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君何処にか去る 第七章(1)

第七章 土佐中村


 
 停電の原因究明が手間取って、工場のライン復旧まで二時間もかかった。後続の仕事にしわ寄せがきて、虎之助のトラックが松山の工場を出たのが、いつもより四時間も遅かった。
 国道四四一を走り、愛媛・高知の県境を越えたときには、すでに午後九時をすぎていた。同国道は、愛媛県の大洲おおず市と高知県中村市(現四万十しまんと市)を結ぶ延長一一〇キロ余のいわゆる三桁道路である。山間部を走ったり市街地を走ったり、二車線になったり一車線になったりと、これが国道かと首を傾げたくなるほど、良く言えば変化に富み、悪く言えば種々雑多の寄せ集めである。
 高知県に入ると、清流四万十川を眺めながらの走行になる。が、この日はその楽しみを奪われた。周囲は闇におおわれ一瞬の気の緩みで崖下へ真っ逆様になりかねない。頼りは車のライトばかり。虎之助はひたすら前方注視の運転を心掛けた。
(子どもたちはそろそろ寝入ったころだろう。今日はいい日じゃなかった)
 虎之助の楽しみは、子どもと遊ぶことに尽きる。妻は三人目の子どもを産み落とすと、力尽きた。三十歳をすぎたばかりであった。虎之助は妻が可哀想でならない。残された三人の子どものために、おのれの悲嘆を心の奥底に封じ込めた。母が健在なうえ、幸いにというか出戻りの妹もいる。当座の困難はしのげた。いまでは妹が子どもたちの母親役を無難にこなしている。
 妻の死から早くも三年余。再婚話が二つ、三つあったけれども、みな断った。それとなく聞いても、子どもたちは新しい母親なんぞ断乎として拒絶する。妹が再婚することになったらそのときにでも考えようと、おのれの再婚の件は先送りにしている。ラジオのボタンに手を伸ばしたとき、前方左手の路肩に人影を見た。人が歩いているような場所でもなければ、時刻でもない。
「おいおい。まさか、怖いのが出たんじゃなかろうな」
 虎之助は背筋が寒くなった。トラックを右に大きく振ってやり過ごそうとした。と、人影がばたりと前のめりに倒れた。
「冗談じゃないよ。おれがいたみたいじゃないか」
 虎之助は急停車した。助手席に躰を移して下を見る。道の左端に人影が蠢いていた。
(おれが車を降りて近づく。すると、やつはナイフをかざす。おれを脅して金を巻き上げ、ついでにトラックをさらって去ってゆく。取り残されたおれはどうなる)
 虎之助は迷った。このまま行ってしまえばいいのだが、本当に困っていたら見殺ししたことになって、虎之助の男が泣く。
「おおい。どうした。足でも挫いたか」
 大きな声で上から呼びかけた。それが耳に入ったのか、人影は起き上がろうとしてもがいた。だが、また倒れ込む。
「あれが演技とは思えぬな。どうする。ええい、ままよ」
 呟くと、トラックを降りてうめく人影に近づく。
「おい、どうした。大丈夫か」
 人影が動いた。鼻を突く臭いがした。よほど吐いたらしい。ナイフによる強盗の疑いは消えた。
「どうやら食あたりらしいな」
 虎之助は抱え起こそうとして、男の背中のリュックサックを外した。
(歩き遍路か……。この方角ならば、第三十八番蹉跎山さだざん金剛福寺こんごうふくじ足摺岬あしずりみさきにある。滅法遠いが)
 虎之助は男の手に触れて、その熱さに吃驚びっくりした。額も火のように熱かった。状況が呑み込めると、虎之助は手際よく動いた。五分も経たぬうちに、虎之助はトラックを猛スピードで飛ばしていた。助手席の男は躰を丸めて横臥している。よほど苦しいらしく呻き声のやむことがない。
 虎之助は、自宅近くの瀬田医院をたたき起こした。午後十時をゆうに過ぎていた。瀬田医師とは懇意にしている。子どもが三人もいれば、たえずだれかが瀬田医院にかかる。おまけに自分の子どもと瀬田医師の孫とは遊び仲間である。子どもとよく遊ぶ虎之助は、瀬田医師の孫とも遊び仲間であった。
「先生、急患だ。早く開けてくれ」
 呼び鈴を鳴らしても起きる気配がない。虎之助は、瀬田医院のドアを力任せにたたいた。ドアが開いて老齢の瀬田医師が顔を覗かせる。
「おまえさん、無茶しなさんな。ドアが壊れる。儂はもう寝ておったのだ」
 瀬田医師は温厚である。怒ったことがない。手酷く殴られたドアを盛んに気にしている。
「先生、明かりがまだついていましたぜ」
「ちょうど明かりを消そうとしていたところだった」
「じゃあ、寝ていない」
「虎之助君、つかぬことを伺うが、横になっていたことを寝ておったとは言わぬのか」
 虎之助は、たしなめられても痛痒を感じない。
「先生、急患なんで」
 と、大きな声を出す。
「最前から不思議に思っていた。その急患はどこにおるのだ」
 虎之助は瀬田医師との掛け合いを打ち切り、トラックへと走る。男に肩を貸し、無理矢理歩かせた。診察室へ運び入れたところで、虎之助の燃料が切れた。待合室のソファの上に引っ繰り返る。瀬田夫人はよく気のつく人である。すぐに電話を入れたのであろう。妹の静子が慌てて駆けつけた。
「まあ、兄さん。どうしたの。どこが悪いの。いよいよあっちへ逝ってしまうのね。先生、AEDを早く。兄は鈍い人ですから、ひょっとしたらまだ間に合うかもしれません」
 静子が虎之助の胸をぐいぐい揺さぶる。
「静子君、つかぬことを伺うが、ソファに寝ていたからといって、おれが死なねばならぬ理由があるのかね」
 虎之助は、先ほどの瀬田医師の口調を真似る。
「まあ、こちらが心配しているのに」
「痛っ」
 思い切り抓られて、虎之助は悲鳴を上げた。
「何とも騒々しい人たちだね」
 白衣を着た瀬田医師がいつの間にか傍らに立っている。
「先生、ちゃんと診て下さいよ。相手はひょっとしたらお陀仏ですぜ」
「ちゃんと診たよ」
「えっ。だってせいぜい五、六分しか経ってませんぜ」
「虎之助君、つかぬことを伺うが」
「瀬田先生、つかぬことを伺いますが、あの男は大丈夫なんですかい」
 虎之助は先手を打った。
「うむ。診るまでもない。あの仁は、ノロウィルスにやられたようだ」
「何です。そのノロウィルスってのは」
「伝染性の極めて強力なウィルスでな。腹痛、吐き気、嘔吐、下痢、高熱等々の症状が出る。どんぴしゃりの症状だ。儂の診立てが外れたら儂の首をやる」
「先生の皺だらけの首をもらっても、扱いに困るだけですぜ。で、何が原因ですかい」
「それは判らぬ。冬季、カキによる食中毒がよく起きるが、あの悪さをするのがノロウィルスだ。経口感染するから、もとを突きとめるのはけっこう難しい。だれかのを拾ったか、汚染された生水を飲んだか……」
「経口感染というからには、いずれこの場の者は全滅ですかい」
「おそらく。虎之助君が一番危うい。あの仁にずいぶん接触したからな」
「先生はどうなんですかい」
「儂か。儂は慣れておる」
 瀬田医師は注意事項をいくつか並べると、一同を無理矢理、家の外へ押し出した。舌打ちする虎之助の後ろで、施錠する音が聞こえた。虎之助は男を妹に託すると、自分は納品のため深夜の街にトラックを走らせた。


 
 その夜、帰宅したのが午前一時をすぎていた。静子が起きてきて無念むねんが離れで寝ていることを告げた。男は無念と名乗ったという。
「変な名だな。坊主か。姓は」
「忘れたそうです」
「忘れただって。ちっ」
 虎之助はさほど奇異にも感じない。トラック稼業をしていると、毎日のように変なやつに会う。それに歩き遍路のなかには過去を葬り去った者が多い。無念もその一人か、と大して気にもとめない。
 それから四日経った。臨戦態勢が解けて日常の生活が戻った。虎之助をはじめ、家族の者全員が無事だった。発症しなかったのである。と言うのも、無念を離れに厳重に隔離したからで、世話をした静子は感染を覚悟していたらしいが、結局、静子も感染を免れた。
「瀬田先生、どうして静子のやつは、急性胃腸炎を起こさなかったんですかい」
「虎之助君、妹さんをどうしても病人にしたいのかね。ああいう人柄の女性には、神が恩寵を垂れ給うのだ。ごく自然なことだと思うがね」
「先生、おれも無事でしたぜ」
「おまえさんの場合は、ノロウィルスの方が惧れをなしたのじゃよ。虎には敵わんとな。はっはっは」
 虎之助はあっさりはぐらかされて、食えぬ爺さんだと心中に毒づいた。虎之助の家は広い。極めて広い。もと、市会議員をしていた何某の屋敷だった。本人がやくざだったか否かは定かでないが、やくざの抗争に巻き込まれて夜逃げした。
 当該屋敷の権利関係は紆余曲折ののち、虎之助の所有に帰した。端的に言うならば、裁判所によって競売に付されたその屋敷を虎之助が落札したのである。虎之助がなにゆえ落札できたかと言えば、だれもが後難を懼れて入札を躊躇ためらったからで、虎之助がなにゆえ競売を知ったかと言えば、納品先の工場の人たちが噂していたからである。虎之助は時価の半値以下で大きな屋敷を手に入れた。
 たしかに買い得ではあった。その代わり後難はあった。深更、銃弾を撃ち込まれたのである。たまたま、暴走族の立てるやかましい排気音と拳銃の発射音とが重なったらしく、だれもその事実に気づかなかった。朝になって、虎之助自身が玄関ドアに穴の開いているのを発見した。虎之助は放っておいた。警察を呼ぶと家族が恐がる。もう一発撃ち込まれたならば、そのとき考えようと。
 一日延ばしに延ばしていたところ、それ以上の嫌がらせはなかった。そんなわけで、虎之助と家族は家の半分も使用していない。家の広さが、無念という男を厳重に隔離するのに大いに貢献した。
 尤も、いくら広くても音は伝わる。雨の日曜日、虎之助は子どもたちと卓球を楽しんだ。襖を取り除くと、卓球台を置ける広さになる。雨の日はもっぱら卓球か相撲かで遊ぶ。瀬田医師の孫がやって来るのも、毎度のことである。
 わいわいやっていると、突如、その音が鳴り響いた。心に染み入る哀切な音と悲痛な旋律に子どもたちの動きがぴたりとやみ、みなが聞き惚れた。
「お父さん、あれって何なの」
「フルートかな」
 と、虎之助。
「何言ってんのよ」
 静子が言下に否定した。
「じゃ、何だ」
「尺八よ」
「春の海のあれかい。いい音だなあ」
 虎之助はいつも騒音のなかで暮らしている。その澄み切った音に心が洗われる思いがした。
「尺八って、もともと音そのものが出にくいのよ。無念さんは、ひょっとしたら人間国宝級の名人かもしれなくってよ」
 静子は、無念についてなら何でも知っているとばかりに自信満々の口調である。
「さては、おまえは無念さんの尺八を見たんだな」
発覚ばれたか」
 静子がわざと蓮っ葉な調子で答えた。
「おまえは無念さんの世話係だから、ほかにもいろいろ奴さんのことを仕入れたろうが。教えろ」
 ノロウィルスを懼れて、静子以外はいまだだれも無念に接触していない。
「それがね、兄さん。ゼロなの。あの人、自分のことは何も言わないわ」
「おまえに言ったって無駄だよ」
「どうして」
「風来坊ってのは去ってゆくのが宿命だ。シェーンも荒野の用心棒も去っていったろうが」
「あの人も行ってしまうのかしら」
「そりゃあ、回復したら行ってしまうだろう。惚れるなよ。風来坊を定住させるのは、おまえにナマコを食べさせるよりも難しい」
 静子はナマコが大嫌いである。
「別に惚れてないわ。でも、あれだけ美しい音を出せるのだもの、悪い人じゃないと思うのよね」
「お父さん、無念さんのところに行ってもいいかなあ」
 長男が乗り気になった。一般に総領の甚六と揶揄されるが、虎之助の長男は二男、三男よりもずっと積極的である。
「駄目よ。あと二日待って。そうしたら、嫌でも無念さんをお披露目するわ」
「何だか、静子おばさん、楽しそうだね」
 長男がませた口をきいた。静子は顔をあからめた。


 
 無念は、金の支払いに関してはきれいだった。瀬田医院への支払いもきっちりすませた。虎之助から受けた援助に対しても、金銭で支払うと言ってきかない。
「無念さんよ、無理しなさんな。離れはどうせ空いているんだし、食費といっても、おたくの食べる分ぐらい知れてるぜ」
 虎之助がいくら言っても、無念は引かない。あれこれ言い合っているうちに、無念が格安の値段で、虎之助の古家に多少のリフォームを施すことに話が決まった。
「おたくにそんな特技があるとはな。もとは大工かね」
「いまでも現役かな。それに水道、下水、電気、塗装、左官、庭木の剪定など、たいがいはこなす」
「まあ、重宝な人。料理はどうかしら」
「静子君、つかぬことを伺うが、無念さんが料理の達人だったとしたら何とする」
「あらっ、この家の大食漢はどなた。新たなメニューが増えて一番喜ぶのは、どなたかしら」
「なるほど。で、無念さん。料理の腕はどんなだ」
「ちょうど、虎之助さんのレベルと同じか、あるいはちょっと上か」
 無念の当意即妙な答えを聞いて、静子は吹き出した。
「するってえと、おたくも玉子焼きしか作れないんだな」
「兄さん、正確には玉子焼きもどきと言うべきでは。焦げてしまって半分以上は捨てるんですから」
 虎之助は、無念を前にすると妙に生彩のある静子にある種の痛ましさを感じる。
「ま、無念さん。女や子どものことはしばらく脇においてだ。この家は築後三十年。もっと経ってるかな。もとは立派な屋敷だが、いまじゃ雨漏りはするし、至る所が傷んでいる。これを雨が漏らぬ程度に修繕してもらえるなら、こんなありがたい話はない。しかし、おれの月給じゃあ、大して出せそうもないぜ」
「わたしも儲けるつもりはない。修繕の手間賃と、わたしの支払うべき家賃と食費を相殺してもらえれば、御の字だ。ただし、材料費だけはそちら持ちということで」
 虎之助の見るところ、無念という男は誠実そうである。口約束ながら契約は成立した。
「おたくはいつ、どのようにして、そんな広範囲に仕事を覚えたのかね。おれなんざあ、トラックを運転するだけで手一杯だぜ」
 虎之助は、自分よりも年上であろう風来坊に親しみを覚える。
「生きるためにいつの間にか。過疎地なんかでは、水回りの工事しかできないでは、通用しない。何でもこなさないと。わたしは、これで重機なんかも動かせる。いわゆる資格はないけれど、そこは、資格所持者の下で働く形をとれば、大して問題はない」
 ふと、無念は自分の手を眺めた。細い華奢な指をしている。虎之助の目にも、尺八を演奏する繊細な指と屋外での力仕事とが不釣り合いに映った。静子もまた自分の手を眺める。
(あいつの手は、日々の水仕事のため滑らかさを失って久しい。迷惑のかけっぱなしだ)
 さすがの虎之助にもすまないという気持ちがある。
「無念さんの能力ならば、いくらでも資格は取れるでしょうに」
 静子が口を挟む。
「一所不住ゆえ、そもそも受験票を受け取ることが難しい」
「じゃあ、ここでしばらく暮らして、その間にお取りになったら」
 静子は冗談めかして言ったものの、内心は真剣のようである。
「昔、同じようなことを言われた。娘をやるから一緒に仕事せんかと」
「どうなりましたの」
「君子は危うきに近寄らず」
「まあ。逃げたんですの」
「そういう話はいつしか舞い込まないようになって、十数年……」
 諦念に満ちた無念の口調である。
(おれが、スピードを出しすぎてカーブを曲がりきれずに道路の外へ飛び出すようなものだ。この男も既定のコースから外れ、どんどん常識の外へ飛び出していったのだろうな。そうなると、もとには絶対に戻れない)
 虎之助は、一所不住の男の一所不住にならざるを得ない心のうちを思う。
「おたくは旅を続けながら、そういった仕事で食いつないでいるのだな。実入りは悪くなさそうだが、仕事にありつけないこともあるだろう。そんなときはどうする」
「家というものは十五年も経てば、どこかに綻びが出る。高温多湿のこの国では、木造建築はこの宿命を免れない。ゆえに、田舎回りをすれば、仕事にありつける。汚い仕事であればあるほど、わたしのような者にも出番がある。だから、躰が動くうちは生きていける」
「そんなものかね。じゃあ、躰が動かなくなったら困るじゃないか」
「まあ、兄さんったら。そんな立ち入ったことを」
 静子が兄をたしなめる。
「わたしのような者は、明日のことを思わず、昨日のことを振り返らず、その日その日を生きる。かの良寛さんに、捨てし身を いかにと問はばひさかたの 雨ふらばふれ 風ふかば吹け という歌がある。わたしもそうありたいと思っている」
「愕いた。無念さんは学があるんだな」
「わたしの知識なんか、各地の図書館で蓄えた雑多なものにすぎない」
 無念は苦渋の面持ちである。
「無念さんの人生って、寂しすぎませんか」
 静子が問いかけた。同情の思いを隠そうともしない。
(妹よ、惚れるなと言ったろうが。風来坊は去ってゆく。これだけは間違いない)
 虎之助は無念と静子の顔を交互に見る。
「寂しいとか寂しくないとかの時期はとうの昔にすぎて、一日働き、手を見る。そんな暮らしに慣れて何年になるか」
「ちょいと話が湿っぽくなったな。とりあえず家の内外を案内するよ」
 虎之助は、無念と連れ立って母屋からはじめた。静子が就学前の三男坊を連れて後ろにつく。


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