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君何処にか去る 第十章(1)
第十章 観音寺の喫茶店
一
最後の客の三人が出ていったところで、由美はテレビを消し、店の扉前の外灯を消した。お遍路さんは徒歩のほか、車やバス、鉄道などを利用する。昨今、全コースを観光バスや車で回ったり、極端な例ではヘリコプターを使ったりする。
いずれにしても、お遍路さんは朝が早く夜も早い。午後七時をすぎてからの来客は滅多にない。天気予報が低気圧の通過を報じていた。
由美の店は、JR観音寺駅からやや離れたところにあり、財田川左岸に近い。四国八十八ヵ所の第六十八番札所琴弾山神恵院、第六十九番札所七宝山観音寺へ詣るお遍路さんが目当てである。
名勝琴弾公園は、観音寺駅から海の方へ向かって徒歩三十分くらいのところにある。財田川は有明浜に注ぐ。そのあたりの右岸に琴弾山があり、一帯が琴弾公園になっている。
同山の頂きからの眺め、たとえば、燧灘や寛永通宝の銭形が描かれた巨大な砂絵は、観音寺市の見所の一つである。お遍路さんは観光とは無縁、ひたすら同山中腹の神恵院と観音寺をめざす。一ヵ所に二霊場というのはこの地だけゆえ、歩き遍路には特に喜ばれる。
人は、消すことのできない過去を胸に秘めて、償いと癒しのために巡礼の旅に出る。それを知るゆえ、心を籠めて客をもてなすのが由美の日常である。当今、お遍路姿なれど、なにゆえ巡礼するのか首を傾げざるを得ない人たちが増えた。
(苦しみがないとはいわないけれど、軽い人たちばかり……)
独り身の由美は、たまに酔った客に口説かれることがある。あまりにしつこいと、カウンター下のボタンを押す。二軒先のお常の亭主がすぐに駆けつけ、
「おい、由美。肴が足りん。何か残っとらんのか」
と、真に迫った名演技を客に見せつける。お常は通いのお手伝いさんである。
「何だ。亭主持ちか」
客は鼻白み、支払いを済ますやこそこそ逃げてゆく。あとで、お常も加わって三人で笑い転げる。そんなとき、由美はワインをグラスに一杯だけ飲む。それ以上飲むと、とまらなくなるし、癖になりそうなので我慢する。
歩き遍路は減り続け、一般の客がその穴埋めをしてくれるものの、この先どうなってゆくか案じないでもない。二ヵ月に一度ほど、人恋しい日が訪れる。そんなとき、さすがの由美も落ち込む。お常の亭主が見かねて、
──由美さん、ペットを飼うといいよ。犬でも猫でも……。
と、奨める。
──ペットは死なれたときが困るのよね。
由美とて犬好き、猫好きであるが、二度とつらい思いはしたくない。その夜、由美は、ブラームスの室内楽のCDをかけた。ブラームスが好きなのは、亡くなった夫に仕込まれて以来ずっとである。客は哀愁を帯びたクラッシク音楽よりも、テレビを択ぶ。なるべく音量をしぼるが、音をもっと大きくしてくれと要求する客が大半である。ケータイで連絡を取り合うお遍路さんもいる。総じて、客は音におそろしく鈍感である。由美は客がいなくなるとすぐにテレビを消す。
ブラームスを聴きつつ、ワインを飲もうかと少し迷う。しかし、いったん飲みはじめると、習慣になって死を急いだ夫のようにアル中になるのが恐い。
(だれかと飲めば、一杯か二杯でとまるのだけれど……)
こういうとき、由美は、大好きなジェイン・オ-スティンの小説を読んで、無聊を慰める。『高慢と偏見』でもいいし、『エマ』でも『説き伏せられて』でもよい。小説の世界に浸りきると、憂き世はどこかへ消えてゆく。
──つかのま、我は心に世紀と他者の生活を生きて、この世を忘れたりき。
かのレールモントフのごとくに。四十代の半ばに差しかかると、さすがに若いときの読書量はない。それでも月に十冊は読む。風が急激に勢いを増した。雨が降りはじめ、すぐにも大粒の雨があたりを打った。
「店を閉めて、大好きなジェイン・オ-スティンでも読むとしますか」
呟くと、由美は立ち上がった。
二
店の扉が遠慮がちに開いたのは、そのときだった。
「もう閉店ですか」
男が問ねる。
「いいですよ。どうぞお入り下さい」
由美は人の話し声に敏感である。声の大小、強弱に加えて話し方、アクセント、方言などに。男は、明かりのする方へ目をやってしばらく佇んだ。同行二人と記された杖と法被は遍路姿である。それがなければ、つばの長い野球帽といい、背中の荷といい、頑丈な靴といい、登山帰りといっても通じそうであった。
「どうぞカウンターの前にお座り下さい。コーヒーですか。それとも何か召し上がりますか。サンドイッチかスパゲッティか焼きそばか」
由美は、カウンターの向こう側へ回った。
「スパゲッティを」
男はカウンターの前に歩み寄ると、そう答えた。隣りの椅子にリュックサックを下ろし、タオルで顔を拭った。座ると帽子を脱ぎ、両肘をカウンターの上に立てて、両の手でこめかみやら目やらのマッサージをはじめる。
「お疲れのようですね」
「ええ。一日中歩いたような気がします。バスが走っていましたが、とにかく歩こうと。途中、親切な車に乗せてもらいました。それでもずいぶん歩きました」
男は目を瞑ったまま答えた。
「六十七番の大興寺からですか。それとも、七十番の本山寺からですか」
四国八十八ヵ所を一番から順に回るのを順打ちといい、八十八番から逆に回るのを逆打ちという。六十七番からだと、順路沿いの由美の店は入りやすい。七十番からだと、財田川の右岸、すなわち対岸沿いを歩くので、川を渡って由美の店を訪れることになる。いかに料理旅館の建物が連なる一角に洒落た拵えの喫茶店を構えるといえども、そんな客は月に一、二度ぐらいのものである。
由美が、それでも七十番の本山寺からですかと訊ねたのは、この客が何となくふつうのお遍路さんと違っていたからであった。
「いいえ。わたしは、巡礼コースを歩いていませんので……。すると、この近くに六十八番と六十九番があるのですか」
案の定、男はピント外れの答えを返した。髪には白い糸が交じりはじめている。
(五十路の手前かしら。わたしとあまり違わないような)
「この先に六十八番札所と六十九番札所が同じ境内にあるんです。それで、歩き遍路の方々にはとても喜ばれますの」
由美の答えを聞いて男は頷いたものの、札所に大して関心がない風情である。
「お客さん、テレビをおつけしましょうか」
これはいつもの由美らしくない。客に要求されるまでテレビに触れないのが由美の流儀である。
「いいえ。このまま弦六を」
由美は、愕いて手にした菜箸を落としそうになった。こんな答えが返ってきたのは、開業以来はじめてであった。
「ブラームスがお好きですか」
つい踏みこんで訊いてしまう。男はかすかに頷いた。依然として目を瞑ったままである。由美はスパゲッティをゆでながら、ミートソース一人前を電子レンジで温めた。
「お客さん、お飲物はどうなさいますか」
男が目を開けた。少しだけ顔が綻んだ。日焼けして黒い。
「ひょっとしてワインでも……」
「ええ。ございますよ」
「そいつはありがたい。いただきます」
「ワインがお好きなのですね」
由美は微笑んだ。ワイン党なら大歓迎である。
「ええ。好きです」
「白にしますか、それとも赤」
「白を」
「ちょうどいいのがありますわ」
由美は、自分が飲むか飲まないか迷っていたワインのボトルを開けた。ワイングラスを一つ取り出して注ぐ。
「よかったらママさんもどうぞ」
男は由美の期待どおりの科白を口にした。
「わたしですか。あまり飲めませんの。でも、明日はお休みですから一杯くらいなら……」
由美は言い訳しながら、グラスをもう一つ取り出した。男が由美のグラスにワインを注いだ。繊細な手をしている。
二人は乾杯した。由美は、スパゲッティを大盛りにして男の前に置いた。男は空腹だったとみえ、旺盛な食欲をみせた。一息つくと、ワインを味わう余裕を取り戻した。
「美味いです。どちらも」
「お褒めに与りまして。大盛りにお気づきになりましたか」
「いいえ。朝食を食べたきりなので、ちょうどよかったです」
「そのようにお見受けしました」
長年の客商売は伊達ではない。
「見破られていましたか。お心遣い、ありがとうございます。このワインはどちらの産ですか」
男の口がほぐれてきた。
「チリ産です」
「チリのワインは美味いと聞いたことがあります。たしかに美味いですね」
「おまけに安いのです」
気分の明るくなった由美は軽口をたたく。
「はっは。あなたはなかなか通ですね」
男ははじめて由美をまともに見た。
(このお客さんの目にわたしはどう映るのだろう。中年の冴えないおばさんかしら)
由美は、男の目にいかなる感情も浮かばないことを訝しんだ。たいがいの男は、あれこれ思いめぐらすものである。
「通だなんてとてもとても。つまみを追加しましょう。これは、わたしからのささやかなプレゼント」
由美はチーズとピーナツを盛って男の前に並べた。由美の店は禁煙である。たいがいの客が不満そうな態度を見せるが、由美は無視する。男は灰皿を探す素振りを見せない。入ってきたときにも煙草の臭いはしなかった。由美はこの一点だけでも男に好感を持った。
三
「六十七番でもない、七十番でもないとすると、お客さんはどこへ詣られたお帰りですか」
「じつは、新宮へね」
「ああ、四国別格第十三番ですね。金光山仙龍寺は、第六十五番三角寺の奥の院にあたりますのよ。四国八十八ヵ所の総奥の院とも言われます。深山幽谷に立地していいところでしたでしょ」
番外霊場なるものが、四国八十八ヵ所のほかに二十ある。これを四国別格と呼び、両者足してちょうど百八。煩悩と同じ数になる。が、番外霊場だけに巡礼コースからよほど外れる。歩き遍路がそれらにまで足を延ばすのは、難行には違いなかった。
「たしかにいいところでした。よくぞあんなところにと感心しました」
「弘法大師が修行なさったという滝がありましたでしょ。お客さんは別格だけをお歩きの通ですね」
「まさか。わたしは、別格も何も遍路としては失格した者です。何番だったか忘れましたが、納経帳を差し出したところ、さらさらと書いたまではよかったのですが、放り投げて返してきたのです。わたしは、その男を睨みつけました。男は素知らぬ顔をしています。わたしは、やつの書いた部分を引きちぎり、くしゃくしゃに丸めてたたきつけてやりました」
男は身振り手振りでそのときの怒りを再現してみせた。すっかりくつろいだふうである。
「まあ」
「わたしの巡礼行はそれでおしまい。仏教の教理に関心はあっても、形骸化した仏教にはちょいとね。それにアレルギー持ちのため、線香やら焼香やらの煙でくしゃみと鼻水に苦しめられてさんざんでした。八十八ヵ所はわたしには向かないようです」
「まあ。でも、お客さんは、諦めずに四国別格に挑戦されたではありませんか」
「いいえ。じつは、新宮村が目当てでした」
「新宮村って、あそこには仙龍寺以外に何かありましたかしら。新宮ダム、銅山川……」
「熊野神社があります」
「そうでした。由緒ある神社だそうですね。四国第一と言います」
「わたしは神道にも関心がないのです。ただ、その神社は紀伊の新宮から勧請したらしいのですね。村名も紀伊の新宮から来ているというので、行く気になったのです」
「すると、お客さんの故郷は紀伊の新宮なのですか」
「いいえ。わたしは各地を放浪する身。故郷はどこかと問われてもね。ただ、ご先祖は、新宮と何らかの関わりがあったらしいです」
男はグラスのワインを飲み干した。由美は男に注ぎ、男も由美のグラスに注いだ。一本が空いた。
「故郷喪失とおっしゃっても、小学校時代をすごした土地なんかは、懐かしいのではありませんか」
「転校が五回。その都度、おまえの言葉には訛りがあると苛められました。懐かしいという感情はないですね」
「まあ、お気の毒に。でも、高校ともなるともう大人ですし、少しは違うのでは」
「高校は大阪でした。あそこは大都会すぎて肌に合いませんでした」
「お客さんの言葉に関西弁が交じるのは、そのためですね」
「自分では気づかないのですが、交じるようですね。よく指摘されます。関西弁の伝染力は最強です」
「これから先、紀伊の新宮へ足を延ばされることはないのですか」
「まずないでしょう。遠すぎます。その代わりが伊予の新宮でした」
「でも、伊予の新宮では……」
「ええ。とうてい代わりにはなりません。紀伊の新宮へ行こうと思えば行けるのに行かないのです。困ったものです」
男は言葉を切った。しばらく沈黙の時が流れた。
「ところで、ママさんはずっとこちらですか」
男が話題を変えた。
「はい。ここから出たことがありませんの。お客さんのように遠くまで旅された方って、羨ましいですわ」
「にもかかわらず、あなたは、クラシック音楽を聴き、『高慢と偏見』をお読みになる。視力はいい方でしてね。ほら、あの奥の棚に立てかけてありますね。高度な趣味ですね。どなたかの影響かな」
男は皓い歯を見せた。
「亡くなった主人のね」
「えっ。ご主人は亡くなられたのですか。それは失礼しました」
「いいんですのよ。もう大昔になりました。亡くなった主人と共にこの店を切り盛りしたころが懐かしいですわ」
「人生、いい時も悪い時もあります。たいがいは悪い時ですが」
「ほっほ。わたしもそう思いましてよ」
由美は話が自分のことに及んで、ほっと溜め息をついた。
(歳月が何もかも変えてしまった。こんなはずではなかったとは思いたくない。とは言え、もう少し華のある人生でもよかったと思う。すべては夫の挫折からはじまった……)
由美は、ワインをほんの一口含んだ。ここで呷ると、とまらなくなる。弦六が哀愁の旋律を奏でている。男は視線を落とすと静かに聴き入る風情である。