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こんなご時世ですが、酩酊するまで酒を飲みませんか?

僕は、酒が強い。  

こればっかりは、努力とか根性とか、そういうものじゃない。生まれつき備わった才能なんだと思う。
僕の両親は、僕がまだ小学生になるかならないかくらいの頃から飲んだくれていた。
普通、飲んだくれの両親なんて聞いたら、荒れた家庭とか、修羅場とか、そんなイメージが浮かぶだろう。でも、うちは違った。  

父も母も、とにかく酔い方が上手だった。どれだけ酒を浴びるように飲んでも、翌日にはケロッと立ち上がり、働きに出て仕事終わりにまた飲む。崩れることがなかった。家の中心には常に酒があった。食卓にも、話題にも、そして空気にも。僕はそれを見て育ったから、大人というのは酒と共に生きる粋狂な生き物なんだと自然に思っていた。

大学の新入生歓迎会で、僕は初めて酒の本当の力を知った。  
その夜、同級生たちは次々と潰れていった。顔を真っ赤にして机に突っ伏す奴、トイレに駆け込む奴、泣き上戸に変わる奴。それを横目に見ながら、僕はグラスを重ねていた。まるで自分だけが違う生き物のように。ああ、僕の肝臓はこんなにも強いのか、とその時初めて実感した。

僕も酒にのめり込んでいった。最初のうちは飲み会好きな明るいやつとして振る舞っていたけれど、もともと内向的な性格の僕には、それが次第にしんどくなってきた。酔っ払った勢いで話す冗談、空虚な笑い声、それがすべて面倒に思えた頃、僕は部屋にこもるようになった。そして一人で晩酌を始めた。

一人酒は、僕の性にぴったりだった。音楽を流しながら、安いウィスキーをストレートでちびちびやる。夜が更けるほどに、頭の中が静かになっていく。酩酊に引きずられていく思考の変化を観察するのが、僕の趣味になった。  
「今日はどこまで行けるだろう」なんて、旅に出るような気分でグラスを傾ける。部屋の中でただ一人、僕は自由だった。
酒ってのは、本来、人と人とが気持ちよくなるための潤滑油みたいなものだ。顔を付き合わせて、笑ったり、泣いたりしながら飲むのが正しい。それが、酒の筋だ。  
でも僕は、酒を睨みながら飲む。いや、もっと言えば、酒に睨まれながら飲む。だって、そこにしかたどり着けない場所があるからだ。アルコール耐性のない人間には絶対に届かない、酩酊の極地が。

僕の飲み方は、ただひたすらに続けることだ。ちびちびと飲み続ける。飲めなくなったら休む。そしてまた飲む。それを一晩繰り返す。頭の中のノイズが薄れて、耳鳴りがかすかに響き始める。全身の温度が急降下して、手足の感覚が消えていく。痛みがすべてなくなって、鈍くなった脳に小さな火が灯る。目玉が細かく震え、視界がゆらめく。目を閉じれば、暗闇の中で幾何学模様がちらつく。それは苦痛と幸福のちょうど中間点。急性アルコール中毒の一歩手前で、生と死の狭間に立っている感覚だ。僕はそこに、人間の覚醒を疑似体験する。

そんな全能感を求めて、酒は僕にとって実験になっていった。孤独な酩酊の旅だ。どこまで深く潜れるのか、自分の限界を試す。肝臓がどれだけ強くても、ダメージが積み重なっていくのは分かっている。それでも僕は飲む。滅びながら、何かに依存し続けること。孤独に生き、孤独に滅ぶ。それが、生き物として一番正しい在り方だと思っている。

今の社会は、ホワイト社会と言われるように極度にクリーンだ。汚れはすべて除菌され、危険は全て規制されていく。酒も例外じゃない。適量を嗜むのが正義で、アル中なんて存在するだけで忌避される。もはやこの社会に、僕みたいな人間の居場所はない。  
でも、それで僕という存在が消えるわけじゃない。 
 僕は酒を飲む。社会のルールや規範なんて、関係ない。ただ、酒の海を泳ぎ続けるだけだ。泳ぎながら、体中にアルコールを染み込ませていく。酔いが深まるごとに、現実が遠ざかり、世界の音が消えていく。僕は独りきりで、酒の海の底を目指している。  
いつかきっと、泳ぎ疲れる日が来るだろう。その時は、抵抗せずに飲まれるつもりだ。海底は暗くて、冷たくて、静かだろう。酒に溶けて、完全に自由になるんだ。社会の目も、誰かの声も届かない場所で、ただ自分の中の波に揺られながら消えていく。それでいい。それが僕の終着点だ。

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