【エッセー】回想暫し 15 輪扁(りんぺん)の物語
『荘子』第二冊天道篇第十三(金谷治訳注 岩波文庫)に出てくる話である。ある日のこと、堂の下で輪扁が椎と鑿を使い、堂の上では斉の桓公が書を読んでいた。前者は車輪作りの名人である。後者は中国春秋時代の覇者として知られ、さまざまな奇談の持ち主であるが、とりわけ死してのち、本人の知らぬところで巻き込まれた悲惨な事件には背筋が凍る。さて、輪扁が道具を置いて堂にのぼり、桓公に語りかけた。
「おたずねしますが、殿さまのお読みなのは、どんなことばですか。」
「聖人のことばだよ。」
「聖人は生きていますか。」
「もう死んでしまわれた。」
「それなら、殿さまの読まれているのは、古人の残りかすですねぇ。」
「わしが書物を読んでいるのに、車大工ふぜいがよけいな口出しはできないぞ。申しひらきができればよし、できなければ死罪だ。」
と、話が険悪な方向に進む。輪扁は、狼狽えることなくおのれの仕事を経ての持論を述べる。
「車の輪を作るのに、削り方が甘いと〔削った穴に輻をさしこむのに〕緩くてしまりが悪く、削り方がきついときゅうくつでうまくはめこめません。甘くもなく、きつくもないという程よさは、手かげんで会得して心にうなずくだけで、口では説明することはできませんが、そこにきまった一つのこつがあるのです。わたくしはそれを自分の子供に教えることができず、わたくしの子供もそれをわたくしから受けつぐことができません。そのために七十のこの年になっても、老いさらばえて車作りをしているのです。むかしの人も、そうした人に伝えられないものといっしょに滅んでいきました。してみると、殿さまが読まれているのは、古人の残りかすだということになりますねぇ。」
輪扁の語った古人の糟魄(粕。残りかす)説は、斉の桓公にどう受け取られたろうか。輪扁が死刑に処されたとも思えず、桓公は苦笑いしつつ輪扁を堂下へ引き取らせたことであろう。
と言うのも、輪扁は車大工ふぜいかも知れないが、創造に携わる者ならば即座に納得できる一つの真理を言い当てているからである。
私の世界である文学であれ、音楽や絵画、彫刻の世界であれ、あるいは他の芸術の世界であれ、創造に携わる者は必ずや一度は目に見えない壁に行くてを阻まれるものである。順調に上昇を続けて来、だれからも名人の域に近づいたと讃えられ、自分自身もかなりのレベルに達したと実感する。しかしながら、目標はもっと上にあり、そこに至るにはどうしたらよいかを常に頭の片隅で考えている。
ちょいと片足を上げて壁を跨げばよいだけのように思えるが、見えないだけにへまをしてぶざまに転倒する惧れがある。周りの嘲笑を歯牙にもかけぬといった豪胆さはないし、再び過ったならば果たして立ち直れるか。あれこれ迷っているうちに、見えない壁は俄然、高さと厚みを増したかのようで、一歩も前へ進めなくなる。
苦しまぎれに、時間とエネルギーを徒に費やすことはない、ある程度成功しているのだからと厄介な問題を後回しにする。すると、手を伸ばせば届きそうであった目標がいつの間にかエベレストのごとき高みに鎮座して、もはや登攀すること能わずと相成る。やがてマンネリ、停滞、スランプ等々に襲われ、次第に心が蝕まれてゆく。
──あの御仁はすぐにも最高のレベルに達すると期待していたのだが、案外だったね。昨今の作品は、以前のものよりも格段に劣る。もう駄目だろうね。
などといった噂が耳に入るようになり、ついには創作そのものに押し潰される。
輪扁は口では説明できないと言ったが、息子たちに何度も何度も説いたことであろう。されど、息子たちは一つのこつを摑むことがついにできなかった。輪扁はこれを悟り、哀しくも諦めたに相違ない。
中国西晋時代の詩人陸機は、畢生の名作『文の賦』のなかで、「是れ蓋し輪扁も言うを得ざる所にして、故より亦た華説の能く精しくする所に非ず」(「輪扁でさえその妙技をことばで伝達できなかったというように、文章創作の秘められた奥義は、うわべだけの薄っぺらなことばなどでとうてい説き明かせるものではない」)(興膳宏『潘岳 陸機』)と断じている。
世のなか、人の何倍もの努力をしても見えない壁に跳ね返される例の何と多いことか。尤も、努力らしい努力をせずして、いとも容易に壁を越える者もいる。この歴然たる差はいったい何を因にして生ずるのか。
中国三国時代、魏の曹操を継いだ曹丕は文については卓見の持ち主で、『典論』論文篇で文を音楽にたとえて次のように語った。「曲目も同じ、演奏法も同じでも、息のしかたの巧拙は生れついての素質で、父や兄が子や弟に伝達することさえ不可能だ」(興膳前掲)と。素質の差がすべてだと言うのである。素質はだれにもある。されど、輪扁の言う一つのこつを摑み得る際立った素質に恵まれる者は滅多にいない。
サマセット・モーム『人間の絆』の主人公フィリップ・ケアリは、天職を得ようとして聖職者を振りだしにドイツ留学、計理事務所見習いと、あれこれに挑む。若干のお金と若さのおかげで傍目には優雅に映るが、内実は彼なりに必死になって天職を追い求めているのである。が、成果は得られない。
フィリップは背水の陣として、パリへ絵画修行に出かける。絵を描けば人並み以上に描けるゆえ、才能があるのだと思い込み、画家を夢見た。パリの二年間、親しい友らと交流しながらアミトラーノなる学校で絵画修行に励むが、他人の作品を専門用語を使って批評できるぐらいにはなったものの、おのれの絵の方はさっぱりである。なぜかと言えば、修行よりも青春謳歌に忙しかったからで、加えて周りの人々の才能に圧倒されて心が折れたこともある。
意を決したフィリップは、アミトラーノの教師フォアネに自分の絵を見てくれと頼む。フォアネは快諾し、すぐさまフィリップのアトリエへと足を運ぶ。フィリップは何枚かのおのれの絵を並べる。なかには、これはよく描けたと自己評価するものもある。
だが、フォアネは一見するや、歯に衣着せぬ口調で、才能が全然認められない、あるのは努力と聡明さだけ、平凡以上の画家にはなれまいねと、一刀両断する。さらに彼は、
「だがね、もし君が、私の意見を聞きたいというのなら、言ってあげよう。一つ、しっかり勇気を出して、なにかほかのことを、やってみるんだねえ、ひどい言い方かもしれぬが、このことだけは、言っておこう。つまり、私が、君の齢頃だった時分にだねえ、もし誰か、この忠告をしてくれたものがあったら、私は、どんなに有難かったかしれない。そして、きっと、その忠告に従ったろうねえ。」(中野好夫訳 新潮文庫)と語る。
フィリップよりも下手な画家の卵は何百人もいる。フィリップと同等ぐらいが何百人もいる。フィリップより上もまた然り。このなかから正真正銘の画家として光り輝くのはごくわずかでしかない。
フィリップはパリを引き揚げる。ロンドンの百貨店勤めでデザイン関係の絵を描いて注目されることもあったが、二流画家でも敬遠する仕事である。数人いた友らはすでにそれぞれの道を歩み、なかには死んだ者もいる。画家として残ったのは、結局、たった一人。それも二流画家として。窮地に陥ったフィリップは、必ずしも好きではなかった伯父の遺産に救われ、医師資格を得て極貧の暮らしから脱出できそうなところまで辿り着く。フォアネの忠告は極めて適切だったのである。
創造の世界では、文章が巧い、絵が巧いといった素質はいちいち語るまでもなく、その上に何が加わるのかがすべてである。たとえば、新しいものをいち早く取り込む能力もその一つであろうが、素質とはそんな小細工とは無縁、放っておいても内部から光が零れ出る体のものである。そういう光を放つ人がごく稀にいる。それとは逆に、素質がいくらかあることによって身を誤る人もいる。後者の場合、不運の極みであるし、神に対して不公平にすぎると抗議したくなる。だが、これは厳然たる事実なのである。