【エッセー】回想暫し5 そして、だれも来なかった
旅に出るとなると、人は南方か北方かいずれを選ぶかで截然と分かれるようである。南方を好む人は、寒い地へわざわざ出かけてどうするのだと思い、北方愛好者もちょうど反対のことを思って首を捻る。
私は中学三年の夏まで札幌で育ったせいか、南方は苦手である。小学校時代の冬季、満員の市電に乗るのは命懸けであった。耳はちぎれるように痛むし、足の爪先の痛みも半端ではない。来る電車は通過に次ぐ通過で、毎朝、泣きそうになった。
あのころ、いまでもそうであろうが、銭湯から出ると、髪の毛一本一本が凍りついた。濡れタオルをくるりと回すと、板になった。犬ぞりや馬ぞりをよく見かけた。校舎の二階から雪の山に飛び降り、首あたりまでずぼりと埋まって遊んだ。体育の授業はすべてスキーとなり、運動嫌いの私にひたすら苦痛を強いた。
転校生の多い学校であった。たいがい東京からやって来、一、二年経つと帰っていった。女の子も男の子も上品な感じがした。私たちはそんな子たちを相手にして、揶揄うとか苛めるとかはしなかった。そのころの友が、「あの学校でおぼっちゃん、お嬢ちゃんでなかったのは、お前さんとおれだけだったんだぜ」と、述懐したことがあった。目から鱗が落ちた。ずっと馴染めぬものを感じていたのである。
教生先生が毎年やって来た。教壇に立ってぶるぶる震え、しばらく声が出ない先生もいた。私たち生徒は困惑したが、さりとてそんな先生を助けようとはしなかった。
何年生のときだったか、実習期間を終えた女の教生先生とお別れ会をするべく、日曜日、丸山公園に集まることになった。クラス全体ではなく、だれかの呼びかけで数人か十数人かが参加するといった企画だったのだろうと思う。
その日、指定された場所にいくぶん早く着いた。先生はすでに見えており、あいさつを交わすと、二人して級友たちの来るのを待った。
ところが、いくら待っても来ない。最低でも、もう一人や二人来てもいいのに、だれも姿を現さない。どうしてそんなことになったのか。場所も時刻も間違っていない。荒天であれば、今日はやめておこうもあるかも知れないが、晴天であった。いくら考えても判らなかった。いまでも解らない。
私は、先生に詫びたのか詫びなかったのか。これについても何の記憶もない。先生と私は遊園地で遊び、お昼ごはんを食べ、それからお別れした。後日、先生から写真が届いた。どの写真も私だけが写っていた。私はお礼の手紙を書いたろうか。無常迅速。いまとなっては調べようがない。