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「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第四章(1)

第四章 さらに西へ
 

 
 少年は、秘密の場所三つに仕掛けた罠の見回りに遠出した。馬で半日もかかるが、罠に掛かったウサギが、背を丸めて全身をさらす姿を見つけると、馬に乗りづめの苦しさなぞ、吹き飛んでしまう。
 その日も二ヵ所で獲物を二匹手に入れた。少年は袋に無造作に放り込むと、思わず拳を振り上げ、
「やったぞ」
 と、叫んだ。残る一ヵ所はさらに遠い。そこは少年の部族の縄張りのはずれに近かった。少年はそのあたりで、異民族の男たちが馬で駆けてゆく姿をしばしば見かけた。総じて髪の色が黄色がかっていて、白い肌をしている。
はじめて目にしたとき、さすがに驚いて逃げ帰った。が、二度、三度になると慣れて、様子を窺うまでになった。その人々の大声で交わす話の中身は、さっぱり解らなかった。そういったとき、少年はいつも聞き耳を立てる。すでに数年前から異なる言語を耳にし たら、一語でも二語でも憶え、それらを自分たちの言葉に置き換えるように努めてきた。
 これには、特殊な事情があった。
「ずっと大昔のことだ。わしらの先祖になんじの名ジュアールと同じ名の大変に偉い人がいた。儂らの先祖の部族長だった。その部族が敵に攻められて大敗を喫し、食糧も乏しくなって滅亡の危機に陥ったとき、その先祖を率いて故郷の地を離れ、新天地を探す旅に出た。儂らがいまこの地で生きていけるのは、その偉い人のおかげだ。その人は自分の務めの傍ら、妻には多言語を操れるようになれと常々命じたそうな。それ以来、儂らの家系は、他の言語と出合ったならば、それと格闘して理解することが仕事となった。戦士が馬と弓矢で戦うように、儂らは舌と頭で闘うのだ」
 少年の父はよくそう説いた。少年の母も、
「わたしたちの家系では、男の子が生まれたらジュアール、女の子が生まれたらリンと名づけるように決まっているの。次の男の子が生まれたらキルーク。次の女の子が生まれたらボルテ。そのあとは特に決まっていないわ。リンはきっとその偉い人の母君か令室だったのでしょう。キルークとボルテが何者なのかは伝わっていないわ」
 と言って少年を励ました。
 少年はこれらを聞いて、父がキルークという名ゆえ、次男に生まれたのだなと覚った。しかしながら、少年に伯父はいなかった。戦闘や事故、病や怪我、それに飢餓のため、少年の周りでは、人は若くしてよくった。伯父の不在も、そのいずれかによるものに違いなかった。
 少年は異民族の人間に関心を持ち、それゆえ危うい場面に遭遇しても、ぎりぎりになるまで逃げないのを常とした。
 さて、この日も、馬を駆る黄色の髪の男たちがいた。そのうちの一騎がジュアールに気がついて、駆け寄ってきた。ジュアールは怯えたものの、逃げの姿勢を取らなかった。
 男は何事かを叫んだ。さっぱり解らない。ジュアールは大きな声で、
「ここは、ぼくたちの土地だ」
 と、叫び返した。
 会話は成立しないが、態度を曖昧にしていると、つけ込まれる。前にも獲物を横取りされそうになったことがあった。
 相手の男は自分の鞍に引っかけた獣を指さし、おまえの鞍の袋のなかの獲物を寄越せといった仕種をした。
 ジュアールは、弓を素早く手にして矢をつがえると、
「これはぼくのものだ。だれにもやらない」
 と、叫んだ。
 相手の男は、苦笑しながらなおも近寄ってくる。ジュアールは迷うことなく射た。男の頬を掠めた。わざと外して警告した。
 男は怒り、剣を抜いて高く掲げた。ジュアールは二の矢を番えた。
 このとき、仲間から声がかかった。男はジュアールを指さし、何事かを仲間にぶちまけた。が、結局、説得され、ジュアールに向かって唾を吐くと、四、五歩、馬を後退させ、馬首を巡らせた。
 ジュアールは、矢を番えたまま見送った。こういう場面に否応なく引き出されると、どう切り抜けるかでせいいっぱいとなって、恐怖感は消えてしまう。
 ジュアールは、自分の身を守るための手段を父に教え込まれている。さらに、相手方に本当に襲う気があるのか否かは、顔色で判る。相手がひとたび真剣になったとき、ジュアールはいささかの躊躇もなくげる。いまの場合、黄毛の男に害意は感じられなかった。
 ジュアールは連中が戻ってこないことを確かめると、仕掛けた罠のところへ向かった。ここにも獲物がいた。
「三ヵ所で三匹」
 ジュアールは大猟に快哉を叫んだ。近寄ると、ウサギは恐怖の鳴き声を立てて、逃げようと必死でもがいた。
 ジュアールが、かまわずウサギを手摑みにしようとしたとき、何かが視界をよぎった。ジュアールは、はっとして地に伏せた。
(やつらか。しかし、あの男たちが駆け去ったのは見た。すると、ウサギを狙う獣か)
  もし、獰猛な獣ならば、厄介なことになる。獣の俊敏さにはとうてい勝ち目はない。一矢を外すと、まず助からない。
 ジュアールは大地に横になると、矢頃やごろを測りつつ、獣の潜んでいる物陰を注視した。
 動きはない。が、青色の紐のようなものが顔を出している。
( 獣ではなさそうだ。やつらにはまだ仲間がいたのだ)
 ジュアールは、いくぶん恐怖から解放された。相手の出方を待つ。こうなると根比べである。
 長いときが経った。気配を感じて、大地に耳をあてた。馬の駆け寄る音が響いてきた。
( まずい。隠れているやつの仲間に違いない)
 ジュアールは退却しようと、後ろに下がりはじめた。
「リン」
 甲高い声が飛んできた。大人の声とも思われない。
 すると、まさに脱兎の勢いで小さな女の子が飛び出し、声の方角へ走った。
 ジュアールが呆気にとられて見ていると、灌木の根に蹴躓き、顔から地面に突っ伏した。ジュアールは慌てて起き上がると、駆け寄った。
 女の子は土に塗れた額から血を流し、両の手のひらにも血が滲んでいた。
ジュアールは腰につけた水筒を外し、女の子の傷口を洗い、布きれを当てた。
「大した怪我じゃないよ」
 と言ってみたももの、解るまいと思った。ところが、女の子は、
「タッキ」
 と、答えた。
 ジュアールが、アラン族( イラン系。奄蔡えんさい阿蘭あらんとも) の言葉で最初に憶えたのが、この語であった。あとで、ありがとうの意と知った。
 ジュアールの部族の隣りには、遊牧の民アラン族がいる。ジュアールとやり合った黄色の髪の男たちが、そのアラン族であった。肉と乳を常食とし、こよなく馬を愛する民族と聞いていた。
 牧草を求めて回遊するらしく、四輪の荷車を円形に配して適度な集団を構成し、それらが集まって臨時の聚落しゅうらくをつくった。 家畜が草を食べ尽くすと、 聚落そのものを移す。 ジュアールたちフン族の習慣によく似ており、違うのは人種としての外観であった。
 このとき、早駆けの馬が飛び込んできた。乗り手は、ジュアールと同じくらいの少年で、馬を巧みに御した。
 ジュアールは、一瞥いちべつして少年の武器が短剣一つであることを見て取った。しかも、馬上の少年は血の気を失って震えている。
 女の子は健気にも立ち上がると、馬上に向かって何かを叫んだ。ジュアールを何度も指さす。そのやり取りから、ジュアールは、少女がジュアールに助けてもらったことを説いているのだなと判断した。
 馬上の少年は合点がいったらしく、大きく頷くと、馬から下りた。近寄ってくると、右腕を掲げ、自分の左手でジュアールの右腕を取って、自分の右腕にからませた。どうやら親愛の情の表現らしい。
「タッキ」
 と言うので、ジュアールもタッキと返すと、少年も少女も笑った。
 三人はすっかり打ち解けた。しばらくは、互いの身の上をああだこうだと言い合った。八、九割は解らない。しかし、解ることもあった。
 事実、笑い興じたりもした。少年と少女の名はゴットフリットとリン。兄と妹であった。ジュアールはリンと聞いて、口をあんぐりと開けたまま少女を見たものである。自分たちの氏族内でリンがどれほど大切な名であるかをいつの日か話せるようにと、これ以降、ジュアールはアラン族の言葉の習熟に懸命になった。
 

 
 三人の意思疎通がかなり進んだ段階で振り返るならば、三人の出会いは次のごとくであったらしい。
 リンは、両民族の領地の境界あたりでウサギを追いかけて遊んでいた。そのウサギが北匈奴領内に入り込み、ジュアールの秘密の罠に掛かってしまった。
 リンが、ウサギを何とか逃がしてやろうと躍起になっていたとき、リンの一族の男たちを追い出したジュアールがやって来た。蒼くなったリンは、すぐさま物陰に飛び込んでふるえていた。
 一方、ゴットフリットは一族の者たちと帰路に就いたが、やがてリンがいないことに気づき、慌てて引き返してき、ジュアールと遭遇したのであった。
 ゴットフリットは、自分の一族の男たちに対して、一人で立ち向かったジュアールの勇気に感銘を受けたから、ジュアールへの敵対心は微塵もなく、友好的な態度でジュアールに接した。このため、両人の友情は速やかに育った。
 そのとき、
「なんて勇敢な子かと感心したんだよ。おれも見習わなくっちゃ」
 と、ゴットフリットは言った。
「ウサギが可哀想だから、これからウサギをらないでね」
 と、リンは言った。
 後年、ジュアールは、兄は兄らしい、妹は妹らしい二人の言葉を懐かしく思い出した。三人は境界付近でたまに会い、遊ぶようになった。ゴットフリットは、自分たちの出自について、
「おれたちアラン族の先祖は、北の海( バルト海) を渡ってやって来たらしい。そんな言い伝えがある」
 と、言った。
「じゃあ、海の民なんだね」
 ジュアールはそう答えたものの、じつは海を見たことがない。
「そうではないよ。おれたちは、海とは全然縁がないもの」
 と、ゴットフリット。
「その言い伝えはゴート族のことで、わたしたちとは関係ないって、だれかが言ってたよ」
 リンも口を出した。
「ゴートって」
 ジュアールは、自分が外の世界について無知であったことを痛感させられた。
「おれたちの領地の西隣りに紅毛こうもう碧眼へきがんの獰猛なやつらがいるのだ。それがゴート族さ」
 ゴットフリットは言いながら身震いした。
「よほど恐い連中なんだね」
 ジュアールも聞いているだけで、背筋が寒くなってきた。
(それにしても、いったい、自分たちはどこから来たのだろう)
 ジュアールは気になって、あとで父に訊ねたが判然としなかった。氏族の長ゴリークの息子に聞いても、
「先祖に、おれの親父によく似た名のゴリクという傑物がいたそうだ。知ってるのはそれだけさ」
と、心許ない。身近に古いことを知る者はおらず、ジュアールはその解を諦めるしかなかった。
 夏の一日いちにち、三人は海を見ようと遠出した。川の流れに沿って下っていけば、否応なく海に出られるという。海を見たことのないジュアールは、興味津々であった。
 とは言え、ゴットフリットとリンが、海なるものがいかに大きいかを説いても、ジュアールの想像は沼地を三、四倍するほどの域にしか達しなかった。
 三人は笑い転げながらの旅をしばし続けた。が、ジュアールがそれとなくリンをいたわっても、リンには過酷な道のりであった。
「ゴットフリット、リンが疲れたようだ」
「おれも疲れたよ。女の子には無理だったかな。ここまで来て、引き返すのはしゃくだけど、リンに一人で帰れと言えば泣くだけだし、どうしようか」
 ゴットフリットは、ちらりとリンの様子を窺った。
「ここらで一休みして、そのあと引き返そう」
 ジュアールは判りきったことをと、あっさり中止を提案した。
「ううむ。残念ながら諦めるとするか。海が見える地点まで、まだまだありそうだ」
 ゴットフリットは、未練がましい口調になった。リンは、
「ちっとも疲れてないよ」
 と、口をとがらせた。されど、内心喜んでいるのは見え見えで、三人は休息をたっぷり取った。
 帰路、馬をのんびりと歩ませた。リンは馬上で居眠りし、ジュアールはリンが転げ落ちないように見張らねばならなかった。
 ジュアールは長じてからも、三人で挑戦した旅のことをときに思い出した。
(あれは、無謀な企てだった。しかし、愉快な旅だった)
 と。
 数ヵ月後、ジュアールは、一人でこの中断の旅の続きに挑んだ。海を目にするまで五日間も要した。どうしても海を見たかったのである。
 その一人旅が終わりに近づいたころ、道が先細りとなり、聞き慣れぬ水の奏でる壮大な音楽が左右から聞こえるようになった。ジュアールは、
「あの音はどこから来るのか。あれが海の音なのか」
 と、聞き惚れた。
 巨大と言われる水の広がりは、しかしながら、なかなか姿を現わさなかった。道はますます細くなり、前方は藪で覆われて行き止まりの気配が濃かった。
 隙間から覗くと、その先に沼地らしきものが見えた。
 ふいに愛馬がいななく。 と、 藪のなかで音がした。 見事な角をつけた鹿がこちらを見て驚き、逃げようとして立てた音であった。
 ジュアールは、男鹿に導かれる形で強引に馬を乗り入れた。鹿は素早く姿を消した。
 慎重に跡を追うと、沼地と思われた水面みなもがいきなり海に変貌した。
「こ、これは… … 」
 ジュアールは、 その巨大さに息を呑んだ。 前方は海( ケルチ海峡 )、 左も海( 黒海 )、右も海( アゾフ海)。想像を絶する無限の水の広がりが眼前にあった。
 いずれの海も、紺青の海面がさんとして輝き、白い波頭が幾重にも列をなして、目に入るあらゆる光景を黄金色と群青色と白色で蔽っていた。
「これが、海なのか」
 思わず声が出た。海の彼方に陸地らしきものが見える。ジュアールは、あまりの眩しさに目を細めた。
「間違いない。対岸に陸地がある」
 氏族のだれもが知らない新鮮な発見であった。自分たちの領地の西は沼地で遮られていると言い伝えられてきたのである。
(ところで、あの男鹿はどこへ行ったのか)
 その姿は周囲のどこにも見えなかった。忽然として虚空に消えたかのようである。
(この海峡を泳いで渡ったのか。それとも、だれも知らぬ道が対岸へ続いているのか。しかし、それはどこに……)
 ジュアールは首を捻った。どのように目を凝らしても、男鹿の姿を再び見ることはかなわなかった。
 結局、謎はその場では解けなかったが、どこかに道があるとする考えがジュアールの脳裏に刻み込まれた。
 ジュアールは、自分の発見をだれにも話さなかった。あの海の対岸に陸地があったとしても、そこへの知られざる道を見出さない限り、いくら手を伸ばしても届かない木の枝にたわわに稔る果実と同じだからである。
 五年余後、ジュアールは、
(あのとき、海を見ておいてよかった)
 と述懐する場面に遭遇する。その意味で、運命的なたった一人の探検行であった。


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