「バズ」と「ミーム」論

 インターネット上で(特にSNS上で)ある情報が拡散されることを、「バズる」ということがある。「バズ」の原義は「虫が群れ集って鳴らす羽音」のことであり、「大袈裟なばかりで中身のない空騒ぎ」という皮肉な含意がある。拡散される情報の全てが「空騒ぎ」ではなかろうが、ネットの盛り上がりの寿命が短いことは確かで、多くはピークが過ぎてしまえば羽虫が散るように霧消してしまい、跡形もなくなる。もっとも、現在我々が「バズる」という言葉を使うときに、そうしたニュアンスが念頭に置かれていることはすくない。


 英語圏でこれに相当する言葉は、「go viral」であろう。意味としては「ウイルスのようになる」、つまり情報が「まるでウイルスが伝染していくように広まっていく」というくらいの意味であろう。コロナウイルス感染症蔓延下の世界においてより露骨に感じられるが、確かにネット上の情報と言うものはウイルスと同様急速に――あるいその媒体の性質上ウイルスより遥かに効率的に――広まっていくし、なんとなく実体がつかみにくいところも似ている。我々はウイルスも、情報も、それが何か知っていても、それをどう捉えればよいか、どんな作用があって、それがどう社会に影響するのか、いまひとつ理解しきれていないことが多い。それゆえにインフォデミック――根拠の薄い情報の拡散による、言論の場の汚染のような状況も生じる。


 ところで、1970年代には既に、情報をウイルスと同様に目に見えないものに例える理論が存在した。それこそが「ミームmeme」論である。これは「真似るmimic」と「遺伝子gene」の合成語であるとされ、「文化的遺伝子」と訳出されることもある。日本ではあまり流通していない用語だが、ネットの英語コミュニティではスラング的に用いられている(ただし彼らがmemeというとき、それはほとんど「ネタとしてよく使われる画像やフレーズ」を意味するのであり、もともとの「ミーム」の語義からはだいぶ限定される)。


 ウイルスと情報の類似性と違い、遺伝子と情報の類似性は直観的には理解しがたい。情報を遺伝子にたとえることには、どういう利点があるのだろうか。それについて考えるために、ミームが初めて提唱された『利己的な遺伝子(リチャード・ドーキンス)』において、遺伝子がどのようなものとしてみなされているのかについて、簡単に見てみる。


 ドーキンスによれば、遺伝子にとって人間や動物、植物といった生き物は「乗り物」であるという。遺伝子は生き物の形質を決定することで間接的に生き物を操るとともに、生き物を通じて次の世代へと「乗り換えて」いく。その世代交代の中で、より多く生き残る遺伝子と滅びていく遺伝子が存在する。一般に、より長く生きて、より多くの子孫を残し、より正確に遺伝子を自分の子に複写する生き物を「乗り物」にした遺伝子ほど、大きな繁栄を遂げることになる。これが遺伝子レベルでみたときの自然淘汰の仕組みである。いわば遺伝子は、生き物を代理人とした生き残りゲームをやっている。結果として、生き物により鋭い歯を持たせた遺伝子が生き残ったり、より速く走れる脚を持たせた遺伝子が生き残ったりする。自分の依存先である乗り物が環境に適応できなかった場合は、生き物と一緒に遺伝子も滅びる。だから、その時々の環境に強い生き物が生き残ることは、その形質を作り出した遺伝子が生き残ることをも意味する。


 ここから、我々ヒトの間における遺伝と情報の拡散にはどのような類似点があり、またどういう相違点があるのか考えてみる。

1 遺伝子と情報の伝達方法


 遺伝子は生殖によって、情報はコミュニケーションによって、いずれも人から人へと伝わっていく。遺伝子の容れ物は全身の細胞であり、情報の容れ物は脳である。もちろん、生殖がふつう相当量の時間とコストを要するのに対して、情報の伝達は遥かにお手軽である。特にICTの普及した状況にあっては、地球スケールの伝達を瞬時に行うことができる。
 また、遺伝子の伝達方向が親から子への垂直方向に限られるのに対して、情報はより水平的であり、同時代に生きる相手であれば、誰であろうと伝達可能である。

2 遺伝子と情報の「単位」


 遺伝子や情報が伝達していくときに、どのような単位のものについて考えればよいか、という問題もある。例えば遺伝子の場合、染色体のひとつを単位とすると、あまりに大きすぎる。なぜならば、有性生殖の場合、染色体は二つに分裂して半分だけが次の世代に伝わるので、完全な形で生き残る染色体は存在しない。だから、染色体が「遺伝子」であるとするならば、世代を通じて生き残る遺伝子は存在しないことになってしまう。そこで、いわゆる遺伝子は少なくとも染色体の一部であり、世代交代を経験するにあたって分割される可能性が低い、十分に小さいもので、「鋭い歯の形成に関係する」というような機能的な意義を満たす程度には大きいものであると考えられる。


 ミームの概念も、同様に考えるのがよさそうである。情報の場合も、やはりミームとして区切るのは、伝達に支障がない程度に小さく、かつ機能的な意義を持つ程度に大きな内容であることを要するだろう。では、情報の機能と遺伝子の機能の違いとは何だろう。


3 遺伝子と情報の「自然淘汰」


 遺伝子の生存競争の在り方と、ミームの生存競争の在り方は大きく異なる。人間の遺伝子の生死は基本的に人間の生死と連動しているのに対して、手軽に広まっていく性質上、情報は必ずしも一蓮托生の関係にない。一方で、細胞に埋め込まれて生体そのものと分かちがたくつながっている遺伝子に比べて、ミームは簡単にヒトの脳から揮発して、忘却されてしまう恐れがある。


 全体として、ミームのライフスパンは遺伝子に比べて遥かに短い傾向がある。急速に広まりうるが、急速に消えてしまいうる。ただし、ある種の信念のように、ほとんど遺伝子と同じくらいに、人間の脳に深く根を張って、そのヒトと生涯をともにするミームもありうる。


 先述のように、情報はその伝染性の高さや相対的な短命性では遺伝子よりはウイルスや寄生生物に近いものであるが、それでもミーム概念に意義がないとはいえない。なぜならば、ミームには人間の思考と行動を左右する機能的意義があるからである。


 もっとも、どんな遺伝子(ミーム)が生き残るのか、ということには大きな違いがある。遺伝子が反映するためには、一般にその「乗り物」である生き物に長く生きたり、多くの子供を残してもらったりする必要があるが、ミームの場合はその「乗り物」が長生きであることまでを要しない。ミームにとって必要なのは、より多くのヒトの目に触れてその脳の中に自らの複製をつくらせ、またさらに複製を促す能力である。だから、ミームがヒトを操るとき、必ずしもその生存や成功に役立つことまでを要しない。少なくとも「役に立つ」と感じさせればよいのである。


 ここから得るべき教訓がひとつある。当たり前のことではあるが、拡散されている情報が、必ずしも人にとって役に立つものであったり、正しいことであったりすることが保証されているわけではないということである。「広まりやすい情報が広まる」のであって、「広まりやすさ」と有用性・正しさは常にイコールではない。


 我々の身体の中にいる遺伝子ですら、必ずしも我々との利害は一致していない。ヒトに多くの子供を作らせるが、その分、癌にかかりやすくする遺伝子、と言うものがあったらどうだろう。その場合、遺伝子が広まっていく反面、健康寿命の短い人がどんどん増えていくことにもなりかねない。とりわけ、遺伝子にとっては、我々がせいぜい二人以上の子を残すまで生きてさえいれば、それで十分繁栄のために間に合うのである。


4 遺伝子と情報の「突然変異」


 遺伝子が生き残るためには、生殖の際にコピーが正確に行われる必要があると考えられるが、一方で進化のためには、そのコピーに一定の「エラー」が生じなければならない。例えばある草原には、草だけが食べられる動物だけがいるとする。ふつう、その動物の生む子は草だけが食べられる個体であるが、どういうわけか遺伝子が正しく伝わらず、肉も食べられる個体が生まれた。もしこの草原に草が不足した合、この肉も食べられる個体が生き残っていく目算が高くなる。その結果、エラーとして生じた、肉も食べられるようにする遺伝子も生き残っていき、徐々に草食の個体が肉食の個体に入れ替わっていくであろう。エラーが生じなければ、その動物が絶滅してしまったかもしれない。進化にエラーが必要だというのは、そういう意味である。


 もちろん、「エラー」の全てが有利に働くわけではなく、例えば草も肉もうまく栄養に変えられない個体が生まれた場合、その個体は遺伝子を伝えることなく死んでしまい、エラーの遺伝子も消えていく。


 情報は遺伝子以上に可塑性が高く、このエラーが起こる可能性が高い。むしろ、噂に尾ひれがつくというように、偶発的ではなく、むしろ媒介者によって意図的に、何らかの変異が生じるのが普通である。そして、改変されたミームがより高い訴求力を持っていれば、元のものを駆逐して拡散することもありうる。


 噂が無責任に改変されるということだけがこの例ではない。思想が改良されていく過程も、「ミームの変異」の範疇になるだろう。



 以上のことを総括するならば、ミーム論の意義は、情報が遺伝子と同様に一定の「自然法則」に則って動くものであると仮定して議論を行いやすいこと、そして情報が遺伝子と同様に「利己的」に振舞いうることを示唆することである。ミーム論は、情報の拡散が必ずしも人々や社会の利益になるとは限らない、という規範的な議論につながりやすく、インフォデミックの時代に親和的である。我々はウイルスを研究することで、それを克服しようとしてきた。それと同様に、ミームを知ることによって、我々がそれによって害されないための方策を立てることが可能になるだろう。人種差別や性差別もミームの一種であり、その克服のためにはミームを克服する必要があるともいえるのである。

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