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君何処にか去る 第七章(2)


 
 虎之助は、どういう経緯でこの立派な屋敷に住むようになったかを無念に説いた。肩で風を切るように歩いていたその市会議員を一度だけ見かけたことがある。それだけが両者の接点であった。
 無念は関心を示さない。部屋中をゆるゆる眺めながら時折、問いを発する。雑音に耳を貸さない職人気質丸出しで、頭のなかに設計図を描ているかのようである。大きな物置のなかには、前住人の日曜大工道具やら棚板やら角財やらが残されていた。虎之助がその内部を観察したのは、これがはじめてである。
「けっこう揃っている。前の持ち主は普請に熱心な人だったのかな」
「そうかもしれぬな。とにかく、いまのところ、この屋敷はおれのものであって、おれのものじゃない感じがする。思い切って現代風に改造してくれ」
 虎之助は費用のことがちょいとだけ気にかかったが、この男ならば法外な額は要求すまい、と懸念を脳裏から追い出した。
 無念は仕事をはじめた。毎日、せっせと働いている。静子の言では、雨漏り修理をいの一番に仕上げ、床下に移って白蟻に食われた柱に防蟻処置と補強を施した。次いで、水回りの点検を終えた。これらの作業に三日間を費やし、明日から各部屋の補修に取りかかるという。
「あれだけ働いて兄さんの半分も食べないわよ」
「何を言いたい。おれのは力仕事だ」
「無念さんもよ」
「労働時間が違う。おれは無念さんの倍は働くからな」
「御託を並べても通じないわよ。要するに兄さんは食べすぎ。そのおなかを見なさい」
 言われて、虎之助は少々出っ張ったおのれの腹を撫でる。それからというもの、虎之助は帰宅すると、静子や子どもたちからここがどうなって、あそこがどうなったと詳しく報告された。それだけならいいが、すぐに見ろと要求される。
「おれの身になってみろ。ものを言うのも大儀なのに」
 しかし、静子が柳眉を逆立てるので、虎之助はやむなく重い腰を上げる。見ると、無念は玄関から順番に取り組んで、一日一室と決めているかのように着実に完成させていた。
(やはり、おれの見込んだとおりの男だった)
 満更でもない気になった。半月も経つと、いくらのんきな虎之助でも気づかないわけにはいかない。穴の開いた床や波を打った床がきれいに張り替えられ、ドアの開閉はスムーズになり、母親の居室や台所、風呂、トイレに手すりがつき、何よりもどの部屋も見違えるように綺麗になった。
「ううむ。無念さんはいい腕をしている」
 虎之助は妹のために喜んだ。
「そうよ。まだまだよくしてくれるらしいの」
 静子は明らかに興奮している。一家の主婦として真底嬉しいらしい。
「ねえ、虎之助や。無念さんは独身かねえ。静子をもらってくれないものかしら」
 母親までがそんなことを言い出した。虎之助は当惑した。子どももいつしか無念になついている。虎之助にしたところで、無念がその気になってくれれば、それに越したことはない。されど、虎之助は知っている。風来坊は好きで放浪しているのではないことを。
「無念さん、おたくは定住する気はないのかね」
いまのところ、虎之助は、無念の人間に困った点を見出していない。無念は酒を少々嗜むが、煙草と博奕はやらないようである。尺八と読書のほかは、静子との散策を愉しんでいる。女が嫌いでもないらしい。
「定住か。その気のないことはない。しかし、虎之助さん。これが不思議なんだが、定住する気になると、何かしら事件が起きるのだ。毎度、駄目になる」
 このときばかりは無念は暗い顔つきになった。無念は虎之助の紹介を受けてある大工の棟梁と親しくなり、余った材料を格安の値段で頒けてもらっていた。つまり、虎之助の懐は大して痛んでいない。あまりに悪いからと小遣いを与えたり、一緒に酒を飲んだりした。無念は一定量以上は決して飲まない。虎之助も無理強いしない。
(この男は、酒の恐さを知っている。ぴたりとやめるところなんざあ、見事だ)
 四旬を経て、無念はついにやり遂げた。虎之助邸は面目を一新した。要するに見てくれが格段によくなった。内外とも綺麗になり、おまけに住みやすくなった。コンセントの増設やら棚の取り付けやら、細かい改善点まで挙げれば、無念がどれだけ手を加えたかは、数え切れないほどである。
「全部で、どれくらいかかったのかね」
 虎之助の問いに無念は片手を挙げた。
「五十万円か」
「まさか。一桁違う」
「一桁違うって五百万円じゃないだろ。だったら、五万円じゃないか。そりゃあ、安すぎる。無念さん、おたくの取り分がもう少しあってもいい。それが嫌ならおれは何か礼をせねば……」
「お礼はとっくにいただいた。虎之助さん、おたくはわたしの生命の恩人だ」
 無念はあくまで謙虚である。
「おたくは、何とも勿体ない腕だ。これからどうする」
「もし、ここに引き続きおいてもらえるなら、しばらくあの大工の棟梁さんのところの仕事を手伝いたい。家賃と食費は支払うことを条件に」
「おれはかまわぬよ。離れはどうせ空いているんだし、おたくがその気になってくれると嬉しいねえ。静子君、つかぬことを伺うが……」
「わたしはかまわなくってよ」
「お二人にそう言っていただくと本当に助かる。明日からわたしも通いの身か」
 無念は珍しく笑顔を見せた。
「どっちが早く帰宅するか。ま、おたくは、静子のために早く帰宅してやってくれ」
「まあ、兄さんったら」
 静子がになって逃げ出した。
「旅の暮らしのなかにも、野には花があり、空には鳥がいた。ましてや、あなた方と知り合いになって、わたしがいかに感謝しているか」
「へっへ。おれは湿っぽい話は苦手でね」
 虎之助はさっさと話を打ち切った。内心、静子が無念と共にする将来に期待している。
 

 
 事件が起きたのは、それからちょうど二週間後の晩である。虎之助は、だいたい午後七時から八時までの間に帰るようにしている。その時間帯ならば、子どもたちと接触できる。
 その日の帰宅もいつもと同じ頃合いであった。無念の姿はなかった。子どもたちと遊んでいる無念を見るのがつねであったから、あれっと小首を傾げた。
「いつもの顔ぶれが揃わないのは、寂しいものだな。無念さんは珍しく残業か。それとも、棟梁さんところで酒でも呼ばれたろうか」
「そのどれかなんでしょう。残業なら仕方ないけど、お酒だったら嫌ねえ。無念さんも、兄さんと一緒でそのあたりルーズなのかしら。ああ、無念さんよ、なんじも人の子だったか」
 静子は冗談めかして歎いてみせた。
「無念さんの酒は、限度きっかりでとまるぜ。酒にルーズなのはおれだけだ。おそらく残業だろうな」
 虎之助はそう答えつつ、
(おかしいな。静子の様子がいつもと違う。静子は妙に勘が鋭いからな。無念さんが一杯機嫌で帰ってきて、一件落着とはいかないようだぜ)
 と、嫌な予感に襲われる。案の定、待てど暮らせど、無念は帰ってこなかった。虎之助は、静子に大工の棟梁宅へ電話させた。その結果、無念が午後五時に仕事を終えて、真っ直ぐに帰途に就いたことが分かった。
 虎之助はさすがに胸騒ぎがし、思い余って、離れの貸し主としての権利を行使した。部屋のなかを覗くと、荷物はむろんのこと、尺八も床の間にきちんと立てかけてある。下着がきれいに畳んで置かれているのは、静子の仕事であろう。
「警察に電話しようかしら……。きっと事件に巻き込まれたのだわ。いまどき、轢き逃げやら暴力沙汰やら何でもあるもの」
 静子の顔色が変わっていた。
「女や子どもならそうせずばなるまい。だが、無念さんは男だ。躰は大きくないが、あれで力はおれと同等ぐらいある。おまえは事件に巻き込まれたっていうが、巻き込んだやつがえらいやつを巻き込んでしまった、と音を上げるだろうよ」
 とうとう午後十一時をすぎた。虎之助の家族は、全員が朝型人間である。夜更かしは翌日の仕事に差し障る。やむなく、虎之助は眠ることにした。子どもたちはとっくに白河夜船しらかわよふねである。虎之助は、車のとまる音でもしないかと耳を凝らした。が、さっぱりである。眠らないで待つであろう静子のことは、考えまいとした。そのうち寝入った。
 翌朝、目覚めるとすぐに離れを覗いてみた。状況に変化はない。無念は帰宅しなかったのである。虎之助は、静子にちらりを視線を走らせる。目の下に隈ができて、徹宵したことは一目瞭然であった。
「兄さん、警察に連絡します」
「うむ。そうしてくれ。いくら無念さんでも、その気になれば電話くらいできるからな。やはり何かあったのだろう」
 ご飯を掻き込みながら、虎之助は諾した。そのとき、電話が鳴った。虎之助は、静子と顔を見合わせた。出てみると、愕いたことに中村警察署からだった。虎之助は、無念の死体の検死に立ち会わされるのだと一瞬思った。電話の内容は、無念さんのことでご足労願いたい、詳しいことはそのときに話すというごく簡単なものであった。
「無念さんは無事なんですか」
「無事も何もわたしたちを翻弄しています」
 電話の相手の苦笑が見えるような科白(せりふ)である。あとでわかったことだが、無念の上着のポケットにメモが入っていて、大工の棟梁の電話番号が書かれていたことから、虎之助に辿り着いたものらしい。
 虎之助は、すぐさま静子とともに警察署へ出向いた。同署は、市街地から離れたところにある。繁華街は、土佐くろしお鉄道中村駅の北側にあるが、同署は南に位置するのである。尤も、虎之助がトラックを駆れば数分もかからない。中村市の市域は狭かった。
 刑事生活安全課は同署の三階にあった。虎之助は警察署なるものが苦手である。免許証書き換えのときに訪れるぐらいで、あとは敬して遠ざける。これは虎之助ばかりでなく、だれもが同じであろう。折衝を静子に任せたのも、静子がもと中学校教員をしていたからで、彼女はなかなか弁が立つのである。虎之助は事件の顚末を聞かされた。聞けば聞くほど何とも納得できかねる警察の措置であった。


 
 事件は、前日の午後六時ごろに起きた。いまだ早い時刻とはいえ、ある種の犯罪には十分すぎるほど、夕闇があたりを覆っていた。若い女Aが家路を急いでいると、中村愛宕町の小路で背後からいきなり肩にかけたバッグをひったくられた。Aは転倒して軽症を負った。たまたま通りかかった中年の女が大声を上げたので、あたりは騒然となった。
 ──そっちへ逃げたぞ。捕まえろ。
 ──向こうへ行ったぞ。
 と、古典的な捕物劇が繰り広げられた。人々が路地という路地を塞いだので、犯人は袋の鼠となった。パトカーがかけつけて、すぐさま路地の暗がりに佇む男二人を発見した。一人は高校生、もう一人が無念だった。
 ──犯人はこいつだ。ぼくは見ていた。
 高校生は同じことを何度も絶叫した。無念は終始、無言。警察は、無念よりも高校生に注目した。高校生が犯人を捕まえたのならば、その高校生が無念の手なり腕なりを摑んでいなければならない。ところが、反対だったことを目撃者が証言した。加えて、バッグは高校生の腕にぶら下がっていた。
 全員が身柄を警察署に移された。高校生によるひったくりという単純な事件で終わるはずが、しかしながら、意外な展開を見せた。高校生が市議会議長の息子であることが判明し、駆けつけた市議会議長が息子の主張を容れて、無念の犯行を力説した。ここから話がややこしくなった。
 被害者Aは犯人は無念よりもずっと背が高かったと主張し、Aを助けた中年の女も犯人は細身の背の高い男だったと証言した。
 両者の言い分は真っ向から対立した。警察は、難事件でもないし犯人逃亡の惧れもないとして、調書を作成し終えると、無念を除く全員を解放した。無念独りが割を食った。無念が沈黙を貫いたからで、逃亡の惧れありとして、その晩、留置された。これが、初老の刑事の話した事件の概要であった。
「刑事さん、おかしいじゃないですか。無念さんは、犯行とは何の関係もないんでしょ。犯人の高校生が帰宅を許されているのに、犯人を捕まえた方が留置されるなんて、あなた方はいったい何を考えているんですか」
 静子は、敢然として刑事に食ってかかった。虎之助は恐い顔をして腕組みして座っていた。虎之助の場合、それだけでゆうに役割を果たしている。静子一人ではこうはいかない。
「岡虎之助さん、やむを得ぬ措置だったのです。こちらとしても、したくてしたのではありません。いちおうひったくり犯の疑いを受けているわけですから、こちらが彼の住所、氏名、年齢、本籍等々を訊ねるのは当たり前です。本人が頑固に黙秘したから話が複雑になっただけなんです」
「別に複雑になったとは思いません。犯人は高校生だったんでしょ。疑わしい人間が二人いて、目撃者は背の高い方が犯人だったと証言してるんです。つまり、無念さんが留置されねばならない理由は一つもなかったんですよ。あなた方は、善良な市民を違法に逮捕したことになります。マスコミに漏れてもいいんですか」
 静子はだんだん腹が立ってきたらしい。金切り声を上げた。
「そう難しく考えてもらっては困りますな。じゃ、お訊きしますが、無念さんはいかなる理由で黙秘されたのですか。ひょっとして、捜索願の出されている当の本人かもしれません。あるいは逃亡中の犯罪者かもね。逃亡者が捕まるのは、えてしてこういう単純な事件からなのです」
「まあ、まるで無念さんを逃亡者と決めつけたような。無念さんはひったくり犯を捕まえたんですよ。それなのに黙秘したから留置するなんて、権力の濫用もはなはだしいじゃありませんか」
「しかしね、一般人が黙秘を貫き、住所、氏名、年齢、本籍すら答えないという例は、あまり聞いたことがないのですね。すねきず持つ者でないとね。こちらとしては、何かあるなと考えざるを得ないのです」
「その考え方がおかしいと言っているのです」
「あなた方のご不満は尤もです。しかし、失礼なたとえで恐縮ですが、仮に殺人犯が逃亡していたとしたらどうなりますか。一旦、身柄を確保しておきながら、まんまと逃げられたでは、市民を守るべきわたしたちは、世間の物笑いになります」
「無念さんはそんな人ではありません」
「世のなか、殺人犯がいわゆる善人だったりする例がたくさんあります」
「そんな発想だから、冤罪がいつまで経ってもなくならないんです」
 静子の声がさらに甲高くなった。刑事は大仰に溜め息をつくと、
「どうでしょう、あなた方が無念さんの住所、氏名、年齢、本籍を代わりに答えていただくというのでは……。そうすれば、すぐにお帰りいただけます」
「答えたくありません。答えなければならない義務はありません。わたしの学生時代の友人のなかに高知新聞の記者をしている者が何人もいます。無念さんを早急に釈放しないならば、警察の横暴を記事にしてもらいます。それでもいいんですか」
 静子はまくし立てた。
(わが妹ながら大したものだ。刑事に負けていないものな。高知新聞の記者が何人もというのは、はったりだろうが)
 虎之助は、静子の交渉術にひたすら感心している。刑事がこいつめとばかりに静子を睨みつけた。さすがに鋭い視線である。虎之助はどうやら自分の出番だとみて、
「刑事さん、無念さんの身元はおれたちが保証しますから出してやって下さい。おれはそろそろ仕事に行かないと、おまんまの食い上げになる」
 と、おだやかに申し出た。刑事が上司から呼ばれた。高知新聞云々のはったりが効いたらしい。刑事は上司とひそひそ話を二、三分したあと、戻ってくると俄然、口調を和らげた。
「岡虎之助さんに身元保証人になっていただくという条件で、無念さんには帰ってもらうことにします。それで異存はありませんね」
 これ以上逆らうと、それこそ話がややこしくなりそうである。虎之助は保証を引き受けた。手続き終了後、十数分待たされた。
(こんなに待たせるのは、警察さんの体面を保つためだろうな)
 虎之助は当たりをつけてさほど焦(あせ)らない。
「市議会議長の息子だからといって、手加減するのはおかしくありませんか」
 この間、静子は、なお戦闘モードを持続させている。
「われわれは、法律に基づいて粛々と仕事を実践しております」
 初老の刑事は官僚的模範回答を返した。やがて、無念が姿を現わした。虎之助や静子を見ても愕くことなく軽く頷いた。髯が伸びていた。変化はそれだけで、ショックを受けたふうは全然見られない。
(ふつう、警察に留置されたら、いっぺんに元気をなくすものだが……。無念さんは、はじめてではないな)
 虎之助は、無念の強靱な精神を目の当たりにした。反抗に生命を懸けるといった悲壮感はさらさらなく、あくまでも冷静なその表情(かお)は、
 ──思わぬ災難に遭ってしまって……。
 と、物静かに語っていた。


 
 無念は手早く旅支度を調えた。虎之助は、離れの隅っこに座り込んで茫然としている。泣き疲れた静子は自室に閉じ籠もった。
「無念さんよ、行ってしまうことはなかろう。風来坊は去ってゆくのが、運命(さだめ)とは言え」
 虎之助は、これで何度目かの同じ言の葉を口にした。無念は力なく首を横に振った。
「前にも話したように定住の思いを抱くと、何か事件が起きてその地にいられなくなる」
「しかし、今回は警察の暴走だぜ。市議会議長の顔を立てたんだ。おたくには何の咎(とが)もない。ずっとここにいて何が悪い」
「虎之助さん、そうはいかないのだ。わたしの血には、ご先祖の恨みやら悲しみやら怒りやらが色濃く引き継がれている。ふだんはできる限り眠らせておくが、忘れたころにこうした事件が起きて元の木阿弥になる」
「いったい何のことだね」
「言っても分かってもらえぬだろう。もう百年近くも経つ。国家権力に対する怨念が消えることはないのだ」
「百年近くって、それなら曾祖父ひいじいさんか祖父じいさんのころの話じゃないか。おたくと何の関わりがある」
「関わりはない。しかし、わたしの血が関わりがないとすることを許さないのだ。怒りが煮えたぎって……」
「おたくは学があるから難しく考えすぎるんだよ」
「虎之助さん、お世話になった。静子さんにも」
 虎之助がどのように説き伏せようとしても、無念の意志は強固だった。
「これからどこへ行く。足摺岬なら送ってゆくぜ」
「わたしは勤勉な歩き遍路ではない。この両の足がどちらへ向くのか、わたし自身にも分からない。わたしの可愛い遊び友だちには、無念さんは急用ができて行ってしまったと伝えてほしい」
 無念は、孤影悄然として旅立っていった。静子は立ち直るのに二週間も要した。それからしばらくして、虎之助は、静子を誘って四万十川の堤防沿いを散策した。
「なあ、静子。おれの考えるところじゃあ、百年近く前に無念さんの先祖に大事件が起きたのだ。あれだけ警察を毛嫌いしているからには、大変な事件だったんだろう。無念さんは孫として曾孫として、先祖の恨み、悲しみ、怒りを忘れることができない。だから、警察で黙秘を貫いた。一言だって口を利くものかというわけだ」
「いったい、何があったのでしょう」
「それが分かればなあ。いや、分かってもどうにもならないか」
「きっと、無念さんは、侮蔑と偏見と冷笑にさらされながら生きてきたんだわ。お気の毒に」
「おまえが無念さんと共に暮らすようになっていたらどうなったろう」
「尺八で、あんなすごい音を出す人ですもの。わたしの理解できない世界を持っていたことはたしかだわ。普通の家庭にはならなかったでしょうね」
「そうだな。風のように去っていった。おれたちの家を綺麗にして」
「わたしね、便利なったところを撫でながら無念さんを思い出しているの」
「また帰ってこないものかな」
「そのころには、わたしはお婆ちゃんになっているわ」
虎之助は、両の腕を突き上げて伸びをした。
(あの男は徒歩だ。近辺をくまなく捜せば、まだ見つけられる。しかし、見つけたところで帰ってきはしない。無念さん、達者で生き延びろ。また会うこともある。それまで、静子が独り身を守るかどうかは判らぬが)
 川の真ん中あたりで陽の光が乱反射してまぶしかった。虎之助は、無念を知らぬころの刺戟のない半分眠ったような日常が回帰したことを意識した。
「台風一過か」
「何のこと」
「無念台風」
「兄さんらしくもなくうまいことを言うわ」
 虎之助は静子の目に涙を認めたが、慰めるすべを知らなかった。


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