ジャイアンと「人KENまもる君」と社会悪の問題

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「人権イメージキャラクター人KENまもる君と人KENあゆみちゃんは,漫画家やなせたかしさんのデザインにより誕生しました。2人とも,前髪が「人」の文字,胸に「KEN」のロゴで,「人権」を表しています。人権が尊重される社会の実現に向けて,全国各地の人権啓発活動で活躍しています。」――法務省ウェブサイト(http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken84.html)より

 アンパンマンが菓子パンの擬人化であるのと同様に、「人KENまもる君」はやなせたかしによる人権の擬人化である。しかし、人権のごとき抽象概念を具体化するのは、目に見えて存在するものをモチーフにするより遥かに難しい。前髪が「人」の文字、というのはやなせたかしの苦慮の痕跡だろう。


 人KENまもる君がアンパンマンの物語に登場することを想像してみよう。容姿からすれば、さほどの違和感はなさそうだ。しかし言葉の上では、アンパン、食パン、カレーパンに丼物の並びにいきなり「人権」とくれば、少し面食らう。ツイッターや、その他のインターネット上のコミュニティを見てみると、あくまでインターネットをサブカルチャーや他愛ない冗談を楽しむための、すなわち日常から少しかけ離れた場所として求め、そこで政治や社会問題に触れることを嫌う人も多い。人KENまもる君からは、そういう「空気の読めなさ」を感じないこともない。人権を実際に侵害されないうちは、我々は「人権」などと言う言葉は聞きたくもない、と思いがちなのかもしれない。とはいえ、アンパンマンの世界の登場人物たちならば、人KENまもる君のことも温かく受け入れるに違いない。


 では、アンパンマンにおける悪役であるところのばいきんまんは、人KENまもる君にどう接するだろうか。やはり悪役である以上、人KENまもる君の人権を激しく攻撃すべきなのだろうか。どうもそうは思えない。ばいきんまんは黴菌たる性質上、アンパンマンたち食品の大敵だが、その悪行はあくまで子供っぽい悪戯心の表れにすぎず、彼とても自ら人権の敵たろうと考えはしないだろう。


 そもそも、子供向けの作品に「人権の敵」にいたるまでの悪はほぼ現れないといってよい。『ドラえもん』での言わば悪役であるジャイアンは、普段は周りの自分より腕力に劣る小学生をいじめたり、非文化的な歌で苦しませたりしているが、映画版になると途端に情を見せ、友人に対する思いやりを発揮する。それを見て我々は、「ジャイアンも根は良い奴なんだ」と思ったり、反対に「たまに思いやりを見せたからと言って、それでいい人間ということにはならない」と思ったりする。つまり、普段暴れまわって他人に迷惑をかけているヤンキーが捨て犬に優しくしているところを見たからと言って、「根はやさしい」などと考えるのは短絡だ、行動の9割を占める悪行が1割の善行によって償われたりはしない、というのである。しかし、ジャイアンの在り方が見せているのは、むしろ人間に本質として「悪い」とか「良い」とかいうことはなく、良くなるときも悪くなるときもあるということではないのか。 


 夏目漱石は、『こころ』で「先生」に次のように語らせている。

 「それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。」――夏目漱石『こころ』より

 『ドラえもん』などに対照して、より年齢の高い読者・視聴者向けの作品になると、「真の邪悪」と言ってよいような人間が現れ始める。彼らはときに他人の生命すら顧みず、利己的で、ともすれば狂気的としか思えないような行動原理に身を任せている。そういう悪役は、その思考回路が読者・視聴者にとって理解しがたく受け入れがたいものであるほど魅力的であるとされる。人KENまもる君が人権の擬人化ならば、彼らは悪の擬人化である。我々はどうやら善よりも悪の方にリアリティーを感じるようにできているらしく、善の擬人化をやなせたかしの描く様なデフォルメされた形でしか認識できない反面、悪の擬人化の方は、まるで実在するもののように感じてしまう。

 しかし、考えてみれば、善そのものの人間がいないのと同様、悪そのものの人間もいないことは明らかであって、「真の邪悪」たる存在はアンパンマン同様のファンタジーである。ジャイアン的な人物描写が子供だましで、社会を裏で牛耳る悪との戦いの物語こそがより真に迫っているとはいいがたい。

 「こいつが死ねば世界は平和になる」という社会悪を設定する考えには、抗いがたい魅力がある。絶対の善性である神の存在感が薄らいだ近代以降においてはなおさらのことである。それゆえ、我々はときに目の前にいる敵に憎悪を募らせるあまり、それこそが世界すべてにとっての悪であると思い込み、本当の敵がどこにいるのかを見失ってしまうことがある。本当の敵とは、目に見えるどこにもおらず、誰でもない。所詮人間は自らの脳味噌と身体とに支配された、いつか滅びる存在でしかない。「本当の敵」とは、ひょっとすると不滅である。それはときに遺伝子の中に潜んでいて、避けがたく人間を非人間性へと追いやる。または社会に構造として潜んでいて、差別や人権侵害を生む。我々に必要なのは、その見えにくく理解しにくい構造を見破り、抵抗する知性と意思である。


 昨今、インターネットでは誹謗中傷への対応の要請がいや高まりつつある。加熱した中傷による自殺の例も報道され、「指先一つで人を殺せる」というネットの負の側面にまたしても注目が集まっている。誹謗中傷への厳然たる対応の必要性は別としても、我々にとって必要なのは、しかし、そうした攻撃に対してそれを上回る攻撃で対処し、人類を「常識ある我々」と「侵害者たる奴ら」に分断することではない。我々は自らが被害者にも加害者にもなりうることを理解し、ネットはどういう場所であり、どのように扱っていくべきかを単なる道徳論ではなく体系的・科学的にとらえていくことだ。


 人間に本質はない。社会が統一性のない人間の寄せ集めであり、はっきりとした実体を持たないのとほぼ同等に、我々もそのときどきの行動と、思考と、感情との寄せ集めでしかないのかもしれない。だからこそ、我々は善でも悪でもない「普通の人間」であって、その寄せ集めである社会も「普通の社会」に過ぎない――だから、本当の社会悪など存在しない。我々大人は絶対の善というものを信じられない、寂しい存在である。しかし同時に、絶対悪の存在を信じる必要もない、自由な存在であるともいえる。自由に不安はつきものであり、それらを同時に手放したくなるのも人情である。

 いま我々は、いつのまにか情報技術という新しい、そして史上最大の自由のための道具を手にしている。その自由をどれだけ生かせるかは、不安と付き合いつつ、その道具の扱い方をあくまで理性的に、どこまで真摯に考えられるかということにかかっているのである。

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