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君何処にか去る 第八章(2)
四
無明は俊雄を放り出して朝の仕事に出かけていった。三十分で戻るというので、俊雄はコーヒーをゆっくり味わった。
(これで背もたれがあれば、言うことはないのだが。ついでに寝椅子があれば、もっといい)
あたりをぼんやり眺めながら、弛緩しきって周囲の情景に浸る。蒼い空。微風。木々。小鳥。犬の鳴き声等々。と、崖の階段をとんとんとリズミカルに駆け下りてくる跫音がした。無明ではない。
(さっきの里江さんかな)
わざとあさっての方角を見る。軽やかな音とともに目の前に座る人影が視界をかすめた。視線を戻すと、瘠せた小柄な女の子が座っていた。スカートから飛び出した二本の脚は、俊雄の鳴らない竹ほどの太さもない。
色白。髪の毛が上瞼すれすれまで下りていて、うるさそうである。黝い大きな眸が興味津々で俊雄を見ている。
「おはよう」
俊雄はとりあえず声をかける。
「おはようございます」
温和な声が応えた。少なくともきっちり躾られている。
「お嬢さんはいくつかな」
「十四歳」
「十四歳というと、中二だね」
女の子は首を縦に振った。
「学校へ行く前にママから用事を頼まれたのだね」
「はい。でも、今日は土曜日です」
「あっ。そうか。小父さんは学校の先生だったが、勤めをやめてからというもの、曜日の感覚が鈍くなって」
俊雄は言い訳した。一番上の孫が中学生になったばかりで、中学生に対する接し方が分からない。女の子は依然として俊雄を凝っと視ている。
「お嬢さんのお名前は」
「愛」
「おお。いい名だね」
「小父さんは」
「これは失礼した。俊雄。俊敏の俊に、雄大の雄」
「うわあ、両方ともすごい」
「いつも名前負けしている」
「無明さんとはお友だちですか」
「いいや。しかし、いまでは仲のいい友だちかな」
「無明さんにはお友だちはいません」
「昨日まではね。いまはできた」
「じゃあ、親友ですか」
「そこまではちょっと。愛ちゃんには親友がいるのかな」
「いました」
「いましたというのは、喧嘩でもしたのかな」
「転校してしまったの」
「ありゃあ。北海道は広いからね」
「本州へ行ってしまったんです」
「本州か。そいつは気の毒だ」
「俊雄さんは本州からですか」
「そう。名古屋から」
「名古屋って、千葉県よりも北海道に近いですか」
「いいや。ずっと遠い。じゃあ、愛ちゃんの親友は、千葉県へ行ってしまったのだね」
「はい。わたしも行きたいです」
「そうかねえ。首都圏は人が多いだけだよ。この函館ほど綺麗な街は、ざらにはないと思うがね」
「無明さんは、いつもK市が日本のなかで一番綺麗な街だとおっしゃいます。函館はその次くらいかなって」
「K市がかね。なるほど。そうかもしれないな。ほかにも萩とか松江とか高梁とか、綺麗な街はいっぱいある」
「俊雄さんは、K市へ行かれたことがありますか」
「二、三度あるかな。名古屋からは割りと近いのだ」
「無明さんが行っていないのは、群馬県だけだそうです」
「群馬県か。群馬と言えば、前橋。昔は厩橋と言った。上州のからっ風。福中戦争……。知っているのは、それぐらいかな。ところで、愛ちゃんは無明さんに会いにきたんだね」
「はい。玉子を届けに。もう会いました」
「すると、ここへは」
「博識の人がいるから、分からないことがあったら訊きなさい。ただで教えてくれるからって」
「ふうむ。すると、無明さんは」
「境内を掃いていらっしゃいました」
「愛ちゃんは、敬語をきっちり使えてえらいね」
「俊雄さん、分からないことをお訊ねしてもいいですか」
「いいとも。算数や理科でないことを望みたいね」
俊雄は妙なことになったと思いながらも、愛ちゃんとの話を楽しんでいる。この年頃の女の子と話したことは、ほとんどない。
五
愛ちゃんは物怖じすることなく、問いはじめた。
「北方領土のことをご存知ですか。道外の人はたいがい関心がないようです」
「えっ、北方領土かね」
俊雄は仰天した。
(これが中二の女の子の質問なのか。わたしの教えた高校生のなかにこんな質問をした生徒はいなかった。さすがは地元だな)
「いやはや難問だね。歯舞、色丹、それから何だったっけ」
「択捉、国後」
「そうだった。ま、全然知らないのよりもよいか。それで次に何が来るのかな」
「北方領土は戻りますか、戻りませんか」
「これは、これは。いきなり難問だね。どこまで語ればいいのかな」
「無明さんは、一言のもとに戻らないとおっしゃいました。俊雄さんも同じですか」
愛ちゃんの俊雄を見る目付きは真剣であった。
「愛ちゃんにはすまないが、わたしも還らないという意見に賛成だ」
「どうしてですか。無明さんはちっともその理由をおっしゃらないので、困るんです」
「はっは。無明さんに翻弄されるのは、わたしばかりじゃなかったのだね。一般的に言われることを愛ちゃんに教えようかな。戦争に負けて領土の一部を失ったとき、それを取り戻す方法はたった一つ。もう一度戦争をして勝つしかないのだよ。古今東西、あらゆる場合にこの法則は成り立つ。大勢の兵士が死に莫大な戦費を投入したのに、戦争が終わって平和になりましたから占領の地をお返しくださいと言ったところで、敵方に鼻で笑われるだけなのだよ」
俊雄は、言わないでいいことを言ってしまったことに気づいた。が、あとの祭りである。
「北方領土は還ってこないのですね」
愛ちゃんは念押しした。俊雄は仕方なく頷く。突如、愛ちゃんの涙腺が緩んでしくしく泣き出した。俊雄はまずいことになったと青くなった。そこへ、無明がゆっくりと崖の階段を下りてきた。
「俊雄さん、儂はおたくが紳士だと思っていた」
「面目ない。つい、口をすべらした。本当のことを言ったがために、泣かれるとはこれいかに。正直言って、わたしは中学生の女の子は苦手だ」
「じゃ、高校生ならいいんだな」
「否。じつは、高校生の女の子も苦手だった」
「大学生は」
「大学生も」
「俊雄さん、最初から女の子は苦手だと言ってほしかった」
「正確には、わたしは、中学生の女の子の泣くのが苦手だと言いたかったのだ」
「泣かすからだ。泣かした方が悪いに決まっておる」
「無明さん、おたくには惻隠の情というものがない」
「否。十分にある。愛ちゃん、もう泣くのはやめなさい。俊雄さんが何を言ったかは知らぬが、みな本当のことだ。人生には、哀しいことがたくさんある。耐えることも学ばないとね。親友との別れにも耐えた愛ちゃんではないか」
無明が慰めると、愛ちゃんはすぐに泣きやんだ。
「俊雄さん、ごめんなさい。急に悲しくなって」
「わたしこそ失礼した」
俊雄は、その場の雰囲気をどう修復したものか迷った。ところが、無明がさっさと愛ちゃんを帰してしまった。
「俊雄さん、気にすることはない。あの年頃の女の子は褒められては泣き、叱られては泣き、嬉しいときにも泣く。泣くために生きているようなものだ」
「おたくらしくもない。わたしを慰めているのか」
「今夜、ワイン三本を失うか失わぬかの瀬戸際だからな」
「わたしがショックのあまり、孤影悄然として帰名するとでも思ったのか」
「そんな顔容をしていた」
「ふむ。女の子に泣かれたくらいで、この黒川俊雄、尻尾を巻いて逃げ出したりはせぬぞ」
「負け犬の遠吠えか。俊雄さん、そろそろ出かけたらどうだ。儂は、今夕までお相手できそうもない」
「端的に言うならば、今夕まで邪魔だからさっさとどこかへ行けと言うのだな」
「まあな」
「ところで、愛ちゃんは北方領土と何らかの関わりがあるのかね。祖父母があのどれかの島で暮らしていたとか」
「儂は知らぬ。しかし、そんなことがあったのかも知れぬな」
「さようか。では、わたしはトラピスト修道院へ討ち入りだ。返り討ちに遭って、そのまま修道院に居着くかもしれない」
「おたくの体型には修道服が似合いそうだ。囚虜になるかも知れぬな。そうなったら名物のクッキーを宅急便で儂に送ってくれ」
「いやだ。あの愛ちゃんは里江さんの娘か」
「違う」
「おたくは、信者をたくさん持っているのだな」
「この寺の檀家と言ってほしい。こんな儂でも頼りにされるのだ」
「わたしは、トラピスト修道院の清浄な雰囲気に浸って俗世をしばし忘れてくる」
「うむ。儂はいまから本堂の拭き掃除だ」
俊雄は、無明が野菜を抱えて庵のなかに運び出したので手伝った。そのあと、俊雄は山門の上に立った。下界の一日は、早くも活発な動きを示している。