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【エッセー】回想暫し10 黄口小雀

黄口こうこう小雀こすずめ

 日々、文章を刻みながら庭に目を遣る。あるいは、庭に目を遣りながら文章を刻む。雀が七、八羽ほど、そこら中を跳ね、ついばみ、啼き、一斉に木々の枝や近くの電線に飛び上がり、また下りてくる。これらの動作の繰り返しが小鳥たちの一日のすべてである。
 付和雷同と言うか、一羽が枝から枝へ飛び移ると、残りが例外なくおつきあいする。時間差はあれど、独立不羈ふきの態度を持するものは一羽もいない。
 ──他雀たじゃくの真似ばかりしておって、おまえたちには自己の考えというものがないのか。
 節操のなさに小言を浴びせるも、雀たちは我関せず焉とばかり、傍若無人たる振る舞いをやめない。こちらがたまに庭に出ると、変なのが来たと一斉に逃げる。餌を与えているのはだれなのか。その認識がない。そのくせ、餌がなくなると、窓ガラスの向こう側で、餌寄越せのデモンストレーションを過激に行なう。
 ──他所では手乗りする雀もいるというのに、おまえたちは無芸大食ではないか。せめて、いつもお世話になっておりますってな挨拶ぐらいしたらどうだ。
 餌を蒔いてやると、触らぬ神に祟りなしと電線の上に逃げる。餌をもらって逃げるとはけしからぬ。こちらが腹を立てて家に入った途端、下りてきて啄みはじめる。感謝の気持なぞ微塵もない。可愛いのか可愛くないのか。後者であろう。否、前者かも知れない。真冬、一面の銀世界に可哀想と餌を与えたのが謬りのもとであった。
 三、四年前には、メジロ、シジュウカラ、ウグイス、ツグミが来た。それがさっぱり来なくなった。ごくたまにジョウビタキの姿を見ると、その日は一日中幸せである。庭中を引っ掻きまわすヒヨは、来なくてもいいのに来る。結局、雀とヒヨ、ハトだけの庭になった。ハトは平和的であるが、食欲が逞しい。雀の食べる分を全部喰い尽くしてしまう。神経が太いのか人を全然怖がらない。
 雀の雛が姿を見せるのは、一年のうち二回くらいか。ひときわ動作の鈍い雀が現われて、雛だと気づく。親よりも大きい。躰をぶるぶる震わせ、口移しに餌をもらってご機嫌である。
 雛の成長は早い。早いけれども、動作が相変わらず鈍い。周りが一斉に飛び立っても、独り残ってパクついている。他雀に迎合しないのはえらいと褒めたいところであるが、早い話が食欲を満たすことしか考えていない。危ういことこの上ない。窓ガラスを叩いて野良猫警報を発する。と、関西弁で、
 ──分かってまんがな。
 と答え、しぶしぶ未練たらたらで飛び立つ。そのあと、野良猫が間髪を容れずに登場したりして、こちらが肝を冷やす。庭には真っ黒と三毛の二匹の野良猫が交互によく現われる。二匹を追い払っておかないと、雀の命に関わる。窓ガラスをまたも叩いて威嚇する。しかし、この手は野良猫には通用しない。こちらをちらりと見ると、
 ──あんたはん、文句があるんならかかってきなはれ。
 と、これも関西弁で挑発してくる。小憎らしいこと限りがない。さればとこちらが決闘に応ずるべく庭に出ると、慌てて逃げ出す。尤も、沽券(こけん)に関わると思ったか、野良猫は十分な安全距離を取ると立ち止まり、欠伸をしたり伸びをしたりとまたもや挑発する。喧嘩慣れしているのは間違いない。しばらく睨み合いが続く。そののち、野良猫はたっぷり勿体をつけて立ち去る。
 こちらにも意地がある。野良猫の通いなれた公園の一角に先回りし、いきなりこらっと脅す。すると、さすがに驚いたか一、二メートルも飛び上がり、一目散に逃げる。こちらの実力をたまに見せつけておくのが、やっこさんらの跳梁ちょうりょう跋扈ばっこを防ぐこつである。
 ところで、小雀は、地上でこんな厳しい闘いが行なわれているとは夢にも思わず、束の間の安穏な暮らしにどっぷり浸っている。やがて時期がやって来、恒例の親雀との空中戦をおっぱじめる。人の子で言えば、かくれんぼうか鬼ごっこか。小雀がひたすら親雀を追い、親は逃げ回る。当初、親雀の不甲斐なさに苛々したものであるが、親が速成教育を施していることに気づき、両者を応援するようになった。雛の羽はこの空中戦で強くなり一人前になるらしい。
 雛のくちばしは黄色い。ゆえに黄口(青二才)と呼ばれる。「孔子こうし家語けご六本」に、孔子と者(網を打つ者)との対話が載っている。孔子が羅者の獲物を見ると、黄口小雀ばかりである。どういうわけかと訊ねると、羅者は、
 ──大雀はすぐに驚くから捕獲は難しい。黄口は食を貪るから捕らえやすい。黄口も親に従うときは捕りにくい。親が黄口に従うときも捕りにくい。
 と、答えた。要するに親雀ともなると、いかなる場合でも捕まえるのは難しい。その点、黄口ばかりのときは、網を打てば必ず捕獲できると言うのである。孔子はこの答えを得て、経験の乏しい黄口の言うがままになる親の愚かさを弟子たちに説いた。
 さて、黄口小雀もどうやら一人前に育った。親雀はいつの間にか姿を消している。野良猫がやって来ても、かつての雛はだれよりも早く逃げる。
 ──あいつらを嘗めたら酷い目に遭いまっせ。
 と、判っているふうではある。
 
 泉鏡花に「二三羽──一二三羽」という短編がある。鏡花も雀をじっくり観察したようで、教えられることが多々あった。鏡花による雀物語といったところか。例によって鏡花ふうの妖しいシーンがあるものの、この作品ではメインテーマではない。ラスト近くで、関東大震災に遭った小雀を、

 火を避けて野宿しつゝ、炎の中に飛ぶ炎の、小鳥の形を、夜半よなかかけて、案じたが、家に帰ると、転げ落ちたまゝ底に水を残して、南天の根にひゞも入らずに残つた手水鉢のふちに、一羽、ちよんと伝つて居て、顔を見て、チイと鳴いた。

二、三羽――十二、三羽(泉鏡花)

 と描くあたり、心温められる一編である。鏡花の作品にはときにエキセントリックな変幻出没があるが、本作品のごとく淡々と読める作風もまた味がある。

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