見出し画像

君何処にか去る 第十章(2)


 
 男も少しずつ飲んでいる。両者ともに酒に飲まれることを警戒しているふうがあった。
「お客さんは学生時代をどちらで」
 由美は、少々酔った勢いで立ち入ったことを訊ねる。
「F市です」
「あの小京都と言われるF市ですか。まあ、すてき。とても綺麗な街なんですってね。F大は、F市の真ん中に広大なキャンパスを持っていると聞きましてよ」
「ええ。そうでした。ただ、わたしはF大を中退しましたので、あまりいい思い出がないのです。どうもね、定住できない運命にあるらしいのです」
 男もまた軽い吐息をつく。
「店でお見かけするお遍路さんの表情には、重い一生が張りついています。表情で幸不幸が分かります。幸せな顔をしたお遍路さんは滅多にいません。けれども、お客さんのお顔は暗くはありませんわ。底抜けに明るいわけでもありませんが……」
「はっは。まだ修行が足りませんか」
「わたしはどう見えます」
「綺麗ですよ」
「まあ。そういう意味じゃなくって」
「寂しそうではありますね」
「よく言われます」
「そのうち、いいこともあります」
「そうでしょうか」
「そうですとも。じゃ、お勘定を」
 男はワインを飲み干すと立ち上がった。リュックサックから合羽を取り出す。雨も風も、相当に強くなっている。男は支払いを済ませると、
「久しぶりに気持ちよく飲めました。ありがとう」
 と、言って笑みを見せた。
「お泊まりはどうなさいますの」
「六十八番か六十九番の宿坊にでも転がり込みます」
「よかったら三階が開いていますのよ」
 由美は、いかなる逡巡もなく清水の舞台から飛び降りた。じつのところ、心中、仰天している。
「ありがたいですが、あなた以外にだれもいないご様子なのでね。男女七(しち)歳にして席を同じうせず。ちょっと古いかな。さりながらあなたはこの土地の人です。ご迷惑をかけるわけにはいきません」
 男は由美を見た。由美は頰を染めると、
「わたしは気にしませんわ」
 と、強い口調で答えた。
「あたが気にしなくても、周りが気にします。ご厚意だけでけっこうです」
 男はリュックサックを背負った。
「ひどい雨ですよ」
「そのようですね」
「よければ、隣家というのはどうでしょうか」
「どういう意味です」
「隣りはうちの貸家です。たまたま空いていますの」
 由美は隣りの二軒を所有している。すぐ隣りは先週、転勤になって出ていった。その隣りにはお常夫婦が住んでいる。
「ほほう」
「夜具はありませんけれど……」
「いつも寝袋で寝ています。雨露さえしのげれば、何の不足もありません」
 話は簡単に決まった。由美は男を案内して隣家へ行き、風呂やガスコンロの使い方を教えた。春から夏へと向かいはじめた季節とはいえ、やや肌寒い。
(うちの三階なら夜具があるのに)
 由美は、何かが起きてもよかったのにという思いを持続させている。二人の話し声を聞いて、お常が飛び出してきた。
「あらっ。お常さん、聞こえましたの」
「聞こえるも何も。わたしの耳は地獄耳」
 お常は男から目を逸らさない。由美はお常に紹介するべく男に名を訊ねた。
無踪むそうと言います。足跡も存在しないとの意です。姓はご勘弁を」
 男は二人を煙に巻いた。
「何やら難しいのですね」
 由美が微笑んだ。お常は由美が笑みをみせたので、男への警戒心を解いた。
「無踪さんかい。何ともけったいな。こんな変わった名をはじめて聞いたよ」
 お常にはいささかの同情もない。
「いつもそう言われます。で、ママさんを何と呼べば……」
「由美です。理由の由に美学の美です。美なんて、もうそんなことの言える歳ではありませんけれど」
「そうでしょうか。まだまだお若いし、お美しい」
「由美さん、こういうおべんちゃらを言う男には気をつけないと。真面目そうな顔をして、何を考えているか分かったもんじゃない」
 お常にかかったら、いかなる男も一刀両断される。
(得体の知れない人……。ワインをもう一本開けていれば、わたしたちはどうなっていたかしら)
 店に戻ってくると、由美はおのれの上気を鎮めるのに苦労した。
 
        五
 
 お遍路さんが朝食後のコーヒーをこの店に求めることがよくある。由美の朝は早い。七時には店を開ける。この日は休みとはいえ、日ごろの習慣はどうにもならない。朝の六時に目覚め、目が覚めるや否やすぐに起きた。
(無踪さんに朝食を出そうかしら。あの人は急ぐ旅ではないらしい)
 そう思うと、気分が明るくなった。手早く化粧すると、朝の支度に取りかかる。トースト、サラダ、スクランブルエッグおよびコーヒーという朝の献立は、ほとんど変わったことがない。サラダの中身は毎日のように変える。亡き夫の好みがご飯に味噌汁派の由美を制して久しい。いまでは、トーストとコーヒーがなければ、生きていけない。この日は、サラダ用に大根と人参を千切りにした。
 ふいに、隣家から尺八の音が鳴り響いた。鳴り響くという表現にふさわしい音量があった。澄み切った高音が、家の壁や屋根を突き抜けて虚空に拡がってゆく。ブラームス一辺倒の由美は邦楽を知らない。が、このときの音は、由美の心の奥深くに達した。生死の岸頭に立つ孤高の、あまりにも哀しい音色。由美は弦六に聴き入っていた昨夜の無踪を思い出した。
(無踪さんにとって最後に残ったものがあの音だろうか)
 由美は尺八がやんだころを見計らって、隣家に出向き声をかけた。無踪はすでに旅支度を終えていた。由美は、無踪とともに店のテーブル席で朝食をとった。
「あなたは、行ってしまいますのね」
「はい」
「ずいぶんあっさりした旅立ちですこと」
 つい、恨み言が口をついて出る。
「いまはそうでも、少し経つと、あれでよかったのだということになります。末期の眼という言葉があります。そこまで行かなくても、半歳後の眼で見るようにすれば、人生あやまることはないようです」
「そんな人生で面白いのでしょうか。過ったからといって、人に迷惑をかけるわけではありませんわ」
「そうかもしれませんが、過ちからは離れていた方がいいのです」
「二、三日あとになさったら如何です」
 由美が誘っても、無踪は頑なに首を横に振り、
「美味しいコーヒーですね」
 と、話題を変えようとした。
「無踪さん、ご覧になって下さい。この眠ったような町を。わたしは、この小さな小さな町で残りの人生をおくらねばなりませんのよ」
 由美は、いかにしても感情の昂りを抑えられない。
「由美さん、人生は、その折り折りの気の持ちようで愕くほど変化するものです。あなたが明るい太陽になれば、それにふさわしい連中がたくさん集まってきます。そのなかから誠のあるやつを選べばいいのです。さすれば、あなたの後半生は悲しくもなければ、寂しくもありません」
「そんなことを言っていただいても、何の救いにもなりませんわ。第一、そんな人が現われるはずがないじゃありませんか」
 目が潤んでくる。
「あなたが本気で望むならば実現します」
「無踪さん、あなたにそのお言葉をそっくりお返ししたいですわ。なぜ、あなたは一所不住なのですか」
「わたしとて、好き好んで漂泊の人生をおくっているのではありません」
 無踪はあくまで冷静である。
「これからどちらへ……」
「とりあえずこの四国の地を歩きます。いずれは備前や信濃、肥後へ行くことになるのかもしれません。現代風に言うと、岡山、長野、熊本ということになります」
「何か目的があるのですか」
「あると言えばあるし、ないと言えばないのです。由美さん、いろいろありがとうございました」
「とんでもありません。せめて、お昼をご一緒してから発たれたらいかがですか」
 由美は、未練と思いながらも言ってしまう。
「いいえ。君子は危うきに近寄らずと言います。わたしは君子とは縁なき衆生ですが、この場合、君子でなくても危うきには近寄らない方がいいのです」
「では、せめてそのあたりまでご一緒してお見送りしますわ」
 由美のたっての願いである。無踪は苦笑を泛かべると諾した。
「先ほどの尺八の曲は何というのですか」
「残月といいます。幼いわが子を亡くした母親の歎きをうたった曲です。じつに悲しい曲です」
「心に染み入る曲でした。わたしは邦楽を知りませんでしたが、いい曲があるのですね。やはり師匠につかれて稽古なさったのですか」
「はい。喜多川道友師と言われて、その音は凄かったです。わたしなんぞ足下にも及びません。もう亡くなられたでしょうけれど、もう一度お目にかかりたかったですね」
「異なる師匠につくということはないのですか」
「わたしの耳に師の音がはっきり残っておりますので、別の師匠なんて考えられないですね」
 由美は無踪と話を交わしながら、亡くなった夫のことを思い出す。この地に帰郷したころの颯爽とした理論家肌の夫を。
(あの当時、同じ年代のだれよりも輝いていた。地方銀行に入行し、高校で同級だったわたしと恋愛し、結婚した……。あのころ、未来はばら色だった。それが、どこでおかしくなったのか。夫は作家をめざした。いい線までいったことが逆に夫を追いつめた。いけると踏んだ夫は銀行を退職し、二人で喫茶店を経営しながらひたすら創造に時を費やした。一作出来上がるといくつかの出版社の新人賞に応募し、落選した。また創ると応募し、また落選した。これを何度も繰り返した挙げ句、自棄を起こして夫は自滅していった)
 最晩年の夫は愚痴しか口にせず、由美はうとましい思いを御しかねたのだった。朝食後、二人は観音寺町へ足を向けた。無踪が第六十八番、第六十九番の札所よりも、古い町並みを見たいと言ったからである。
 観音寺町とは旧市街である。細い露地を挟んで、幾星霜を経た古びた商店が佇んでいる。なかには、かつての豪商を思わせる本瓦葺きの豪壮な邸宅が目につくものの、ただ古いだけの建物も多かった。
「無踪さん、この町並みは如何ですか」
 無踪と肩を並べて歩きながら、由美は心のなかの鈍い痛みと闘っていた。
「あなたの店の付近もそうですが、町並みの連続していないのが残念ですね。二ブロックくらいでいいのです。格調のある古い町並みに統一できたならば、もっと観光客がやって来ます」
「地元では、そういう意見がよく出るのです。でも、整備しようにも先立つものがありません」
「たしかに、住民の立場になれば、観光客のために生きているわけではありません。古い建物が維持できなくなれば、取り壊すしかないのが一般でしょう。ここは丸亀藩領でしたか。京極家は近江の名門でした。いつの間にかこの四国の一角を治めていたのですね」
 無踪は立ちどまると、一軒一軒を愛しむように眺める。
「無踪さんは、何でもよくご存知ですね」
「大したことはありません。行く先々で雑多な知識を仕入れるだけのことです。由美さん、そろそろお別れします。あなたはまだ若いのですから、太陽のような輝きを周囲に振りまいて下さい。皆が悦びますし、あなたにとってもいい結果となりましょう。いいですか、プラスエネルギーはプラスエネルギーを呼び込み、物事はどんどんよくなっていきます。逆に、マイナスエネルギーは、マイナスエネルギーしか招きません。これを心して下さい。幸せになろうと思うなら、たったいまから幸せになることです」
 無踪は一礼すると、由美を置き去りにした。由美はその背を見送った。いまにも崩れ落ちそうになりながら、由美は意志の力でおのれを制した。帰宅して隣家を覗いた。床の間に白い封筒が置かれていた。由美の面が輝いた。なかに書簡と宿泊代が入っていた。達筆の部類に入る無踪の手跡であった。
 ──備後びんご葛原くずはら勾当こうとうという箏の手練れがいました。明治の初めごろまで生きた人です。勾当というからには盲人なのでしょう。この人に、〈あまりさびしきに〉と題して、〈酒もあり 餅もあるなり 夕時雨〉の句があります。酒も餅もあるからこそ、よけいに寂しいということはあります。しかし、酒も餅もないのは、もっとつらいことです。由美さんの温かいもてなしを受けて、わたしは幸せでした。今後もお健やかにおすごし下さい。 無踪
 由美は読みながら、自分の手にする書簡がぶるぶる震えているのを意識した。
(無踪さんは、半歳後の眼で見るようにすれば、人生過ることはないとおっしゃった。過ちはないかもしれない。その代わり光り輝くこともない。無踪さん、そんなふうな後半生でよろしいのですか。わたしは豊饒な時を得る機会を失ったように感じます)
 由美は、不思議な生き物を見るように震える書簡を凝視みつめ続けた。

いいなと思ったら応援しよう!