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【エッセー】回想暫し 勢州桑名


 
 大学卒業後、愛知県の印刷会社に勤めた。札幌、大阪、金沢に住んできた私にとって、愛知県は初めての地であった。親類縁者、友人知人等、知る人は一人もいなかった。その後、三重県の役所に転職した。同じく初めての地であり、ここもまた知る人は一人もいなかった。大阪で高校時代を過ごしたので、遠くにやって来たという感慨はなかったが、何もかもが初ではあった。
 三重県での周りの同僚を見るとたいがいが長男で、東京や大阪、京都、名古屋等の大学に行き、卒業後、就職のため親元に戻ったという例が多かった。なかには津高、三重大、三重県庁と半径六kmにすべて収まる人もいた。皆、父母の近くに住むか二世代、三世代同居で、私なんぞ異端の最たる者であった。
「あんた、何の関係もないのになんでここに来たの」
 と、不思議がられた。
「自分でもよく分からないんだ。ふと気づいたら愛知県にいたのさ。名古屋は大都会のうえ、道路が広すぎてちっとも面白くない。それで三つの河を越えたんだよ。人間じんかん到る所青山せいざんありと言うからね」
 私はそう答えたものである。愛知県には三年しかいなかった。あれこれ町歩きする機会はなかった。会社が桶狭間おけはざまに近かったにも拘わらず、古戦場を訪れることもなかった。ごくたまに鶴舞から栄まで古書肆巡りをした。岡崎の古書肆にも一度だけ遠征した。
 それでも、大きな収穫が一つだけあった。名古屋市緑区の有松を歩いたことで、同地には古きよき時代の時間が流れていた。戦災に遭った名古屋市のなかで例外中の例外と言われるだけあって、まことに感動的な町並みが残っていた。最晩年、金沢の有松に住むようになったのは何かの因縁か。
 三重県に引っ越すとき、名古屋に最も近い桑名市を選んだ。名古屋駅から近鉄やJRでおよそ三〇分の中都市であった。鉄路は、桑名駅の少し手前で木曽、長良ながら揖斐いびの三大河川を渡る。その眺めは壮観の一語に尽きた。国境の巨大な河川を渡ると、そこは伊勢国であった。
 三重県と愛知県に岐阜県を加えて東海三県と呼ぶ。三県を比較してみると、人口ランキングで、愛知県751万人4位、岐阜県198万人17位、三重県177万人22位。財政規模では、愛知県5位、岐阜県19位、三重県24位。そのほかのランキングを眺めても、愛知県の大県なることは明々白々で、岐阜県がおおむね10番台の終わりの方。三重県は20番台の真ん中あたりにいる。
 旅に出てどこから来たのと訊かれて、三重からと答えると、相手は戸惑うかの顔つきになる。九州でしたっけなどと応じたりもする。九州の大分県に三重の地名はあるが、我が方の三重は県なるぞ、と一喝したくなるが、知らない人になぜ知らぬのだと怒っても仕方がない。
 とにかくいつも真ん中あたりにいる温柔おとなしくてあまり頑張らない県という印象が強い。大きな県でもないのに、日本一の私鉄、近鉄が走り、名古屋(233万人)から桑名(13万)、四日市(30万)、鈴鹿(19万)、津(27万)、松阪(15万)、伊勢(12万)まで特急、急行、普通電車の便がおそろしくよい。並行してJRも走っている。近鉄は伊賀地方でも同様に伊賀(8万)や名張(7万)などから大阪へ通勤客を運んでいる。旧国境に近いところでは、三重県民でありながら名古屋や大阪の方に関心を向ける人が少なくない。四日市を筆頭にそこそこの市が幾つかあり、よその県のように県庁所在都市が断トツということはない。いわゆる中核市もない。(注 人口は2020年国勢調査から概略を示した)
 三重県は四つの旧国、すなわち伊勢、志摩、紀伊の一部、伊賀の四国から成り立つ。近畿圏に属し、中部圏ともつながりがある。面積がさして広くもないのに(全国25位。またしても真ん中あたり)、旧国が四つとはこれいかに。北海道や兵庫県の次に来る旧国数の多さは、何でも中ほどの県にしては上出来である。
 気候が温暖で伊勢の海に抱かれて豊かで暮らしやすい地ゆえ、県民性は中庸、温和にして人品が卑しくない。政治的には岐阜や愛知よりもやや左寄り。言葉は関西風であるが、関西弁ではなく、名古屋弁とは全然異なる。三重県と言えば、伊勢神宮と伊勢志摩観光。昨今は、鈴鹿サーキットか。
 

 
 桑名市に長らく住んだ。同市が三重県一の観光都市と聞いて喫驚したことがある。何のことはない。平成の合併により、集客力のある多度町の多度大社や長島町のナガシマスパーランドが、桑名市に所在するようになったからであった。桑名の元からの観光スポットとしては、泉鏡花「歌行燈」の舞台となった船津屋とその近くの七里の渡跡や、ジョサイア・コンドル設計になる大正洋風建築とそれに和館のつながる六華苑が著名。石取祭なる鉦と太鼓と祭車(だし)の織りなす良く言えば雄壮な、悪く言えばひたすらやかましい奇祭も、一見あるいは一聞に値する。
惜しいかな、桑名は戦災に遭ったため誇るべき城郭も町並みも持たない。「その手は桑名の焼きはまぐり」で知られ、旧東海道四十二番目の宿場であった。四十一番目の宮宿(熱田)から桑名宿へは海路となり、七里の渡しで結ばれていた。広重の東海道五十三次にも桑名七里の渡口が描かれている。両宿ともずいぶん賑わったのである。
 江戸時代、桑名藩は御家門の家柄を誇った。徳川家一門や分家で大名になったものを親藩というが、御三家(尾張家、紀伊家、水戸家)と御三卿ごさんきょう(田安家、一橋家、清水家)は別格であり、これらを除いて家康の男系男子の子孫を始祖とするのが御家門で、越前松平家や会津松平家が筆頭格である。これには若干の例外があって、家康の母於大おだいの方(伝通院)が久松俊勝としかつ(尾張国知多郡阿久居あぐい城主)に再嫁し、三人の男子を生んだことから、家康の異父弟および子孫を始祖とする藩もまた御家門とされた。久松松平家である。桑名藩主は久松松平家という名門の出であった。
 桑名領はおおむね十一万石、実質十四万石とされる。越後柏崎に飛び地領があった。幕末、桑名藩と密接な関わりのあったのが、美濃高須たかす(岐阜県海津市)藩三万石である。元禄のころ、尾張徳川家第二代藩主徳川光友の二男松平義行が高須藩に移封され、同藩は尾張徳川家の支藩として、宗家に嗣子の不在なるとき、宗家を継ぐ重要な役割を担った。同藩第十代藩主松平義建よしたつのときの他家承継は特に名高い。
 義建の二男が宗家の尾張第十四代藩主(徳川慶勝よしかつ)に、五男が高須十一代藩主(松平義比よしちか)に、のち尾張第十五代藩主(徳川茂徳もちなが)に、のち一橋徳川家第十代当主(徳川茂栄もちはる)になった。宗家を継ぐばかりでなく、義建の七男が会津藩主(松平容保かたもり)に、八男が桑名藩主(松平定敬さだあき)になった。容保は養子として会津藩に入り、藩主の死により後を継いだ。定敬は、桑名藩主の死後、後を継ぐ立場の長男(定教さだのり)が幼少のため、乞われて婿養子に入り藩主となった。義建の四人の男子は高須四兄弟と呼ばれ、幕末の激動期に敵味方となる。
 封建時代にあっては御家の維持が何よりも肝心なことで、御家断絶ともなれば、立ちどころに武士階級は生計の道を断たれる。従って、いついかなるときも藩主の後継ぎを用意しておかねばならないが、藩主といえども不慮の死は避け難い。やむなく他藩の者を藩主に招くことが往々にしてあった。高須藩が養子縁組をよく乞われたのは、あの藩主の一族であれば、まず間違いないとの定評があったからである。しかし、時は幕末。高須四兄弟にとり、空から舞い降りたごとくの他藩主の地位は、決して気楽なものではなかったであろう。
 松平定敬は弘化三年十二月(一八四七年一月)の生まれ。桑名藩主になったのが安政六年(一八五九)であるからおそろしく若い。京都所司代に任命されたのが元治元年(一八六四)四月。いまだ十代である。
 当時の京都所司代は、かつて所持した政治的権力を失っていた。京都の治安維持は京都町奉行の専管となり、所司代は名誉職に堕していた。定敬がそんな所司代職に就いたのは、その二年前に京都守護職に就いた会津容保を補佐するためであった。容保はこのとき、三十歳。会津藩主となって十二年。会津と幕府の二つの重い責めを担って孤軍奮闘していた。二人は兄弟であるが、母親は異なる。年齢が十歳余も離れているので、幼いころ、兄弟がころころ遊んだということはなさそうである。
 嘉永六年(一八五三)六月のペリー来航以来、盤石であった徳川政権は崩壊への道を転がりはじめる。世界情勢を少しでも知っていれば、鎖国の墨守は不可能で、開国の必至なることは自明であった。当事者たる幕府はそれを否応なく知らされて、開国へと動き、何も知らぬ朝廷は攘夷に固執した。幕末、政治の中心は京都にあり、長州を先頭に尊皇攘夷の運動は激しさを増した。
 文久三年(一八六三)、八月十八日の政変が起きる。薩摩・会津の公武合体派が長州藩および朝廷の尊攘派を京都から追放した事件である。翌元治元年七月、蛤御門の変。長州藩が前年からの劣勢を挽回するべく戦いを挑んできた。松平定敬は京都所司代職に就いたばかりであったが、兄の容保に従って桑名藩兵を戦闘に投じた。長州藩は敗北し、京都から去る。会桑は禁裏御守衛総督の一橋慶喜をよく補佐し得て、一会桑体制が在京幕府勢力の中心となる。
 そののち、幕府は長州征討に乗り出すも戦果らしい戦果はない。却って攘夷の不可能を覚った長州が薩摩と同盟し、倒幕運動へと舵を切る。慶応二年(一八六六)、慶喜が最後の徳川将軍に就任し、孝明天皇は暗殺される。翌慶応三年十月、慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出。十二月、王政復古の大号令。江戸幕府は滅亡する。容保は京都守護職を、定敬は京都所司代をそれぞれ辞職する。
 薩長は倒幕を徹底するべく江戸にて挑発を行い、旧幕勢力を戊辰戦争に引き摺り込む。慶応四年、鳥羽伏見の戦い。桑名藩兵は旧幕府軍の主力として戦う。新政府側の兵器は近代的である。おまけに錦旗を掲げている。賊軍とされた旧幕府軍は戦意を失い、惨敗を喫した。慶喜は戦闘の継続を口にするも、老中板倉勝静かつきよ、容保、定敬らを供にして本拠としていた大阪城から密かに抜け出し、幕府軍艦で東帰する。慶喜に見捨てられた各藩は新政府側へと雪崩れてゆく。
 そののち、桑名藩だけは数奇な軌跡を辿る。定敬は慶喜に拉致されたごとくに大阪城から連れ出された。江戸は混乱の極み。慶喜は謹慎して政治から離れる。定敬は桑名に帰ろうとするも、国元が新政府側の圧力に負けて、藩主の承諾を得ることなく恭順、開城に踏み切ったことを知る。成り成りて成り行くところへ成り行くのが当時のありようで、定敬は飛び地の柏崎へ落ちてゆく。
 一つの藩が二つに割れ、一方は降伏、他方は抗戦継続の策に出たのであるから、平素であれば一笑に付されるに違いないが、未曾有の混乱時であり、かつ高須四兄弟の長男徳川慶勝の必死の執り成しも是ありで、桑名藩は会津藩が強いられた悲運を免れる。尾張の慶勝は御三家の一でありながら尊皇の立場を貫いたゆえ、発言力があった。
 桑名藩の徹底抗戦派は定敬が柏崎にて健在なることを知ると、柏崎に集結し、四部隊を結成して新政府側との戦いを継続する。立見鑑三郎という若き指揮官のもと、河井継之助率いる長岡藩と共に戦って新政府軍を苦しめ、会津でも戦い、寒河江でも戦い、庄内藩が恭順降伏したのを知って、ついに降伏する。桑名藩兵は、旧幕府軍として最後の最後まで見事な戦いぶりを示した。一方、定敬は函館へ逃げ、五稜郭の戦闘後は上海にまで逃げるというこれまた強固な意地を見せた。
 
 幕末の桑名藩の動きを略述したが、その去就には気骨がある。会津並みにとは言わないまでも、もう少し桑名藩のことが取り上げられてもいいのではないか。戊辰戦争を書くために鳥羽伏見、淀へ行き、長岡、寒河江、備中松山等々へ行ったが、会津には行かなかった。見るのも聞くのもつらすぎるからで、彼我の戦力からして戦いにならない戦争であった。当時の薩長には惻隠の情がない。
 桑名に住んでいたころ、近所に会津出身の奥さんがいた。彼女がふと言ったことがあった。
 ──わたしたちの郷里では、この前の戦争でと口にするときは、大東亜戦争だの、第二次大戦だのを言うのではありません。戊辰戦争のことを言うんです。わたしたちは薩長を絶対に許しません。
 と。これを聞いて背筋が寒くなった。ゆうに一世紀半近くも経っている。かくして会津のことは書きにくい。その点、桑名藩は藩を潰さず、かつ小規模戦闘に勝利したこともあって、悲惨すぎる運命を辛うじて免れている。

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