君何処にか去る 第二章(1)
第二章 瞋恚
一
俊雄は、万化無明が二つのコップに酒を注ぐのを酔眼で見た。
(一升瓶がとうとう空になった)
俊雄は、無明の四分の一ほどしか呑んでいない。にもかかわらず、その酔い方は無明の三倍、否、それ以上である。
「わたしは酔った。おたくは強いな」
俊雄は立て続けに大きな欠伸をした。
「眠くなったか。ここで一眠りしてもらってかまわぬが、おたくの用事はどうする。あとにするか」
無明は、俊雄の訪問の目的を忘れていなかった。
「おたくの都合がよければ、一眠りのあとに」
俊雄はその場に倒れ込み、すぐに寝入った。夢のなかで尺八の音を聞いた。
(達者な吹き手だ。しかし、わたしは本当に尺八の音を聞いているのか。ここには、わたしと無明さんしかいない。わたしでなければ、無明さんが吹いていることになるが、もう一管尺八があったのだろうか。無明さんがわたしの尺八を無断で吹くはずがない。何が何だか判らぬな)
そのあとのことは覚えていない。目覚めると、卓の上は綺麗に片づけられていて、無明の姿はなかった。陽射しはすでに傾き出している。
(酔いつぶれたのは、二時半ぐらいだったろうか。ずいぶん眠ってしまったようだ。結局、尺八の音を聞いたのか幻聴だったのか、どちらだ。肝心の無明さんはどこへ行った)
ありがたいことに、深酒のあとの気分の悪さは大してなかった。俊雄は両手を広げて伸びをすると、立ち上がった。喉の渇きを覚えて、台所で水をがぶ飲みした。コップや小皿は、綺麗に洗い置かれてある。
(あの仁は、意外に綺麗好きだな。意外と言っては失礼か)
三和土には俊雄の靴だけが残され、無明の下駄はなかった。俊雄は外へ出て、
「おおい、無明さん」
と、呼んでみた。応えはない。函館の古刹を訪れて酒に酔って眠り込んだでは、仁和寺の法師になってしまう。俊雄はちょうどいい機会とばかり、龍仁寺の外回りを探索することにした。
崖の急階段は下りよりは恐くないが、それでも一歩一歩慎重に登った。渡り廊下で結ばれる本堂と庫裏は、扉や窓が開け放されている。日々、風を入れるのが無明の務めなのであろう。山中のことゆえ、境内は狭く、本堂や庫裏の規模は小さかった。
「みなさま、当寺の本堂は入母屋造平入、銅板葺きの構造で、ご本尊は釈迦如来座像でございます」
いまだアルコールが残るのか、俊雄はガイドの真似をしてみた。じつのところ、建築のことは何も知らない。線香の匂いが本堂の裏側から漂ってきた。そこは急傾斜地で、あたり一面が段々畑ならぬ段々墓地になっている。
「おおい、無明さん」
呼ぶと、応答があった。樹木が生い茂り、全体は見渡せないが、相当に広い墓地のようである。俊雄は、無明が寺男なりに仕事はたんとあると言った意味を理解した。無明が定期的に墓地を掃除するならば、高齢となった檀家は助かる。その報謝が米や野菜であり、無明はそれによって生かされていた。石段が滑りやすい。ずるっと滑っては、石ころが転がり落ちてゆく。
「俊雄さん、気をつけろ。儂もしょっちゅう滑って生傷だらけだ」
無明の声が近くでした。木々が邪魔して声はすれども、姿は見えない。俊雄は線香の匂いに案内されて、ようやく無明の姿を見出した。真新しい卒塔婆の前に頭を垂れていた。
「いやあ、冷や汗を掻いた。わたしが寝ている間も仕事かね。これだけの墓地を管理するとなると、大変だな」
「うむ。楽ではない」
「この卒塔婆は新しいようだが」
「儂とおたくの間を取り持ったのが鳴らない竹だ。その鳴らない竹の持ち主が、この男だった」
無明は卒塔婆を示した。俊雄は愕いて卒塔婆に見入った。
「上の文字は梵語か。その下は、元来大地無衆生と読むのかな。おたくが書いたのか」
「うむ」
「達筆だな」
「否。我流にすぎぬ。達筆と言われたのは、生まれてはじめてだ」
「おたくは何でもやると見える」
「生きるためだ」
「下の方は、喜多川道朋と読める……。戒名じゃないな」
「うむ。儂は、この人物が死んだか否かを知らぬ。喜多川道朋が本名か否かも知らぬ」
無明は再び合掌すると、帰り支度をはじめた。
「おいおい、無明さん。死んだか否かを知らぬのになにゆえの卒塔婆か」
「……」
無明は無言で歩き出す。問うても答えが返ってこないことは、すでに十二分に承知済みである。
「変人のことだ。放っておけばいずれ話すだろう」
「何か言ったか」
無明が振り返った。
「いいや。独り言だ」
俊雄は笑いを嚙み殺した。
二
無明は境内を横切った。崖下の庵に帰るふうではない。無明が山門で一息ついたので、俊雄も足をとめて眼下を見回した。
空も海も町並みも時の篩にかけられて、しっとりとした調和を創り出している。あらゆる景観が清々しい。無明に町並みやら建物やらの解説を求めたいところだが、諦めた。この変人はそういう世界に生きていない。
「行こう」
無明は早くも足早に急坂を下ってゆく。
「おいい、無明さん。どこへ行くのだ」
愕いて声をかける俊雄に、
「蹤いてこい」
と、変人は、俊雄の立場をまったく顧慮に入れない。まるで駆けるかのように下界へ一目散である。
「ちっ。あの男は、生まれた時代が異なれば、独裁者になっていたろうな。ヒットラーか、それ以上の」
俊雄は、さんざん毒舌を吐いた。それでも、無明は坂の下で待っていた。二人は肩を並べて娑婆に繰り出す。
「何週間かぶりだ」
無明の下駄が、昔懐かしい音を立てる。街なかには観光客がちらほら見える。いずれも若い女ばかりである。
「無明さん、ここは観光都市だな」
「そう言われている」
「そのせいか、ひときわ喫煙に寛大のようだ。道行く人のたいがいが煙草を吸っている。若い女たちが吸うのは、別に珍しくはないが……」
「北海道の人間はみな寛大だ」
無明は、俊雄の憤懣なぞ歯牙にもかけない。
「しかし、煙草は困る。他人の煙草で肺ガンになるのだけは、ごめん蒙る」
「他人の放射能漏れで白血病やガンになるのは、どうだ」
「おたくは原発のことを言っているのか」
「うむ」
「北海道にもあったな」
「ある」
「なるほど。そういう意味では、おたくが前に言ったとおり、世のなかは理不尽だらけだ。煙草から逃げられても、放射能からは逃げられぬ。勤めていたころ、煙草責めにあったことがあった。出張してある会議に参加したときのことだ。参加者が十一人。わたしを除く十人が煙草を吸った。会議が終わったときには、目が霞み、頭と喉が猛烈に痛んで、死にそうになった」
「儂ならば、そんな会議とは早々におさらばする」
「……」
俊雄は、恨めしそうに無明を視る。その無明が唐突に立ちどまった。八百屋の前である。
「儂は、豆腐と野菜があればいい。おたくは、おたくの好きなものを買え。儂は宿を提供する。おたくは食料を提供せよ。儂は一足先に帰る」
「待ってくれ、無明さん。わたしにおたくの庵に泊まれと言うのか」
「鳴らない竹の一件を聞きたくないのか」
「無明さん、おたくが柔道をやっていなかったら、二つ三つ殴っているところだ」
「儂は剣道も少しやる」
無明は平然としている。
「ちっ。この際、わたしの処世術を紹介しておこう。君子は危うきに近寄らずというのだ」
俊雄は大仰に舌打ちしてやった
「君子は豹変すとも言うな」
なかなか手強い相手である。俊雄はいささか自棄気味に、
「無明さん、ワインか日本酒か」
と、問ねた。
「儂は、おたくの好みに従う。ただし、ワインの白なら冷やしようがない。酒屋はこの先にある」
無明は、早く買ってこいとばかりに顎をしゃくると、いま来た道を引き返していった。下駄の音が軽やかである。
(そう言えば、冷蔵庫ってものがなかったな。テレビもエアコンも)
俊雄は、首を振り振り八百屋のなかへ入っていった。出来合いの総菜を買い、無明のために冷奴と野菜を買った。次いで酒屋へ行き、赤ワイン三本を買った。せめて一週間分くらいを買い置きしてやりたかったが、重い荷物を持って急坂を登ることを考えると、三本が限度であった。
俊雄はまたしても大汗を掻いた。風呂はないというので、外で躰を拭いた。酒盛りが再びはじまった。無明はワインを口に含むと、破顔一笑した。三本とも開けてしまいそうな気配が濃厚である。
「あれは、いつだったか、二、三年前のことだ」
案の定、無明は語り出した。
「ふむふむ」
俊雄は、相槌を打っていればいい。
「虚無僧が訪ねてきた」
「ほほう。いまどき珍しい」
「儂も内心駭いた。いかれた若い女が水着同然の恰好で現われて、目を丸くしたことがあったが、虚無僧は最初で最後だろうな」
「尺八の門付けをしながらか」
「それは知らぬ。あの男は一言も発しなかった。天蓋も脱がぬのだ」
「虚無僧の天蓋とはそんなものだと聞いた。結局、どんな男か知らずじまいか」
「うむ。儂以上の世捨て人だった。終の栖すらないのだからな」
「その虚無僧が喜多川道朋か」
「うむ」
「なにゆえ、道朋が幽明境を異にしたと断ずるのだ」
「虚無僧と言えば、尺八だ。それを置いていったからには、ある種の覚悟があったとみるべきだろう。追善供養は儂の謝意だ」
「解らぬな。死んだとは限るまい。それに、なにゆえ尺八を置いていった」
「儂を餓死から救おうとしたのだろう。尺八を売れと。実際、金になった。おたくがいくら支払ったかは知らぬが」
「ところで、おたくは尺八をやるのか」
「ほんの少し。経験は三年余だ」
「この竹は鳴ったのか」
俊雄は、持参した鳴らない竹を取り出した。
「少しはな」
無明は苦笑いを泛かべると、かつてのおのれの竹に見入った。
三
ワインのボトルが空になった。俊雄は、躊躇わずに二本目を開ける。無明は遠慮して、自分からは開けようとしない。俊雄は、無明の差し出すコップが綺麗に空になっているのを見て、
(この男が途中でとまるわけがないな)
と、妙に納得した。
「喜多川道朋の音はどうだった」
「すごい音色だった。道朋が世を捨てなかったら高名になったかもしれぬ」
「この竹はそれほど鳴るのか。わたしが悪戦苦闘して、ついに鳴らなかったというのに。半ば諦めていたのだが、諦めるには早かったということだな。しかし、どうすれば鳴るのだ。道朋の音色を聞けば、あるいは突破口を見出せたかもしれないが、いまとなっては叶わぬ話だ」
俊雄は真底、無念であった。無明は黙り込んで宙を瞶めている。俊雄は、無明と道朋がいかなる遣り取りを交わしたのかを想像してみた。が、どうにも形にならない。
(道朋が一言も口をきかなかったというからには、以心伝心か)
「おたくは、前に道朋と会ったことはないのか。つまり、道朋らしき人物に」
「ない」
「おのれの死期を覚って、おたくに会いにきたかもしれぬ。そんな話がよくあるじゃないか」
「儂には友は一人しかおらぬ」
「きっとその友だ」
「まさか。別れてから三十年余も経つ。あれ以来、会ったことはないのだ。儂は一所不住。儂の居所をいかにして知る。しかも、その友も行方知れず」
「道朋の躰つきがその友と似ていたとか、何かないのか」
「ない。いま、その友が名乗り出たとしても、儂には見分けがつかぬだろう。凜として男らしいやつだった。しかし、この歳になるまで、心身ともに昔の良質を保っているなぞ、あり得ぬな」
「おたくは、道朋とどういう別れ方をしたのだ」
「別れ方も何も、目が覚めたらもういなかった。尺八が儂の枕元に置かれていた。喜多川道朋と書かれた小さな紙切れと一緒にな。それだけだ」
「道朋をすぐに捜したのか」
「否」
「なぜ」
「捜してどうする」
「それもそうだな。ところで、道朋のことはしばらく措くとして、わたしの方は、遠路はるばる来た甲斐があった」
俊雄は話題を変えた。無明に当該の友のことを話させるには、その気になるまで捨て置くに限ると。
「再度チャレンジする気になったのだな」
「そういうことだ。理由は三つ。一つに、鳴らない竹はじつは鳴る。二つに、証人がいる。おたくだ。三つに、鳴らない竹はいまわたしの手元にある。ゆえに、わたしは……」
「稽古を再開して鳴らせてみよう、と相成る」
「そのとおり。名古屋に帰ったのち、いま一度、真剣にこの竹に向かい合うつもりだ」
「珍重。道朋のような哀切極まりない音色を奏でてくれ」
「うむ。必ずやそうするとも」
俊雄が決意のほどを吐露すると、無明はほんのわずかながら笑みを見せた。