【エッセー】回想暫し4 川と人生
人はよく河水の流れに人生をオーバーラップさせる。川のほとりに立って、あるいは橋の欄干にもたれかかって、河流を眺めながら来し方行く末を想う。
そんなとき、長年の間忘れていたことが、ふいに脳裏に浮かび上がったりする。懐かしいこともあれば、不愉快なこともある。後者であれば顔を顰めるしかない。この齢になっていまだ屈辱を忘れること能わず。
いつも不思議に思うのは、河水と人間の関わりに触れる詩歌の少ないことで、孔子は、「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」と呟いた。万物流転、人生無常。孔子のこの川上の嘆は、われわれ生きる者すべての思いを代弁している。
次いで、中国西晋時代の詩人陸機(字は士衡)に、「歎逝の賦」がある。機は、『三国志演義』に登場する呉の英雄陸遜の孫である。「悲しい夫、川は水を閲べて以て川を成し、水は滔々として日に度る。世は人を閲べて世と為し、人は冉々として行くゆく暮る。人は何れの世として新たならざらん。世は何れの人として能く故のままならん」と。
川の流れとは個々の水の集積であり、個々の水もまたひたすら流れ去る。世は人の集積であり、個々の人はゆっくりとおのれの生を進める。人はいつの世に新たでないことがあろう。また、いかなる人が一つの世に不老不死を保ち得よう。川は流れ続け、世も存在し続ける。されど、個々の人はゆっくりと確実に死に絶えてゆくのだ。
孔子と陸機の次には、鴨長明「方丈記」がある。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し」と。
機の「歎逝の賦」よりも、鴨長明「方丈記」の方がずっと人口に膾炙しているが、堀田善衛『方丈記私記』は、長明の力点は、水の話や泡の話にではなく、人の住む住居に置かれていて、長明は人生の無常を住居に感じ取っていると指摘している。確かに「方丈記」には天災地変と住家の記述が多い。冒頭の行く川の流れはどこかへ逝ってしまい、筆はひたすら人と家の生死について記す。
上に挙げた三つの例に加わる詩歌を探してみた。陸機のライバルであった潘岳(字は安仁)の「秋興の賦」に、「川に臨みては流れに感じて以て逝くを歎き、山に登っては遠きを懐いて近きを悼む」とある。前半は孔子の川上の嘆を踏まえているのであろう。
寒山詩にも、「漸く減じて残燭の如く、長く流れて逝川に似たり」と、後半に「逝」の字が用いられている。
例示した以外には見つけられなかった。これらで十分とも言える。なかでも、三世紀の詩人陸機の斬新な発想には驚かされる。機はこの賦を創作した三年後に刑死した。どのような生き方をしても、非命を免れぬ恐ろしい時代であった。