められた規則や、家庭内で決めたトイレの使い方のルールなんかも含むと考えてよいだろう。

 「道徳」は「人を殺してはならない」「人のものを盗んではいけない」という心情にかかわる規律で、人によって曖昧になりやすいが、感覚的にはわかりやすい。

 「慣習」は普段あんまりルールとしては意識されないが、反面かなり強力に人間を規律するものである。我々は「いまのところ、毎日こうしている」というだけの行動について、何か要因がない限り継続しする傾向をもっている。それはモノの考え方についても同じことがいえる――反復することにはある種の快感が伴うのかもしれない。まして集団で習慣として行っていることや考え方を変えるのは、それが明文でルールとして定まっていないことだとしても――定まっていないだけに――なお難しい。

 これらのルールは相互に影響しあっている。日本の刑法199条に人を殺したものを罰する規定があるのは、道徳を法の形に具体化したものをみなせる。

 また法が我々の道徳に影響を与える側面もある。ふつう、法を犯すということは、それ自体として道徳的にも責めを負うことを意味する。論理的には、法を犯す行為が必ずしも道徳違反とは言い切れないと考えられるにもかかわらず、である。例えば大麻などは国によって適法か否かが異なる。大麻の吸引が道徳的によいか悪いかという問題は、各国において必ずしも合法性の問題と連動している必要はない。だから、大麻は道徳的な罪ではないとみなされているけれども、政策的な問題で違法とされているような社会もありうるはずだ。しかし、実際は法と道徳はもっと複雑に入り混じっていて、曖昧であるため、違法とされていることによって直ちに道徳にも反しているとみなされやすい。

 前置きが長くなったが、私がいいたいのは、「マスクのルール」にかんする我々の認識は、法=集団的なものからすでに慣習的なものとなり、さらに道徳=個人的なものに移行しつつあるのではないかということである。

昨年、ツイッターに投稿されていた漫画をひとつ引用する。


 感染症によりマスクの着用が「義務となり常識となりそして文化となった」近未来の学校の話である。既に「マスクが文化になっている」と言われてもさほど違和感を覚えないひとも多いのではなかろうか。

 注目すべきは、本作中で口があたかも生殖器や女性の乳房と同様にあたかも秘匿すべきもののように扱われていることである。今のところ我々は、口を露出することそれ自体に羞恥感情を抱くまでには至っていない。しかし100年後、マスクを着用しないことがわいせつ犯罪に認定されないとも言い切れないという気もしてしまうのである。

 ひるがえって、100年前のことについて書かれた記事があったので紹介してみる。

Men were once arrested for baring their chests on the beach
(『男性はかつてビーチで胸を晒した罪で逮捕されていた』The Washington Post)
https://www.washingtonpost.com/history/2019/01/05/men-were-once-arrested-baring-their-chests-beach/

 現代においては海外のフェミニストが敢えてトップレスで町を練り歩いて自己決定権を主張する映像などがネットで見られるが、この記事によれば1920年代アメリカのロングアイランドにおいては男性の乳首の露出も公序良俗に反し違法だったそうであり、海水浴場にシャツなしで過ごしていた男性が逮捕される事案がしばしばあったということである。

 今の我々からすれば、「男性の乳首がわいせつだ」というのは今ひとつピンとこないことのように思われる。一方、海水浴場ならまだしも、電車の中に上半身裸のおじさんがいたら、少しギョッとしないだろうか。どうやら何をわいせつと考えるかは、時代だけでなく時と場所によってわりとコロコロ変わってしまうもののようだ。それなら、マスクをしていないことが時と場所によっては「わいせつ」とみなされるという事態も、それほど考えにくいことではないのではないか。

 そもそも、法的に「わいせつ」とはどういうことをいうのか。わいせつ物頒布等罪にかかわる最高裁判所判例(昭和32年3月13日刑集11巻3号997 頁、いわゆる「チャタレー事件」判例)によれば、

刑法第175条にいわゆる「猥褻文書」とは、その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。

 これは「文書」というそもそも他者に対しての情報伝達を目的とした媒体に関わる判例であって、単に身体を表に晒すことにまで射程があるとは思われないが、「わいせつ」とは何か考える上でのヒントになりそうだ。

 「善良な性的道義観念」が時代によって移ろいやすいものであることはいうまでもない(例えば、婚前交渉の是非について考えてみよう)。また、電車の中で上半身裸のおじさんに幾らかの「わいせつ」を感じるのは、「性的羞恥心を害」するというところに関連がありそうだ。こんにち、海水浴場で男性が上半身であるのは珍しくないし、そもそも泳ぐのだったら脱ぐのが普通だ。でも電車の中ではそういう理屈はつかない。だから、見ている方が性的羞恥心を刺激されてしまう。

 それでは現状、海水浴場ですら女性のトップレスに対する忌避の風潮があるのはなぜだろうか(ほら、文章上ですら「女性の乳首」と記すのは「男性の乳首」と記すのに比べて忌避感がある)。この点は、上記判例のわいせつ要件中、「徒らに性欲を興奮又は刺戟」するというところに関わると思う。つまり個人々々の性的な好みは別として、類型的に女性の乳首の方が男性の乳首よりも「性欲を興奮又は刺戟」する度合いが強いからこそ禁止されているのという理屈なのではないか。
 
 この見方からすればこそ、「なぜ女性だけがトップレスで歩いてはいけないのだ」というフェミニズム的非難は有力になってくる。「貴女方の身体は、徒らに性欲を興奮又は刺戟するからいけないのだ」というクレームは不適当であるからだ。興奮する方が悪いとまでは言わないが、生まれついた体を見せつけて興奮させるのが悪いという言い分は理不尽である。
 
 ここで起こってくる疑問だが、例え類型論にとどまるとしても、女性の身体は男性の身体より性的な興奮を惹起しやすいというのは、時と場合や時代を問わずに確かなことだといえるだろうか。

 確かに生物学的なレベルで、女性の身体によって男性が惹きつけられることで繁殖行動に至るという構造は存在するようでもある。だが、女性が上半身裸で出歩くことが普通であったなら、そうでないときより裸に惹きつけられる度合いは低くなるはずだ。人間の脳は刺激に対して慣れを生じさせるからである。裸が繁殖行動を惹起するというだけでなく、繁殖行動と裸が結びついているからこそ裸が性を連想させるともいえる。ジャングルの奥地で狩猟採集をしつつ、常に素っ裸で生活をする人たちがいるとする。彼らからすれば、必ずしも裸は性を意味しない。

 繁殖行動を問題にするならば、パートナー選びに相手の顔を重視する傾向のあるヒトたちがいることをどう考えればよいか。彼らからすれば、体より顔の方がよっぽど「性的」なのかもしれない。だったら、感染症対策を抜きにしたとして、顔を被覆する必要がないとするならば、なぜか。第一、しゃべっているときに体液が飛沫したり、内部の粘膜が露出したりしてしまうではないか!
 
 イスラーム世界の一部では、ひょっとすると既にこの種のモラルが体現されているのではないか。女性がヴェールで顔を隠さなければいけないのは、教義への服従という問題だけでなく、彼らはそれ自体として性的な羞恥心を害されるという感覚を持っているのかもしれない。

 以上のことからすれば、顔は十分に「わいせつ」たりうると考えられる。既に我々の中には、うっかりマスクをせずに外に出てしまったときには、股間のチャックが開いたまま歩いているような感覚を強いられる者もいるのではないか。「マスクなんてしたくない」、という意識の人がいるのは、感染症に対する意識の問題もあるが、そこにはいわゆる羞恥心の持ち方の個人差も幾つかは混ざっているのである。

 我々のモラルは、常に環境からの影響を受け続けている。いま本質的だと思われているルールや感覚が100年後――いや10年後や1年後ですら、どんな変容を遂げているか、誰にも正確に予測することはできない。コロナウイルス感染症は、人々の生活様式そのものに関わる異常事態を引き起こすことで、「ふつう」の脆弱さを我々の眼前に突きつけているのである。

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