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君何処にか去る 第四章(1)

第四章 歳月は流水の如く

 一週のうち、金曜日と土曜日が喜多川道友の指定した稽古日である。朝八時から晩八時まで、門戸を開いて弟子の訪れを待つ。おおむね学生は金曜日、社会人の弟子は土曜日に通ってくる。
 学生たちは三々五々やって来ては順番待ちする。たいがいの者は、囲碁将棋で時間を潰す。このときを狙って、隣家の柏木幾三が訪れ、喜び勇んで参戦する。学生に一人だけ強いのがいて幾三を悔しがらせる。昨今、弟子たちのなかには数人の女子学生が交じる。いずれも熱心で、休むことがない。道友にとって密かな驚きである。
「女が尺八を吹いてはいかんという法律はない。されど、女には三絃か箏の方が似合うのだがねえ」
 道友が幾三にこぼす。
「道友さん、失礼ながら古い。いまどきの女は、飛行機のパイロットや電車の運転士、兵士や一国の首相もになりたがるんです。わたしのいた病院にも、優秀な女医がおりました。しかも、すこぶるつきの美人。天は二物を与えるんですな」
 幾三の答えもまた、すこぶるつきの無慈悲ぶりである。道友は横を向いた。女子学生は、さすがに囲碁将棋はしない。おしゃべりして順番を待つか、道友夫人の愛猫モモを追い回して遊ぶ。金曜日はモモの厄日である。
 坂下無徳は、金曜日か土曜日の夜八時少し前にやって来る。先客があっても一人ぐらいなので、さほど待たなくてすむ。仕事を終えてすぐに駆けつけるようで、車のなかで泥で汚れた作業衣を着替えたり、濡れタオルで顔や首筋をごしごしこすったりしている。
 たまに朝八時きっかりにやって来ることもある。大雨で仕事がないか、たまたま仕事が途切れたかしたときで、それでも先客があったりすると、いつも部屋の片隅で本を読んで待つ。あるとき、無徳の稽古中、順番待ちの学生が無徳の読んでいる本を覗いた。
「すっげえ。えらく難しい本を読んでいる。『無門関むもんかん』だって」
 その学生は、いかなる内容の本なのかを知らなかった。道友は、試みに学生の弟子たち全員に問ねてみた。だれも知らなかった。社会人の弟子も知らなかった。柏木幾三はさすがに知っていて、
「禅宗の公案集でしょうが。悟れないのが人間という存在にも拘わらず、こうすれば悟れると無益なことを……」
 と、批判を口にした。無徳がたまたま女子学生のグループと稽古時間が重なったことがあった。無徳は黙礼したきり、いつものように部屋の片隅に引っ込んだ。
 女子学生たちがモモを追い回す。逃げ惑ったモモが、無徳の膝の上にぴょんと飛び乗った。これにはみなが喫驚とした。モモを膝に乗せる特権は、ひとり道友夫人が独占していた。この独占体制が崩れたからには、無徳が女子学生の注目を集めたのは当然である。無徳の稽古時刻に合わせてやって来る女子学生が出現した。が、本人はどこ吹く風である。
「無徳君は女の子が嫌いらしい」
「あの人ならいい家庭を作るでしょうに」
 道友は夫人とそんな話を交わす。
「戦場から帰還した兵士が、平凡な日常に戻れないのと同じですな。無徳君は、いまだ戦場でひたすら戦っているのです。女の子なんぞ目にとまりませんよ」
 柏木幾三は、無徳の精神状況を巧みに解剖してみせた。もと医者だけのことはある。
「そんなものですか」
 と、道友。
「そんなものです」
 両雄は日々、相手をへこましたり、へこまされたりしている。無徳の上達は目覚ましかった。おそらく稽古をふんだんにしているのであろう。学生のなかで最も優秀な弟子よりも、さらに優秀であった。抜群の音感がある。おまけに鳴らない竹は無徳との相性のよさを存分に発揮した。幽玄、深妙な音は、道友の音にも負けないくらいである。
(あの竹は、自分にふさわしい主人をみつけたようだ)
 道友は弟子たちに対して、
「尺八の吹奏とは尺八禅に近い。ゆえに技巧に囚われてはならない」
 と、技巧を極力排する吹き方を教える。それでも、学生たちはプロの演奏を聴いて技巧に惹かれてゆく。それも人格の現われである。道友はそれ以上やかましいことを言わない。無徳は、技巧にまったく関心を示さなかった。技巧ではなくその音色を磨くことに懸命であった。
(あのままいけば、わたしを超える……)
 道友は、大いなる期待を抱かせる弟子をはじめて得た。年に一回、道友は、学生主催の演奏会に賛助出演した。老いた道友がおのれの芸を公に披露するのは、このときくらいのものである。
 道友が出演すると、来場者が俄然増える。だれもが、学生の素人芸には興味がない。みな道友が目当てなのである。その年、道友の曲目は「宇治巡り」であった。松浦検校作曲。八重崎検校による箏の手付け。歌は、宇治茶の産地として名高い宇治と京都近郊を巡るふうを装いつつ、宇治茶の銘柄が詠み込まれている。
 道友は、いつものごとく脇役に徹して糸方を立てた。地唄はあくまでも三絃が主体ゆえ、尺八が光ってはならない。この日の合奏は、糸と竹が渾然一体をなして絶妙の世界を現出させた。
「近来、稀に見る名演奏だったとの評が多いですな。わたしもそう感じました」
 柏木幾三ですらそういう感想を述べた。すらというのは、幾三には微妙な音を聞き分ける感性は、どうやらなさそうだからである。その演奏会の直後の稽古日、稽古を終えた無徳がお茶を飲みながら、
「先生、あの日の三絃の弾き手はいつもあのような調子なのですか」
 と、問うた。
「否」
「力強いのに、力強くない……。何と言うか、残燭ざんしょくほのおのような感じがして痛々しかったですね」
「ほほう。君は気がついたかね。じつのところ、あの人は病なのかもしれないね」
「あらっ。わたくしは、全然気がつきませんでしたことよ」
 道友夫人は目を丸くした。
「それが普通だろう。あの三絃の弾き手の病を察知した者がいるとは思わなかった。無徳君、どうして分かったのかね」
 道友は、無徳をしげしげと見ないわけにはいかない。
「ただ、そのように感じたのです。あの弾き手の胸のうちは、哀しみでいっぱいでした。どちらかと言えば、楽しい曲なのに」
 その話は、ほかの弟子が来たので打ち切りになった。が、道友はますます無徳への期待を膨らませた。無徳はいつも物静かである。にもかかわらず、徐々にその存在感を強めた。柏木幾三が、無徳に結婚話を持ち込んだり、何かと無徳の身辺が本人の意志とは無関係に慌ただしい。道友は、
「無徳君がこのK市に腰を落ち着けてくれるならば、わたしは後継者を得て安心して死ねるのだがな」
 と、夫人に弱音を吐くことがある。
「まあ。そんなことを口にするのは少し早すぎますわ。無徳さんの芸をきっちりお仕上げになってから、逝っていただきたいものです」
「あと、五年はかかる」
「じゃあ、あと五年は生きていてくださいませね」
「ううむ。歳月は待ってくれても、無徳君は待ってくれないかもしれないな」
「わたくしもそう感じましてよ」
 なぜか、道友は夫人ともども、無徳との別れのさほど遠くないことを感ずる。 


 
 道友の弟子M子は、長野県松本市出身の女子学生である。道友は、無徳がM子の出身地を知って、
 ──松本ならば、明科あかしな(現安曇野あずみの市明科町)が近いですね。
 ──ええ。明科は、松本から篠ノ井線で二駅目です。
 ──屋代やしろ(旧更埴こうしょく市。現千曲ちくま市屋代町)はどうですか。
 ──同じく篠ノ井線で明科よりもっと先へ行くと、長野の手前に篠ノ井駅があります。そこから長野電鉄に乗り換えて一駅です。
 と、そんな話をM子と交わしたことを憶えている。
 そのあと、道友が、
 ──無徳君、その明科とやらに親戚でもいるのかね。
 とたずねても、無徳は詳しいことを話さなかった。その後、無徳とM子は親しく口をきく間柄になった。どの程度の仲なのかは、道友の与り知らぬところであるが、二人してK市に残るか否かは大いに気になった。
 事件は思いがけぬ方向からやって来た。発端は、M子が稽古に来なくなったことで、あとになって考えれば、道友には何もかもが必然だったように思えてならない。
 当座、道友は、M子のことをさして案じなかった。M子は卒論に集中しなければならない時期にあったし、それでなくても、弟子たちが無断で稽古を休むことは、ままあった。ところが、それが五週も続くと、
(病気でもしたか)
 と、心配になった。道友は、ほかの女弟子三人にM子のことを訊いた。彼女たちがM子と同じ学科の学生たちに問ね、その結果、M子が厄介な事件に巻き込まれていることが判明した。M子は、卒論の主任教授Sの苛めに遭っていたのである。
 某日、M子はS教授に食事に誘われ、飲酒を強引にすすめられた。危険を感じて逃げ出した。それからというもの、M子はS教授に毎日のように苛められ、とうとう耐えかねて大学に出なくなったというのである。
「M子君にとっては、尺八の稽古どころではない。しかし、大学の先生ともあろう者がそんなことをするものかね。世のなかもうお仕舞いだ」
 じつに驚くべき事件であった。M子の件を探り出してきた女弟子三人は、
「M子ちゃんは、旅にでも出たのかしら。S教授の顔なんか見たくないだろうから」
「帰郷したのかも」
「それは考えられないよ。ふつう、ああいうことは親には話せないもの」
「そうね。いまは卒論に必死の時期だものね。S教授の犠牲になる必要は、これっぽちもないのだけど、どうしたらいいのかとなると、ちっともいい考えが出てこないのよね」
「いい論文を書いても、審査するのがS教授では、話にならない。M子ちゃん、虚しくならないかしら」
と、あれこれ話し合っている。
(わたしがもう少し若ければ、S教授を糾弾してやるものを)
 道友は溜め息をつく。
「S教授にM子ちゃんの論文を没にする勇気はないはずよ。M子ちゃんが何もかもぶちまければ、失うものはS教授の方がずっと大きいもの。M子ちゃんの卒論評価を最低にするでしょうけど」
「悔しいわね。何とかS教授に思い知らせてやりたいものね」
「こういうときって、わたしならば親友のところに転がり込むな」
「わたしもそうする。M子ちゃんの親友ってだれかしら」
「無徳さんは知らないのかしら」
 三人の女子学生は、M子と無徳のことを知っていたようである。
「思い余って自死とかということはないでしょうね」
 一人が一番気になることを話題にのぼせた。ほかの二人が蒼くなる。
「淫蕩な莫迦教授に苛められたくらいで、何で自殺せにゃならん。さて、われらはこの難関をいかに切り抜けるべきか」
 道友は当惑するばかりである。ふと、思い当たった。
「無徳君に相談してみよう。無徳君ならば、何かいい手立てを考えつきそうだ」
 道友はどういうわけか、無徳が再び怪傑黒頭巾、否、眠狂四郎になるであろうことを直観した。


 
 道友は、無徳が稽古にやって来るのを待ちわびた。土曜日の夜だと一番遅くなるが、ありがたいことに、無徳は土曜日の朝一番にやって来た。道友はいつもどおりに稽古をすませると、仕事があると言う無徳を無理にも引き留めた。
「じつは、M子君のことなんだが……」
 道友が話しはじめても、無徳はきょとんとしている。
(無徳君は何も知らんのだな)
 道友は、掻い摘んでM子の状況を説いた。
「そんなことがあったのですか。こういう仕事をしていますと、何かと噂話を耳にします。S教授の毒牙にかかった女の子は、二、三人を下らぬようです」
 無徳の冷静ぶりは、無徳とM子の間柄が会えば話を交わす程度であることを示していた。
「無徳君、M子君を救う手立てはないものかね」
「警察の出番だと思います。S教授は否定するでしょう。決着するまでにM子さんはずたずたにされますね」
 無徳はあくまで第三者的である。
「わたしは、君とM子君がもう少し親しいものと思っていた」
「一度、食事に招かれ、一度、こちらがお返ししたことがあります。それだけです」
「いいカップルと思ったが……」
「彼女は卒論に忙しく、わたしは仕事に振り回されて、おつきあいする暇がなかったのです」
「無徳君、何とかならないだろうか」
「手はあります。けれども、S教授には強力なバックがついているのですよ」
「バックと言うと」
「いわゆるアウトローの人たちです。恐いですよ」
 無徳は肩をすくめた。
「どうしてそんなつながりがあるのだろう」
「やっこさんの兄弟に出来の悪いのがいるのです。弟ですけれど。S教授が金を出せば、その弟は事件をつぶしにかかります」
「M子君は、酷い主任教授に当たってしまったものだね」
「それぞれの人生に運不運があります」
「無徳君、やはり警察に相談した方がいいかね」
「S教授がレイプを企んだかどうかを証明するのは難しいです。相手はこれまでも巧みに逃げてきた男ですからね。警察は動かないでしょう」
「大学本部に訴えてみたらどうか」
「恐い人がつぶしにかかります」
「M子君は大学をやめるしかないのかね」
「その必要はないです。問題は二つあるのです。一つは、M子さんの卒論をSが正当に評価しないであろうこと。もう一つは、M子さんに対するレイプ未遂と苛めをいかにSに償わせるか。先生、少し考える時間を下さい」
 無徳は、お客さんが待っているからと、あいさつもそこそこに帰っていった。翌週の金曜日、無徳はM子と連絡がとれたことを報じた。
「M子さんから電話があったのです。声は憔悴しきっていましたが、卒論の執筆は細々と続けているというので、ひとまず安心しました」
「M子君はどこにいるのかね」
「友人のところだそうです。どうもK市ではない印象を受けました」
「すると、当面の問題はS教授対策に移るわけだね。SがM子君の卒論にいい評点を与えないのだけはたしかだが」
「その点は、わたしもいろいろ考えています。もうしばらく時間を下さい」
 無徳の表情に、いままでに見たことのない色が現われていた。
「無徳君、君は何をしようというのかね」
「ご心配なく。わたしは、恐い人たちがどれほど恐いかをよく知っています」
 無徳は、微笑をかべると帰っていった。
「幾三さん、無徳君は何を考えているのだろう」
 道友は不安を感じて、学生との対戦に現われた幾三にあらましを語った。
「何だか破天荒なことをやり出しそうですな」
 幾三は、即座に道友と同じ意見を述べた。
「パンドラの箱を開けようというのではないだろうね」
「窮鼠猫を咬むと言いますからな。無徳君の心の奥底のさらにその奥底に封じ込めた凶暴なものが、噴き出すとなると、だれにもとめられませんよ」
 幾三の気がかりは、道友のそれでもある。
「幾三さんも感じますか」
「感じますな。あの秘められた凶暴なるものを……」
「無徳君がわたしに言ったことがあるのです。K市に残る気になっても、何か事件が起きてそうならないようになってしまうと」
「ううむ。たしかに事件の起きる気配がしますな」
 幾三も浮かぬ顔で、その日は学生との対戦をとりやめた。


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