「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第二章(3)
七
建光元年( 一二一)、耿夔は、再び度遼将軍を拝した。
その年の秋、遼西鮮卑の其至鞬が叛いて、居庸関( 北京市昌平県の北西) を侵した。雲中太守の成厳がこれを迎え撃ったものの、手酷く討ち破られた。功曹の楊穆が身を挺して成厳を庇い、二人して力戦したが、ついに両人とも斃れた。
鮮卑は大いに奮って、烏桓校尉の徐常を馬城( 山西省定襄県の南) に囲んだ。
耿夔はこの報に接すると、 幽州刺史龐参とともに、 広陽( 北京市北方 )、 漁陽( 河北省密雲県西南) および涿郡( 河北省琢県) の甲卒( 武装兵) からなる救援軍を率いて、馬城へ急行した。
途中、耿夔は軍を二つに割り、自身と龐参がそれぞれ指揮することにした。
馬城に近づいたところで、斥候を放って戦況を調べると、馬城は敵の恐るべき大軍によって完全包囲され、城内との連絡能わずという惨状に陥っていた。
「急がねばならぬな。されど、拙速は禁物。まずは囲みを解き、馬城を解放することに全力を尽くそう」
耿夔は策を練ると、龐参に伝えた。
次いで、みずからの軍を馬城の南面に粛々と進めた。
馬城を囲む其至鞬の主力軍と対峙する形を取ったのは、正面突破と見せかけるためで、その狙いは、敵軍の東西と北面の備えを手薄にさせることにあった。
これが功を奏した。 其至鞬は、 耿夔の軍が後漢救援の全軍と判断を謬り、 すぐさま南面の備えを厚くした。耿夔の軍と徐常の城内軍に挟撃されることを懼れたのである。
( わが策どおりに進めば、逆襲はなる……)
耿夔は独り頷いた。
両軍は日が暮れるまで睨み合い、その日は動かなかった。
夜に入って、龐参の軍が動いた。手薄になった敵包囲軍の北面に奇襲をかけた。
機を見て、徐常の城内軍が撃って出た。敵は、挟撃されて逃げ惑った。策は奏功した。
徐常の城内軍は包囲から解放された。間髪を容れずに、龐参と徐常の軍は東西に奔って姿をくらました。
夜が明けると同時に、耿夔は、戦端を開いた。おのれの軍を其至鞬軍の正面に体当たりさせ、押し込んだ。しばらくは揉み合いが続いた。
頃はよしと、待機していた龐参と徐常の軍が、東西から其至鞬の主力軍に突入した。この凄まじい激突で、鮮卑の大軍は総崩れになった。
耿夔は、敵を追撃して塞の外に出た。さりながら、彼我の戦力に差がありすぎる。深追いは禁物ゆえ、ほどほどにして引き上げた。
馬城救援のこうした功が、耿夔の晩年に咲いた大輪であった。
翌延光元年( 一二二)の冬十月、鮮卑はまたしても雁門、定襄を侵した。あまつさえ、太原を攻めて、太原の民を殺戮した。延光二年、三年にも、鮮卑の来寇があった。
耿夔は、 鮮卑による漢土蹂躙に歯嚙みしたが、 迎撃することはかなわなかった。 法に触れて、すでに免ぜられていたのである。
晩年の耿夔は、背中の古傷に悩まされた。痛みに呻く都度、自分に傷を負わせた男のことを思った。
( あの北単于とは、不思議な縁があった。やつもまた、右腕の古傷の痛みに耐えているか。それとも、とうの昔に泉下の人となったか)
耿夔は、北匈奴の消息を尋ねることで無聊を慰めた。北匈奴はいまなお存していた。北匈奴呼衍王が蒲類海と秦海の間で一大勢力を築き、西域を制していた。
( 蒲類海といえば、その昔、於除鞬が衆八部、二万余人を率いて、そのほとりに留まった。いま、そのあたりにたむろするという北匈奴は、あの北単于の指揮下にあるのか。それとも呼衍王が独自に動いているだけか。されば、あの北単于はいずこに……)
耿夔には、判断がつかない。そもそもが噂話の域を出ず、しかも、調べようがない遠い異国の地のことである。耿夔は嘆息し、老去悲秋の思いを深めた。
ある日のこと、西域を旅してきた商人と話をする機会があった。なかでも、若羌の近郊で起きた奇妙な事件が一頻り話題となった。
最初のうち、耿夔は聞くともなく聞いていた。且末国に君臨する悪逆非道の男が暗殺されたというよくある話である。
「楼蘭王の弟か兄か知らぬが、その比恕なる男は、どうせ悪いことの限りを尽くしたに違いない。当然の報いを受けたにすぎぬ」
耿夔は、一片の同情も覚えずに吐き捨てた。
「そうなんでございます。十人いれば十人の人間が快哉を叫んだわけでして……」
「されば、なにゆえ奇妙な事件なのだ」
「下手人がさっぱり判らないのだそうです」
「はっはっは。当然ではないか。足がつくような間抜けでは、その手の仕事はできぬ。とは言え、よほど巧みに事を運んだのであろうな」
「へい。幼い子どもを二人も使ったようです。幼子には、だれもが油断しますでな」
「子どもか。それも一つの手段ではあるな。だが、そなたは、なにゆえそれを知る」耿夔が首を傾げてみせると、商人は膝を乗り出した。
「それでさ。じつは、遠くから一部始終を目撃した者がいたんです。その者によりますと、たぶん幼子の父親なんでしょうが、比恕というその悪を斬り殺そうと刀を振り翳したところ、ぽろりと刀を落としたんですな。右腕が痺れたかして、動かなくなったそうで。何とも摩訶不思議な話でして……」
「はて。右腕が痺れたというか。右腕が… … 。そいつは、どんなやつだった」
耿夔はにわかに興味を持った。
「何せ遠くからこわごわ覗いただけというんです。どんなやつか分かるはずもありません。ともあれ、つねに泰然自若としていたようですから、大物だったのでしょうな」
「大物か…… 。ほかに何かないか。儂の捜し求める人物かもしれぬ。それで、どうなった」
「へい。幼子が親父の危ういところを救ったんで」
「ふうむ。いかにして」
「弓です。二人とも幼いのに、凄腕だったそうです。二矢が一矢のように同じ一点を、つまり相手の喉を貫いたといいますからな」
( 匈奴の弓矢の術には恐るべきものがある。きっと、やつの息に違いない。儂が背中の古傷の痛みに耐えるように、やつも右腕の痛みに耐えて生きてきたのだ)
耿夔は、懐かしさすら覚えた。北単于らしき人物の消息としては、極上のものであった。
「そなたの話を聞いて、この世における儂の仕事は、すべて終わった」
「えっ。何とおっしゃいました」
商人は目を剝いた。
「否、いいのだ。儂の独り言だ」
耿夔は答えた。
それからしばらくして、耿夔は、起伏の多かった生涯を閉じた。蹉跌はいろいろあったけれども、武人としての役目を全うしたことを誇りにできただけでも、幸いだったと言える。
じつは、歴史的視点からすれば、耿夔のなし遂げた仕事は、本人が知れば驚愕のあまり言葉を失うほど巨大なものであった。
耿夔が北単于を完膚なきまでに叩きのめしたことから、北匈奴の衰退がはじまり、北単于庭(本拠地)は西へ西へと遷ることを余儀なくされた。
西洋社会を恐怖のどん底に突き落とす北匈奴によく似たフン族が、歴史上に姿を現わすのは、その二百余年後のことである。