「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第五章(2)
四
ジュアールは、報告に出向くゴリークとともにバランベルの本営への帰路を急いでいた。草原には心なしか春の息吹が感じられる。名もない草の花がほんのわずかであれ、目にとまった。
「いまになっていつもの春が舞い戻っても、もう元には戻れませぬ」
ジュアールは慨嘆した。
「ううむ。東ゴート族を無慈悲に追いつめなくてすんだかもしれぬな。あまりに殺しすぎた。ジュアール、わが軍の次なる動きはどうなる。主上はまだまだ殺し足りぬと言われるであろうか」
物事の終わりは次の始まりである。ゴリークは、早くも次の戦いにその想いを馳せている。
「主上のお考えしだいですが、東ゴート族が立ち直らぬうちに総攻撃を仕掛けることになりましょう。 やつらを散々に脅しましたから、 これ以上殺戮を恣にする必要はありますまい」
「そうなってほしいものだ。いくら儂でも寝覚めが悪い。やつらは懸命に逃げるであろうが、その先には西ゴート族がいる… … 」
「そう聞いています」
「同じゴート族が東西に別れたのだろうが、喧嘩別れでもしたのか」
「そうではないようです。いつのころかは分かりませんが、人の頭数が増えて食料に不足をきたし、部族の一部が、あるいは半数近くが、新天地を求めて西へ向かったということのようです」
「されば、大昔のわれらみたいなものだな。喧嘩別れしていないのならば、両族が合力してわれらに当たってくることもあるか」
「それはなさそうです。別れてから三世代も経れば、赤の他人です」
「はっは。そのとおりだ。われらにしたところで、ご先祖を共にするという理由だけで、見知らぬ者たちから助力を求められても、応ずることは百に一つもないな」
二人は、あれこれ話しながらも旅を急いだ。東ゴート族を傘下に収めるには、次の軍事行動に向けて早めに手を打たねばならない。
道中、さしたる事故もなくバランベルの本営に着いた。
多くの他所者が行き交い、どことなく華やかな雰囲気が漂っている。東ゴート族をはじめ、各地に散らばる少数民族の代表者たちが、表敬訪問に押しかけているのであった。ゴリークは周囲を眺めながら、
「驚いたな。ちょっと来ぬ間にずいぶん変わったものだ。主上も、いまでは王のなかの王になった」
と、自身の山出しを隠そうともしない。
「そのようです。いまや、フン王は絶大な権力者としてこの地に君臨し、異民族の民を前にして傲然と肩を揺すっているのです。しかしながら、高く祭り上げられて、転げ落ちるようなことがあっては、元も子もありません」
「うむ。しかし、それは大いに考えられるぞ」
二人は、無遠慮に声を立てて笑った
(しばらく留守している間に、これだけの変化があるとは。ゆめゆめ油断は禁物。伺候する人々は、フン族の内実を知るため、フン王に取り入るため、フン王の懲罰から免れるため等々、さまざまな目的を持って訪れるのであろう。外の世界がフン族の実力を認めた証左であるが、それゆえに、フン王が高慢に陥って判断を誤ることがあってはならない。わたしの出番はいま以上に増えるかもしれない)
ジュアール自身は、前線の参謀といった任務に就き、かつて、ゴリークが崩壊させたアラン族のその後、とりわけリンやゴットフリットの行方を探りたいのであるが、その望みはかなえられそうもない。
バランベルの会見が長引き、ゴリークとジュアールはずいぶん待たされた。あまりに遅いので、ゴリークの堪忍袋の緒がとうとう切れた。
「お為ごかししか言わぬ訪問客とわれら部下と、どっちが大切なのか。おまえたちは、儂らの到着を主上に伝えたのか。さては、まだ伝えておらぬな。なぜ伝えぬ。いいかげんにせよと言ってこい。そうせぬと、儂は帰るぞ」
と、バランベルの従者に向かって咆える。
フン王は、会議、会談が中断されることをはなはだしく嫌う。ゴリークはそれを知っていて、わざと騒いだ。それが聞こえたのか、バランベルからすぐにも呼び出しがかかった。
「どうだ。呼ぶより謗れとは、このことだ。昔の人はいいことを言った」
ゴリークは、得意満面でバランベルの面前に進み出た。ジュアールが後に続く。
「待たせてすまなかった。昨今、客があちこちからやって来る。追い返せばいいのだが、五人に一人は役立つ報せを持ち込むゆえ、邪険に追い払うわけにはいかぬ。昨日の敵は今日の友と言うからな」
バランベルは言い訳めいた台詞を吐くと、にやりとした。ゴリークの咆哮が聞こえていたのである。
ゴリークは素知らぬ顔で、東ゴート軍との前哨戦における上々の首尾を事細かに報告した。すると、バランベルの面がこちらが驚くほどに輝いた。
「ゴリーク、儂は、なんじからの詳報を待ちかねていたのだ。ジュアールがおらぬから、あちこちからやって来る連中が、何を言っているのかさっぱり判らぬ。なるほど、やつらの連れてきた通辞は、われらの言葉を話す。しかしだ。通辞の言うことを聞いているだけでは、やつらの本心は全然摑めぬのだ。甘い話を並べるだけでな。それに、通辞が、儂の言葉を正確にやつらに伝えているのかも、怪しい。散々脅しているのに、やつらは平然としておる。まるで聞こえぬかのようにな。ゆえに、儂はやつらを痛めつけるべく、ゴリーク、なんじの勝利の顚末を詳らかにしたかったのだ。儂は大いに満足した。これこそは、絶対に間違いのない事実だからな。儂は、明日からこの事実を突きつけて、やつらを 跪かせ、ぎゅうぎゅうの目に遭わしてくれるのだ。はっはっは」
バランベルは呵々大笑すると、 ゴリークを褒めに褒め、 かつ 労った。 次いで、 ゴリーク、ジュアール両人から、戦に敗れた東ゴート族に立ち直る余裕を与えてはならぬ戦況を聞くと、即座に理解した。
「分かった。全軍をただちに西へ向け進発させよう。ゴリークは今回は中軍に回れ。ジュアールは儂のもとにとどまるのだ」
バランベルは即決した。
かくして、フン軍は、ゴリークの大勝利に鼓舞されて、威風堂々と西進を開始した。
一戦ごとに、濁流が巨岩を少しずつ押し流すように、東ゴート族を西の同族との国境線へと圧していった。
もちろん、この間、東ゴート族の激しい抵抗がないわけではなかった。が、いよいよ危うくなると、東ゴート軍はさっと退いた。
──捕虜は金や物と引き換えにするのが常識なのに、フン族には通用しない。やつらは、じつに無造作に殺す。女や子どもまで殺す。殺して殺して殺し尽くす。そのくせ、黄金には目がない。
フン族による絶滅戦の惨さは、東ゴート族を芯から震え上がらせるとともに、当惑させた。
戦線は、西へ西へと移動し続けた。それにも凹凸があった。早々に勝負のついた戦線では、東ゴート軍は西ゴート族との国境線に文字どおり張りつけられた。
西ゴート族はかつての同胞の苦境を見、その哀願を耳にしたのち、入国を拒絶した。同族の誼なんぞは、とうの昔に消えていた。
行き場を失った東ゴート族は、全滅するしかなくなった。このとき、バランベルは、同族がフン軍麾下に入り、先鋒役を引き受けることを条件に降伏を認めた。
東ゴート族の領土はじつに広かった。フン族の食糧が確保できるのであれば、生かすもよし、殺すもよしの選択が可能であった。バランベルは前者を採った。その理由は特にはない。多分に気まぐれからというほかはない。
他方、勝負の長引いた戦線もあった。そこは、いまだ西の国境線から遠くに離れており、東ゴート王の主力軍が死力を尽くして、なお拮抗し得ていた。
尤も、フン軍が、東ゴート軍の決死の反撃を持て余したというのではない。バランベルはジュアールの策を容れて、フン軍の戦力を温存した。放っておいても、時間が経てば経つほど、兵站に余力を割けない東ゴート軍は、後退せざるを得ない。
「無理に攻めることはない。腹の減ったやつらに戦闘はできぬ」
猪突猛進ばかりではないところにバランベルの強みがあった。
ある夕、東ゴート王エルマナリクの使者がただ一騎、フン軍の陣営に乗り入れた。バランベルに面会を求める。
両軍がその日の戦闘を終えて、夕餉のひとときに疲れをいやしているときであった。バランベルは、この報せを受けて首を傾げた。
「降伏の打診にしては遅すぎる。自分の命と引き換えに儂を刺殺しようというのか。どうする」
バランベルが、いつものようにジュアールの意見を求めた。
「単身、敵地に乗り込んできた勇気は認めねばなりますまい。武器を取り上げたのち、お会いになられたら如何でしょうか」
(あのアラン族の顔中髭もじゃの勇士の再登場ではあるまいな。 否、 あの男ならば、 戦場で単騎、堂々とフン王に向かってくるだろう。とりあえず、使者をよく視ることだ)
ジュアールは、そう判断した。
「よかろう。使者に会おう。勇気のある男だ。おい、丁重に扱え」
バランベルは従者に命じると、おのれの剣に目をやった。が、結局、帯びなかった。フン王は、おのれの図太さを誇りにしている。
しばらくして、使者は姿を現わした。アラン族ではなかった。ゴート族特有の紅毛碧眼の持ち主は、なかなかの偉丈夫であった。
(疲労困憊のさまは、連日の戦闘もさることながら、空腹の然らしめるところか)
ジュアールは、一瞬のうちに見てとった。
「よく来た。話を聞こう」
バランベルの前に直立した東ゴート王の使者は、肩で息をしている。ジュアールは通辞する前に、
「主上、しばらくお待ち下さい。この使者は疲れ切っています。その理由は大いなる空腹かと」
と、言った。
「何だと……。おお、そういうことか。だれぞ、酒と食い物を持ってこい」
バランベルは笑みを見せた。その場の緊張がほぐれる。従者がすばやく肉と野菜が大盛りの皿を運んできた。
「さあ、ここに座って、呑み、かつ食べたまえ。話はそれからだ」
ジュアールが勧めると、使者は目を丸くした。自分たちの言葉を話せる者がフン族中にいるとは、想像もしていなかったようである。
使者は慎みを捨てるや、肉をがつがつ頬張り、酒をぐいぐい呑んだ。ようやく人心地がつくと、やおら立ち上がり、深々とバランベルに対して拝礼した。
ジュアールに対してもそうしようとしたので、ジュアールは慌ててとめた。こういうとき、まあいいかと応じてしまうと、バランベルの逆鱗に触れる。
「なんじはいつからフン王になったのだ」と。
五
使者はルーカス・ハインリヒと名乗り、厚情を謝したあと、東ゴート王エルマナリクの口上を述べた。むろん、自分たちの言葉で話し、ジュアールが通辞した。
「フン族の大王よ、あなた方の望みは何か。われらの富か、女か、はたまたわれらの土地か。あるいは、われらのすべてを奪おうというのか。われら東ゴート族には誇りがある。最後の一騎になろうとも、われらは戦いをやめぬ。われらの西には西ゴート族がおり、さらに西にはロー帝国が厳然として聳え立っている。あなた方の力をもってしても、ローマ帝国には歯が立たぬ。されば、わが領土の三分の一を提供するゆえ、無益な軍事行動をやめよ」
ハインリヒは昂然として口上を述べたが、言い終えると、俯いた。飲食の世話になりながら、高飛車な言辞を弄したことを恥じたらしい。現在の力関係からすれば、子どもが大人を説諭したようなものである。
「ううむ。東ゴート王は齢百余歳と聞いたが、老いてなお気力横溢の感があるな。立派なものだ」
バランベルは、子どもによる諭しを快く受け容れた。あるいは、そのふりをした。内心のほどは、ジュアールにも判断がつかない。
「フン族の大王さまのお言葉のとおり、わが東ゴート王は高齢ではありますが、気力はいまだ失われておりませぬ。頭脳も明晰にして、われらの判断よりもよほど優れております」
「だが、戦場では、そうはゆくまい。かつてのアレク何とやら王のごとき全能ぶりを発揮できるとは思えぬな」
「おお。わが東ゴート王が、かの英雄アレクサンドロス大王の再来と謳われましたことを
ご承知でございましたか。 確かにあの齢では、 戦場での判断を謬る懼れがございます。
されど、窮鼠猫を嚙むという言葉もございます。フン族の大王さまは、東ゴート王の勧告につきまして、いかが思し召しでございましょうか」
ハインリヒは、丁重にも丁重な言葉を積み重ねた。バランベルがそれとなくジュアールに流し目を送る。
(こやつの肚のうちを探れ)
ジュアールはそのように受け取ると、
「いきなり両者納得の結論を見出すのは難しいでしょう。使者どのの口上に、われらの望みは何かとの問いがありました。まずはそのあたりからはじめられては如何でしょうか」
と、両人に向けて交渉の緒を示した。
「それでけっこうでございます」
と、ハインリヒ。
「ふむ。われらの望みが何かを知りたいというか。では、はっきり言おう。金と食糧だ。東ゴート族が定期的にわれらに食糧を納めると約定するならば、なんじらの土地をみな寄越せとは言わぬ。女も要らぬ。しかし、金は要る。われらは日常必要とする物のすべてを贖わねばならぬ。なんじらのように物を作るという七面倒臭いことはせぬゆえ」
バランベルは、交渉事のイロハも何のその、あっさり内情を明かした。
「されば、大王さま。土地はいかほど、金はいかほどご所望でございましょうか」
ハインリヒが、もう一歩踏み込んでくる。
「いかほどと言うか。さてと、われらは放牧の民だ。土地は広いほどいい。金は多いほどいい。はっはっは。それでは困るか」
バランベルは、ハインリヒの困惑を目の当たりにして、豪快に笑い飛ばした。交渉時、笑っても眼の笑わっていないのが一般であるが、バランベルの場合、眼も笑っている。大人と子どもの交渉では、大人が勝つのは自明であるとばかりに。
ハインリヒは、大仰にため息をついた。
「大王さま、それでは、わたくしの使命が果たせませぬ。いかがでしょうか、これぐらいで手を打ってやるといったふうに、もう少し範囲を狭めていただけませぬか」
「ジュアール、使者どのが困っておるようだ。助けてやれ」
「はっ。されば、妥協できる目安として、土地は四分の三、金は東ゴート族の一年分の四分の三をこちらにいただくというあたりになりましょうか」
ジュアールは多めの数字を提示した。肚のうちは三分の二を見積もっている。
「儂の考えはもちっと多いが……。ま、よしとするか」
バランベルは、フン王にふさわしくあくまで鷹揚である。
「しかしながら、大王さま。四分の三の召し上げでは、われらはとうてい生きていけませぬ。お譲りできるのは、どうしても三分の一が限度でございます」
「おいおい。それでは、交渉初めの三分の一の線から一歩も前進しておらぬではないか。使者にもある程度の権限はあろう。われらへ三分の二を譲ると言ってみよ」
バランベルがねじ込む。本音が思わず飛び出したようである。
「滅相もない。そんな約定でも結んで帰ったなら、わたくしの首が飛びます」
ハインリヒは、こちらの条件のぎりぎりのところを摑んで帰るのが任務らしい。脳裏に三分の二が刻まれたはずである。
「使者どのは、自分の立場を理解しておらぬな。なんじらは、交渉であれこれ言える立場ではないのだ」
バランベルがそろそろ焦れてきた。
「冒頭に申しましたとおり、それでは総力戦となって、彼我の戦士のおびただしい死を招くことになります……」
ハインリヒも、いつまでも引いていない。険悪な空気になった。ジュアールはすかさず話題を転じた。
「使者どのは、西には西ゴート族がおり、さらに西にはロー帝国があると言われた。無益な血を流すよりも、いっそ西ゴート族を頼るといった選択肢はないのですか」
すでに答えの分かった問いであるが、話の接ぎ穂に用いた。
「われらゴート族が東と西に別れて以来、いかなる接触もありませぬ。このたび、西ゴート族との国境線で助けてくれと哀願しても、冷笑されるか、槍で突かれるぐらいのものでした。これからもそうでしょう」
「はっは。目に見えるようではあるな。使者どのはご存知なかろうが、われらは兄弟の間柄でも、心から信用したりはせぬ。ましてや同族の誼なんぞを口にすれば、孫子の代に至るまで莫迦にされる」
バランベルは後継ぎを定めていない。下手に定めて、その者に実力がなければ、簒奪されるだけのことである。自分の死のあとは、力のあるものが王位を奪いとればいいとするのである。
「ハインリヒどの、われらと西ゴート族に挟まれて、東ゴート族は全滅の憂き目を見ることになるやもしれません。東ゴート王はそこのところをよく思量されて、四分の一の土地と金とで生き残る方途を図られた方がよろしかろうと思われます」
ジュアールは妥協点へと誘導した。
「大王さま、せめて二分の一というお情けはございませんか」
ハインリヒは、哀れっぽい声音でなおもバランベルの真意を探る。けっこうしたたかで、交渉に慣れぬフン族なぞ、いつの間にか丸め込まされそうである。
「ないな。なんじらは、前哨戦で女や子どもがどうなったかを忘れたわけではあるまい。下手に逆らうな。逆らえば、あの鏖殺が再現される」
バランベルは重々しく宣告した。
「分かりましてございます。大王さま、いま一つお願いがございます。東ゴート王は、大王さまの信頼されるどなたかとの話し合いを望んでおります。われらの言葉を話せるジュアールどのが最適かと… … 。ジュアールどののご派遣につきまして、なにとぞご配慮を賜りますようにお願いしたいのでございます」
最後になってハインリヒは奇妙なことを口にした。
(人質を確保しようというのか)
ジュアールにも、その真意はにわかに摑めなかった。
「なんじは、ジュアールが東ゴート王に目通りし、儂の述べた条件を口上することを望むと言うか」
バランベルは呆気に取られている。
「さようでございます」
「儂は、なんじらに無条件で人質を差し出すほど愚かではない」
「とんでもないことでございます。わたくしがここに残りますゆえ、人質云々の問題が生ずる恐れはございませぬ」
「断る。なんじが残ったとて、なんじが儂の頭になれるか、手足になれるか」
「わたくしも、東ゴート王の頭脳面では 某かの役割を果たし、現実に手足でもあります。東ゴート王が、ジュアールどのに危害を及ぼすことはありませぬ」
ハインリヒは胸を張った。
「異なことを。なんじが帰還ののち、なんじの王に報告すればすべては片づく話だ。それこそが、使者たるものの務めであろう。ジュアールがのこのこ赴かねばならぬどんな理由があるというか」
バランベルの頬が紅潮している。憤ったときのバランベルには、だれもがひやりとさせられる。一つ間違うと、おそろしく凶暴になる。
「これという理由はありませぬ。わたくしが思うに、東ゴート王は戦いに明け暮れた一生をおくりました。おおむね勝ったのは、運に恵まれたからでありますが、実際、強くもあったのです。広大な地域を領し、絶大な権力のもと、好き勝手に振る舞ったことは否めませぬ。人の一生を、とりわけ乙女の一生を台無しにしたことは、数限りないというおぞましさ。それが、どうでしょう。最晩年に至って、フン族大王さまにあらゆるものを奪われんとするまでに追いつめられました。いまや、東ゴート王は、キリスト教徒がよく口にする天の裁きが下されたのだ、と歎くばかりでございます。わたくしは、東ゴート王が自分に罰を下すものの実体をわが眼にしたいのだ、と推量しております。ジュアールどのと東ゴート王との会見は、わたしが課せられた任務の一つであります。なにとぞお聞き届けくださいますよう伏してお願いするしだいでございます」
ハインリヒは、躰を二つに折って拝礼した。
「ううむ」
バランベルは絶句した。目顔でジュアールに行くか否かを問う。
「参りましょう」
ジュアールは答えた。
六
ジュアールは、この不思議な申し出を受けて、
(かりに罠だったとしても、わたしとハインリヒが時期をほぼ同じくして処刑されるだけのこと。かりに拷問されて、わたしがわが軍の実態について口を割ったところで、東ゴート軍の敗北必至を明らかにするばかり。わが軍への不利益はいかほどもない……)
と、咄嗟に考えを巡らせた。
同時に、好奇心の誘うところ、どこへなりともの気持ちもあった。東ゴート王に謁見できるというのは、二度と得難い貴重な体験に違いなかった。
二十四時間後、ジュアールとハインリヒの立場は入れ替わった。ハインリヒはバランベルのもとに残り、ジュアールは単騎、東ゴート軍の陣営に乗り入れた。
通行証として預かったハインリヒの腕輪の効力は抜群であった。関門はいくつかあったが、ハインリヒの名と腕輪を示すと、素通りに近い扱いを受けた。それなりに覚悟して出向いてきただけに、拍子抜けの感がないでもない。
(ハインリヒとは、いったい何者なのか。東ゴート王の孫、曾孫、あるいは玄孫にあたるのだろうか)
考える間もなく東ゴート王の幕舎の前に至った。緊張のあまり、躰が強張っている。 ジュアールは周囲を眺め回した。大きな幕舎の左右には近衛の騎士たちが詰め、ジュアールの方を見ている。こちらを揶揄するでもなく、されど、さも物珍しそうに。
──戦になれば、あんなのがおれたちよりも強いというのか。
そんな声すら聞こえてきそうである。百以上の眸に対するこちらの二つでは、とうてい勝負にならない。ジュアールは視線を外した。
少し離れた方角で女の話し声がした。男を叱る口調である。その合間に通りすぎっていったのも女であった。いかにも騎士然としている。
(ここは戦場だ。いったい、どうなっているのだ。この部族は戦場に女性を伴うのが習慣らしい。戦闘に負けたときに、女がどういう目に遭うかを知らぬこともなかろうに。絶対に負けぬ自信があるのか。が、それも、われらとの戦いで思い知らされたはずだが……)
このとき、
「ジュアールどの、こちらに参られよ」
と、声がかかった。
剣を取り上げられ、東ゴート王の幕舎内へと導かれる。あまりに事が簡単に運ぶので、ジュアールは面妖な気分である。
正面の椅子に東ゴート王エルマナリクが独座し、周りに人はいなかった。王の背後には五旒 の巨大な旗が掲げられ、王に謁見する者たちを睥睨している。
一旒が東ゴート王の旗として、残る四旒が東ゴート王麾下の有力貴族の旗なのか否かは、窺い知れなかった。
玉座の上の皺だらけの顔の持ち主は、しばし無言のまま、その落ち窪んだ両の眼でジュアールを凝視めた。生気のない顔。が、眼光には不可思議な力が宿っていて、ジュアールを畏怖せしめた。
(こういう眼は苦手だ。しかも、わたしは、たった一人で敵地にいる……)
ジュアールは、ハインリヒがフン王になしたように深々と拝礼し、名乗りすることによって恐怖の色を隠した。
「勇気ある者よ、よく参った。ハインリヒは任務を果たしたのだな」
エルマナリクの声は大きかった。耳の遠い人特有の大きさである。
「御意にござります」「交渉は妥結したのか」
「残念ながら、いまだ交渉中にございます」
「交渉の余地はあるのか」
「ございます」
「交渉の余地はあれども、妥結への道は限りなく遠い。だれもが持つ欲のなせる業だ」
「仰せのとおりでございます」
「なんじは虚言をつかぬのだな」
エルマナリクはここで一呼吸置くと、またジュアールを凝っと視た。王の血の気のない顔にやや赭みが差している。
(何という苦悶の表情か。一代の英傑が寄る年波に勝てず、みずからの非力が一国の滅亡を招いたことを歎いている……。ハインリヒの言った天の裁きを思うのか)
ジュアールは、おのれの金縛りの状態に気がついて、肩の力を抜いた。少し落ち着きが戻った。
「虚言はいずれ露見しますゆえ」
「そのとおりだ。なんじは、余がなにゆえなんじを招いたかを知るか」
フン族への怨みが一瞬、エルマナリクの面に浮き上がり、消えていった。
「東ゴート族を追いつめたフン族の実体を見極めんものと、東ゴート族の言葉を話せる者を招かれたものと推しております」
「おおむねは、なんじの推量どおりだ。戦ともなれば、勝つために残忍なことをせねばならぬ。これはやむを得ぬ。余もこの点において人後に落ちぬ。だが、女や子どもを殺しはしなかった。裏切りその他に対しての若干の例外はあるにせよな。翻って、なんじらはどうだ。しばらく前の戦いで、なんじらは余の民を殺戮した。一人として生かしはしなかった。殺すことを楽しんでいたというではないか。余は、なんじらが鋭い牙と爪を持った獣に違いないと考えた。余は死ぬまでにどんな獣なのかを見ておきたかった。ゆえにハインリヒに命じたのだ。われらの言葉を話す者が一人でもいたら、余のもとへ招けとな」
エルマナリクはいったん長い話を切ると、大きな吐息をつく。
「わがフン族は戦を好むゆえに闘うのではなく、殺戮を好むゆえに殺すのでもございませぬ」
「なんじは虚言はつかぬと言わなかったか」
「わたくしの申し上げることに虚言はございませぬ。われら遊牧の民は、つねに餓死と隣り合わせの暮らしをしております。昨冬から今春の極寒が、われらに飢え死にを迫りましたゆえ、われらは西走して西討するしか生きる手立てがなかったのでございます」
ジュアールがこう申し立てて、玉座のエルマナリクを見上げると、その妖しい光を帯びた眸は、依然としてジュアールに焦点をあてていた。
( どうにも気圧される)
ジュアールは孤立無援を感じた。
「自分たちが生き残るためには、東ゴート族がどうなろうと知ったことではないと……」
「結果的にはそうなりましょう。されど、大王さまが、かりにわれらと同じ立場でございましたなら、いかがなさいましたでしょうか」
「余ならばいかにというか。余ならば、先住者を追い払うであろう。抗う者は殺す。されど、女や子どもは殺さぬ」
「その子どもたちは、長じてから復讐に立ち上がることでございましょう」
「将来の差し障りを除くべく、その芽を摘んでおくと言うか。それも一つの考えではある。されど、余の選択肢のなかにはないな。なんじに訊く。いかなる心を持てば、明るい笑い声を立てる赤子を大地にたたきつけて殺すことができるのだ」
エルマナリクの大きな声がさらに大きくなった。
「わがフン族の暮らしが成り立つのならば、無益な殺戮に狂奔したりはしませぬ。このたびの惨劇も、それを繰り返さぬための警告でございました。交渉の妥協点もそのあたりにあるのでございましょう」
「余の齢は見てのとおりだ。余の首が所望ならばいつでも進呈しよう。女や子どもを殺すのはやめにせぬか」
エルマナリクは本音らしきものを漏らした。フン王バランベルによる鏖殺の脅しは、東ゴート族を顫え上がらせたことだけは間違いない。
(あれは絶大なる効果をもたらした。だが、いついつまでも用いる策ではない。東ゴート王の告発には、耳を傾けさせる真情がある……)
「大王さまもご承知のとおり、すでに勝負あった戦線では、条件つきで貴軍の降伏を認めているのでございます。わたくしは、全戦線でそのような処置を取ることは可能であろうと考えるのでございます」
「その結果として、東ゴート族の領国は消滅する……」
「そうなるとは限りませぬ。戦いのなりゆき次第では、大王さまに三分の一ほどの土地が残る可能性はございます」
「三分の一とな。哀れなことになるものよな。なんじが虚言をつかぬように、余も虚言はつかぬ。余の命令に従わぬ臣下が出現している。ある日ある時刻を合図に、東ゴート軍の全戦士が武器を捨てるということは約束できぬ。なかには執拗に抵抗する者もあろう」
「大王さまの命令に違背する者が出てこようとも、女や子どもを殺してくれるなというご所望は、フン王に伝え、その実現を図ることをお約束します」
まつしぐら
( わたしは、こんな高齢の人間を見たことがなかった。この皺だらけの顔の訴えが、驀地に迫ってくるのだ)
ジュアールの心のなかに、東ゴート王の希望を何とかかなえたいとする思いが、湧き上がっていた。
「フン王はよき臣下を持たれた……。余は疲れた。引見はこのあたりで終わりにしよう。ハインリヒは余の曾孫だ。ハインリヒの無事の帰還についても、なんじはよしなに取り計らってくれよう」
エルマナリクは会見を打ち切った。
第六章より有料公開となります。記事単体購入よりお得な有料マガジンを用意しています。