「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第三章(2)
三
緑洲一帯は、果樹の香りに家畜の臭いが混ざり合い、人々の交わす声々に家畜の鳴き声が交ざって、独特の空気を醸している。
「ここを発つと当分の間、緑洲はないそうです」
ボルテがいろいろ仕込んでくる。鷲亞留は頷くと、緑洲の彼方に視線を投げた。
(水は、どこかから来てどこかへと流れる。緑洲とは、その流れがたまたま地表に顔を出したものであろう。さすれば、この近くに異なる緑洲があってもよさそうなものだが、ここにしか水はないという。やむなく大量の水を携えるとしても、旅を続ける限り、いつかはなくなる。 それまでに大きな河にでも行き当たれば僥倖だが、 そんなところには、 必ず先住の民が住んでいる……。いったい、草原を利用するキルクの属する部族とやらは、水をいかにして手に入れているのか)
鷲亞留は、伍離玖に出立を命じた。移動中においても厳戒態勢を解かなかった。異民族のただなかにいて、襲撃されないという保障はどこにもない。
数騎が偵察のため先行したが、拍子抜けの体で還ってきた。周囲一帯、見渡す限り、瘠せた土と貧弱な緑が広がるばかり。これでは敵であろうとなかろうと、待ち伏せする場はない。
いくら馬を歩ませても、何の変化も現われない曠野であった。だれもが、いささかうんざりした頃合い、前方に大きな砂塵が舞い上がった。
(ようやく人の姿を見るか。それとも砂嵐か)
鷲亞留は、伍離玖に停止を命じた。
前方を注視しつつ迎撃態勢を取らせる。
大きな砂塵の固まりは、速度を緩めることなく近づいてきた。
十数騎の姿が視界に入った。おそらくなら、キルクの属する部族の偵察隊か使者の一隊であろう。
弓矢の射程に入る前に、一騎が抜け出してこちらに早駆けしてきた。
そのとき、鷲亞留の陣営から甲高い叫び声が上がった。馬を駆る乗り手が大きく手を振って、それに応えた。
(キルクが、おれはここにいるぞとでも叫んだのだな)
鷲亞留は、キルクを留めている限り、交渉であろうと戦闘であろうと、自分たちに有利であることを覚った。
ボルテを従えて、みずから前方へ馬を進める。その後方に伍離玖が数騎を従えて続いた。伍離玖は弓の達人である。
相手方の一騎は、いささかの気後れも見せずに鷲亞留の前に進み出た。
若い男であった。 見るからに 逞しい。 その顔貌が、 キルクと同族であることを語らずして語っている。男は武器を持たなかった。
「おまえたちのことは、緑洲の同族の者から聞いた。キルクを返してもらおうか」
開口一番、いきなり要求を口にした。名乗ることもなければ、使者としての口上もない。
(無腰にもかかわらず、居丈高な態度を取る。駆け引きに慣れているからか、あるいは、キルクのことを心配して頭に血がのぼっているからか。いずれにせよ、儂らの言葉を話せる者が、使者として派されたということらしい)
鷲亞留はそう判断すると、
「いったい同族の者から何を聞いたというのだ」
と、冷ややかに応じた。
「知れたこと。よくない報せをだ」
「キルクは曠野に独りいた。馬の姿は見当たらなかった。儂らが保護しなかったら、いま生きていたろうか」
「何を言う。おまえたちが勾引かしたと聞いたぞ」
激した若者は、拳を鷲亞留に向かって突き出した。
「異なことを。 儂らにはキルクを 拐 かす理由がない。 キルクの空腹を満たしたのは、儂らの乏しくなった食い物であった。助けない方がよかったのか」
これを聞いて、使者はやや態度を改めると、
「キルクと話してもいいか」
と、訊いた。
「いいとも」
鷲亞留は、後ろに控えた伍離玖を手招きし、耳打ちした。すぐさま、伍離玖は鷲亞留の背後十数歩のところにキルクを連れてきた。
使者は大声でキルクに呼びかけ、キルクが答えた。ボルテが逐一、鷲亞留にその内容を伝える。キルクは事実を語った。使者は、
「ちっ。妙なことになった。引き返してまた来る」
と大仰に舌打ちしてみせると、馬首をめぐらした。
「キルクはいつでも返す。儂らは汝らの草原に向かって進む。かりに汝がまた来ずとも、いずれ会うことになろう」
鷲亞留は、その後ろ姿に声をかけた。使者は振り返って何か言おうとしたが、結局、何も言わずに馳駆していった。ほかの十数騎があとに従った。
鷲亞留はその一隊を見送ると、馬上で姿勢を正し、伍離玖と次の策を話し合った。匈奴はいったん馬に跨がると、一日中、馬上で暮らす。重要な協議も馬上で行なう。
「儂らは、やつらに貸しをつくった。だが、やつらがその恩誼に報いるとは思えぬな。また来ると言ったが、大部隊を引き連れてやって来るかもしれぬ」
「しかし、ああいった強がりは、交渉事ではよくあることです。こちらがキルクを助けたと知って、やつは傲岸不遜の態度を改めました。案外、まともなやつかもしれません。さりとて、おびただしい礼物を抱えてやって来るとは、思えませんが。それにしても、強そうな男でした」
伍離玖は、消え去った若い使者の残像を追うかのように曠野の彼方へ目をやった。
「儂らは、 やつらにとってはた迷惑な闖入者にすぎぬ。 適当にあしらって追い払おうとするのは必定。追い払われる命運は甘受するとしても、この際、水と食糧をいくぶんなりとも上乗せしたい。まずは交渉で。決裂すれば、力尽くで」
「承知しました。交渉となると、キルクにどれだけの値打ちがあるのかを知らねばなりません。その点、力尽くの方が話は早いですな」
腕に絶対の自信がある伍離玖は、交渉のような七面倒くさいことは苦手である。尤も、伍離玖は日々、北単于鷲亞留に助けられている。鷲亞留の麾下を離れた他の六氏族はすべて氏族の長が治めていることからして、伍離玖も、いつまでも北単于に頼るわけにはいかないのである。
「キルクの値打ちか…… 。待て待て。分かるかもしれぬ」
ふと思いついて、鷲亞留はボルテを呼んだ。
「ボルテ、キルクが地位ある者の息ということはなかろうか。あの使者は会うや否や、いきなりキルクを返せと言った。いまにして思うが、いかにも性急な要求であった」
ボルテを頼りにするキルクが、おのれの出自を口にすることはあり得た。ボルテは鷲亞留の傍らに馬を寄せると、
「どうもそうらしいのです。いざとなれば、キルクの属する部族は、わたしたちの軍勢を吹き飛ばせるほどの戦力があるようです」
と、答えた。
鷲亞留は伍離玖と顔を見合わせると、やれやれとばかり苦笑を交わした。
「一難去ってまた一難か……。キルクの父親は、儂らで言う諸王の一人かもしれぬな。さすれば、キルクは交渉に存外に役立つ。ああだこうだの果て、男の子一人のために食糧は出せぬということになれば、力尽くの戦いとなる。だが、そうなったらなったで、やつらはその選択を歎くことになろう」
鷲亞留は、自分たちの戦闘能力については、何の不安も持たない。衰えたとはいえ、戦闘に明け暮れた北匈奴には、何世代にもわたって培った戦法と戦術がある。
「キルクには気の毒ですが、われらが誘拐したわけではありません。交渉においてはキルクを大いに利用しましょう。かりに決裂しても、それこそわれらの望むところ」
伍離玖は腕をさすった。ボルテは俯いたまま躰を震わせている。
「ボルテ、案ずるな。キルクを殺したりはせぬ」
鷲亞留が声をかけると、ボルテはかすかに頷いた。
旅は再開された。数騎が再び先行し、再び何の成果もなく駆け戻った。相手方の動きのないままに、午後の陽は傾きを早めた。
鷲亞留は野営を命じた。
巨大な夕日が、地平線のかなたにゆっくりと沈んでゆく。周囲を赤く染める残照がついに消え果て、闇の世界が立ち戻った。
このとき、鷲亞留はふと不安を覚えた。その夜は新月であった。
( やつらは来なかった。儂ならば、単身、敵陣営に乗り入れてわが子を返せと交渉する。あの使者も、その意気込みであった。にもかかわらず、やつは来なかった。おそらく、異人種の儂らを見て、交渉の余地なしと判断したのではないか。力尽くでキルクを取り返すしかないと。初っ端から最後の手段に訴えるのは、ずいぶん思い切った策だが、じつは悪くはない。儂らはやつらを待ち、来なかったからには明日来るのだろうと、いまも何の備えもせずに待っている……)
鷲亞留は、すぐさま伍離玖および他の三氏族長を呼んだ。
「伍離玖の指揮のもと、夜襲に備えよ」
その一言で十分であった。
四
鷲亞留は闇のなかを凝視した。
咳 ひとつしない静寂のなかで、敵の夜襲部隊の密かに迫る気配がした。
(音を立てぬように工夫している。見事なものだ。やつらは、やはり夜襲に懸けた。しかも、かなりの数を擁して……)
鷲亞留は、野営地からいくばくも離れていない地点で敵勢を待ち受けていた。ことのほか緊張を覚えるのは、夜陰に乗じて攻めたことはあっても、攻められるのを待つのは初めてだったからである。
(それにしても凝っと待つのは、じつにつらいものだ)
白みはじめる半刻前、敵勢の姿が薄い闇のなかにかすかに浮き上がった。
朝暉を背にする形で、半円を描いて北匈奴の野営地を包囲していた。
野営地の焚き火の熾きは、ほのかな明かりを其処此処に投げかけているものの、全体を照らすほどではない。従って、一帯はなお暗かった。
家畜の動きはあれども、人の動きは感じられない。だれもが眠りこけ、立ち姿の不寝番も微動だにしないという油断しきったさまが装われている。
四辺がほんの少し明けはじめると、塑像と化していた敵勢は突如、その姿勢をかなぐり捨てた。
「射よ」
とでも叫んだのであろう。太い声の命令一下、敵騎兵は次々に矢を放った。焚き火を背にした不寝番の数人が棒のように倒れ、大地に転がった。
次いで、数多の火矢が野営地を襲った。が、あるべきはずの廬はなく、燃え上がる物もない。野営地内はなお森閑としている。
敵将の雄叫びとともに、敵軍勢は一斉に鬨の声を上げ、馬腹を蹴った。
多勢が野営地に躍り込み、眠り呆ける北匈奴兵の殺戮に狂奔した。
けれども、殺戮されるべき北匈奴兵はどこにもいなかった。敵兵は無人の空間のなかで馬を駆り、剣や戈で空気を斬り裂き、衝いた。
この時点で、敵は自分たちの夜襲が北匈奴側に察知され、まんまと裏を掻かれたことに気づいた。
絶望の叫び声が、野営地内を突き抜けた。敵勢が慌てて退却にかかったとき、北匈奴兵のおびただしい矢が敵方を見舞った。敵騎兵は次々に落馬していった。
朝の陽光のもと、鷲亞留は、自軍の野営地で何が起きたかを眺めた。
おびただしい敵兵の死体が転がっている。なかには、茫然自失して仲間の死体の脇に座り込んでいる敵兵もいる。
(伍離玖の功だ。伍離玖の拵えた罠は願ってもない成果をもたらした。儂はいい後継ぎを得た)
鷲亞留は、おのれの後継ぎの育ったことを喜び、勝利の味を嚙みしめた。
伍離玖は、鷲亞留から「夜襲に備えよ」との命を受けると、他の三氏族長に伝えて、深更に至って野営地を空にする策に打って出た。
廬を畳み、家族と家畜の大半を後方へ送って第二の野営地とした。第一の野営地では、無人を覚られぬように火と拵え物の不寝番の工夫をし、十分に距離を置いた地点で全戦士が馬を横に寝かせ、枚を銜ませて音を絶ち、敵の襲来を待った。
作戦が成功し、敵勢が総崩れになると、伍離玖は軍を二つに割り、一気に決着をつけるべく、一半の軍を率いて遁走する敵騎兵を追った。
馬を疾走させながらの射術で、北匈奴戦士に優る者はいまだかつて存在しない。逃げる敵騎兵が射程に入ると、ただちに矢を放ち屠った。敵勢は累々たる死体を残しつつ、ひたすら逃げ、北匈奴戦士はひたすら追った。
伍離玖が勝利を確信し、雄叫びを上げようとした刹那、おのれの浅慮に愕然としなければならなかった。伍離玖の血の気が引いた。
前方に小山のような敵の大軍が勢揃いし、伍離玖の一半の軍の来襲をいまや遅しと待ち構えていたのである。
「退けっ」
伍離玖は、遅きに失した退却命令を出した。銅鑼が乱打されると、伍離玖勢は巧みに反転し、いま来た道を一散に取って返した。
(おれは何という莫迦者か。勝利に浮かれて、深追いしすぎた。ボルテは言わなかったか。
キルクの属する部族は、わたしたちの軍勢を吹き飛ばせるほどの戦力があるようですと。そのとおりだった。やつらは、われらの軍勢の数倍はいる)
攻守所を変えた。北匈奴兵はひたすら逃げた。
尤も、北匈奴戦士には、逃げることを恥じや不名誉とする感覚はない。戦況に応じて攻めから守りに、守りから攻めに転ずることは、戦の常道である。弓矢を多用するのも同様で、卑怯とも惰弱とも思わない。
いま、伍離玖を困惑させるのは、自分たちの逃げる先に味方の半軍が無防備な態勢で、伍離玖勢の帰還を待っていることであった。
味方を巻き添えにしないためには、逃げる方向を変えるしかないが、地形を知らぬまま逃げ惑うだけでは、いずれ殲滅される。
(敵は大軍ゆえ、遮二無二というわけでもあるまい。何とか時間を稼ぎ、態勢を立て直せれば、あるいは反撃も可能か……)
脳裏に考えをめぐらすものの、じつのところは逃げるのにせいいっぱいである。
伍離玖は周りに素早く目を走らせた。北匈奴戦士の馬はさすがに速い。敵の弓矢の射程からすでに逃れ出ていた。
(いまや時間との闘いだ)
一縷の望みにかけて、伍離玖は速度を緩めなかった。馬の疲れがはなはだしい。
(いまに泡を吹いて仆れる。そうなったときがおれの最期だ)
伍離玖が覚悟を決めたとき、前方にまたもや軍勢が自分たちを待ち構えるのが見えた。
「何と賢い敵だ。挟撃のための軍勢を前もって伏せていたのか」
伍離玖は絶望の呻きを漏らした。
が、これは伍離玖の見間違いであった。もう一度確かめて、伍離玖は雄叫びを上げた。伍離玖にとっては、まさしく奇跡。それは、鷲亞留の率いる北匈奴勢だったのである。
「主上、ど、どうしてこの展開が……」
伍離玖はそこまで言って喘いだ。声が出なかった。
一方、鷲亞留は、伍離玖の軍勢の帰還を辛抱強く待っていた。それゆえ、
「話はあとだ。伍離玖、中軍に回れ」
と、ただちに命ずることができた。
鷲亞留は、いわゆる鶴翼( 鶴が左右に翼を張った形) の陣構えを取ることに決めた。
疲れきった伍離玖の率いる半軍は、楔形の突端周辺に張りついて中軍をなし、 鷲亞留と他の氏族長の率いる新手の半軍が、楔形の左右の辺をなして、敵を三方から包囲して攻めるの陣立てである。
中軍が直に敵の攻撃を受けとめねばならない危うさはあるが、反撃に転じたときの破壊力には、尋常ならざるものがある。
「陣立てを開始せよ」
鷲亞留は命じた。太鼓の音が勇壮にたたき出されると、新手の北匈奴軍は先鋒として左右に分かれ、馬を駛らせた。
追撃してきた敵の多勢を三方から囲む形を取りつつ、北匈奴騎兵は速射しながら敵騎とすれ違う。
他方、敵の先鋒は、真一文字に鶴翼の要へと突き入る。
伍離玖率いる中軍が、矢継ぎ早に矢を見舞った。弓矢の達人伍離玖を筆頭に、北匈奴戦士の弓矢の技は、あれよあれよという間に敵兵の死体の山を築いた。
ついに、敵先鋒の突進がとまった。
あまりの損耗に敵の先鋒は退こうとした。ところが、自軍の騎兵が陸続として押し寄せる。自軍の騎兵同士が衝突し、大混乱に陥った。
北匈奴兵は三方から猛烈に矢を浴びせて、とうとう敵の戦意を喪失させた。
「退路を絶つな」
鷲亞留は、敵に退却の道を与えた。敵がいよいよ死に物狂いになったとき、戦力の差からして、完璧に押さえ込むのは難しいと判断した。 敵騎兵は、来た道を命からがら駆け去っていった。
鷲亞留が戦の展開をほぼ読めたのには、理由があった。敵の夜襲部隊のなかに昼間、交渉にきた使者がいたのである。
茫然自失して、おびただしい仲間の死体の脇に座り込んでいた敵兵が、当の使者であり、しかも、キルクの兄であった。
鷲亞留は、キルクの兄から詳しい事情を聞き取った。一族の主立った者たちは、使者に立てたキルクの兄の報告を受けて、北匈奴から大量の食糧供出を要求されるに違いないとして、キルクの救出を断念した。
キルクの兄は抗弁したが容れられず、部族の長に直訴してキルク救出の許可を得た。それには、事の成否を問わず北匈奴軍を誘き出せとの条件がついた。
キルク兄弟の属する部族の長は、かつて凶暴だった北匈奴の噂を耳にし、この際、衰えた北匈奴を駆逐して、後々の憂いを取り除こうと意を決した。 北匈奴が人数を減らし、格段に衰えているという事実が、部族の長を無謀な軍事行動に駆った。
キルクの兄は、キルク救出に失敗したものの、仲間が遁走したことにより、結果的に北匈奴軍を誘い出すことには成功した。
鷲亞留はここまで聴き取って、すぐさま迎撃態勢を取った。
「伍離玖、儂は、おぬしならば敵の罠から逃げ出せるとみて、救出には向かわず、かえってこちらも罠を用意しておぬしの帰陣を待った。おぬしたちを追撃したやつらの主力軍は、返り討ちに遭うとは、夢にも思わなかったであろうな。かなり危うい橋を渡ったが、儂らには馬と弓矢がある。戦闘で負けることはない」
鷲亞留は、旅に出てからはじめて心の底から呵った。この勝利は、最晩年の鷲亞留にはいい思い出となった。
鷲亞留率いる北匈奴は草原の支配者となり、キルク兄弟の属する部族の民を配下に置いた。
草原が広ければ、万事めでたしめでたしで済んだのであろうが、鷲亞留、伍離玖とも、すぐにその草原の狭さに気がついた。新たに増えた北匈奴の民を養うにはとうてい足りない。
水も、遠くの井戸から十日以上もかけて運ばねばならないというのでは、北匈奴の離ればなれになった他の氏族にやって来いと命ずるわけにもいかない。
鷲亞留は東南の方角を眺めて嘆じ、次いで西北の方角へ視線を移して、また嘆じた。
「伍離玖、放浪の旅はまだまだ続くと見なければならぬ。儂は衰えた。儂らはしばらくののち、出立することになろう。そのときからは、おぬしが指揮を執るのだ」
鷲亞留は、伍離玖を正式に後継者と定め、ボルテには異なる言語のさらなる習得を命じた。ボルテを解放してやりたいが、北匈奴の前途は依然として霧のなかである。ボルテは、必ずしも否む色を見せなかった。
キルクが同行を望み、一族の者たちはこれを許した。北匈奴は水と食糧の蓄えを増やすと、その草原を離れた。キルクの兄が二日間も同行して、弟との別れを惜しんだ。